快楽の街、その259~剣の風③~
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「くそっ、どこいきやがった?」
「落ち着きなよ、ケイマン!」
「これが落ち着いていられるかってんだ!」
朝のターラムの大通りで怒鳴るのは、ターラムの闘技場で戦う獣人のケイマン。セイトの会話で剣の風がこのターラムにいるかもしれないと知ってから、ケイマンは正気を失ったかのようにその影を追い求めていた。もはや剣の風から受けた屈辱も恐怖も忘れていた。いや、むしろ忘れるために奔走していたのかもしれない。剣の風が傍にいるかもしれないと考えただけで、平静に戻ることはできなかった。
仲間を失ってからは、大切なものを作らないように生きてきた。あの場所で生かされた意味、それはおそらく剣の風の気まぐれでしかない。だが奴はいつもどこかで見ている。そんな気がしてならなかった。
もし大切なものを作れば、順番に奪われるだろうという確信があった。最初はロザンナの姉だった。それから、こちらに出てきてから知り合った諜報員たち。彼らが順番にいなくなったからこそ、ほとんど何の功績もない自分が繰り上がりで一帯の責任者になったのだ。
任務の性質上仕方ないと考えていたが、よく考えればこんなおかしな話があるはずがない。いかに獣人に偏見があるとはいえ、それなりに腕が立ち用心深い諜報員たちが、どうして事故や病気で死んでいくのだろうかと。いや、死体を確認しなかっただけで、ひょっとしたら事故を装っていただけかもしれない。もはやこの街で私事を話し合えるのは、ロザンナくらいとなった。その可能性に考え付いた瞬間、酒と博打で怠惰になった自分にも、湧き立つような怒りがまだあったことを思い出した。
それでも剣の風を探すつもりはなかった。剣の風に勝てる見込みなどなかったし、正直関わりたくなどない。左腕と左脚を差し出しただけでもう十分すぎる対価を払った。グルーザルドでの出世は閉ざされ、獣人としての名誉も失った。もうこれ以上何も奪わないでほしいと思ったのに、酒場であの声が聞こえたのだ。
「黙して語るな」
ケイマンは薄れゆく意識の中で、確かに剣の風と思われる声を聞いていた。恐ろしい光景に似合わず、静かなあの声が逆に恐ろしいと思った。だから特徴のない声なのに、今でもはっきりと覚えている。その声が、先ほど酒場から出ていく一団の中から聞こえたのだ。
おそらくは、名のある傭兵団だろう。全員足さばき一つとっても普通の人間ではなかった。その中に、何食わぬ顔をして混じっているのだとしたら。ただの現象として戦場に現れるよりも恐ろしいことが起きるのではないかと考えたのだ。
今、正体を突き止めねばならない。そうでなければとんでもないことが起こる。その直感がケイマンを突き動かした。そしてロザンナの制止も振り切って走るケイマンの前に、男がふらりと立ちはだかった。
「おっさん、俺たちに何か用か?」
男から殺気はなかったが、警戒心は如実に見て取れた。そして背後にもいつの間にか彼の仲間がいた。敵意を見せれば一瞬で襲い掛かる。その状態になるまでケイマンは気付かなかった。夢中だったとはいえ実戦を離れて久しくなると、ここまで勘が鈍るのかとケイマンは歯ぎしりした。追っていたはずの相手に、周囲は既に囲まれていた。ロザンナは身を固くして、ケイマンの左手にしがみついていた。
正面の男は冷静に、しかし油断なくケイマンに問いかけた。
「俺たちのあとをつけまわすなんて、度胸あるじゃねぇか。俺たちが誰か知っててやったのか?」
「・・・いや」
「まぁワタシたちって、誰も団章の入った服なんて来てないしねー。そりゃあわかんないよね」
「お前はいつもだろ、ミレイユ」
「失礼しちゃうなぁ、カナート。ワタシは自分に似合うように裁断しただけだよ。団長が着ろっていうならそうするさ。ワタシの戦い方的に? 半袖で丈も短くないと無理だもん」
背後に立っていた獣人の女がぷりぷりと怒っていた。ミレイユと呼ばれた名に聞き覚えたあったせいで、ケイマンははっと我に返った。
「お前、『閃光のミレイユ』か? ってことは、まさかお前たちはブラックホーク?」
「・・・その通りだけどさ、そりゃ軍にいた時の二つ名だよ。随分と昔の話だけど、それを知っているってことは、おっさんは軍人上がり、もしくは今でもつながりがあるってことかい?」
「そうだ、俺はお前たちに――」
ケイマンは伝えようとした。ブラックホークの団員内に、ひょっとしたら剣の風がいるかもしれないと。その瞬間ケイマンの左腕が勝手に動き、仕込んでいた爪で傍にいたロザンナの胸を突き刺していた。ロザンナは驚いたように振り向き、ケイマンに――の表情を向けていた。ケイマンは自らの行動に訳がわからなかったが、ロザンナの表情を見て全てを悟った。
叫ぶことはままならない。ケイマンはロザンナの体を突き上げると、無造作にミレイユめがけて放り投げた。ミレイユはロザンナをしっかりと受け止めると、同時にカナートが踏み込んでいた。
「何してやがる!」
カナートはケイマンに戦意を失わせる程度の傷を負わせるつもりだった。だがケイマンが左脚で地面を捕えると、その踏み込みは想像以上に鋭かった。既に抜いていたカナートは、今更止まることはできなかった。
続く
次回投稿は、4/9(日)14:00です。