快楽の街、その173~報復㉓~
「むぅ、まさかここで終わりか? その程度の特性であれば未練も少ないが、それにしても奇妙な――いや、さりとて狂戦士となったアナーセスを止めるのも一苦労であるし。もう少し粘ってくれれば――は、無理よな」
バンドラスが無理と言うのも仕方ない。頭を掴んで引き上げられたレイヤーの両腕は一目でそれとわかる程破壊されていた。右腕はあらぬ方向に曲がっているし、左腕にいたっては肘から折れた骨が飛び出ていた。左脚は千切れかけており、無事なのは右足だけだが、既に太い鉄の棒が突き刺さっており使い物にならないことは明白だった。
見れば腹も肉が裂けて内臓が見えるほどの裂傷を負っている。まだ息はかろうじてあるが、出血の程度からも致命傷であり、いかなる回復魔法でも今すぐ処置しなければ死ぬのはわかりきっていた。すぐそばにシェンペェスが突き刺さっていることを考えれば、自分の身を呈して剣が折れるのを防いだということか。剣士としては模範的だが、その代わりに自分が致命傷を負っていたのでは話にならない。
バンドラスは一気に自分の熱意が冷めるのを感じた。確かにレイヤーの特性は見たことがないものだろうが、アナーセスに負けて死ぬようであれば、所詮はそれまで。特性は生きてこそ光るのだ。ただ希少なだけでは、集めるに値しない。けしかけ、そして余計な横やりを入れたせめてもの詫びとして、バンドラスはレイヤーの死を見届けようとした。
そして理性のなくなったアナーセスは、レイヤーの頭を掴んだまま、人形のようにレイヤーを地面に叩きつけ始めた。四肢が千切れ飛ぶのも時間の問題かと思われたその時であった。アナーセスの手首があらぬ方向に曲がり、すっぽ抜けた手からレイヤーが放り出された。
***
レイヤーは薄れゆく意識の中で考えていた。まずはシェンペェスを守ること。剣士であるならば、自らの剣を大切に考えられない者は剣を持つべきではないとラインに言われた。剣で命を守るなら、同じように剣の命を守ってやれと。決して剣を粗雑に扱うなという戦場の教えだったのだが、レイヤーが手にするのは意志ある魔剣だ。まるで人のようであるシェンペェスを、レイヤーは徐々に、他人とは思えなくなっていた。
受けにシェンペェスを使わなかったのは意図したことだし、剣を折られないように放り投げたのも意識しての行為だ。だが剣を放りだした後で、どうやって戦えばいいのかまでは考えていなかった。シェンペェス抜きで、あの鋼鉄のような体に傷を付けることができるとは思えない。レイヤーは剣を拾い行こうとして、四肢がまるで動かないことに気付いた。
それどころかいうことを聞く部位は一つもないし、腹の傷はいつ負ったのかわからないが、致命傷なのはわかった。すぐに縫合しても、助からないほどの傷だ。動けなければ死ぬことは明白だったのに、思った以上に頭は冷静だった。思えば、それほどレイヤーは自分の生に執着を持ったことがない。こんな時にふと浮かんだのは、アルフィリースの顔と、次にエルシアとゲイルの顔だった。
エルシアとゲイルは独り立ちを始めているし、その先が楽しみではあっても、そこまで見届けたいとは思っていなかった。だがアルフィリースは違った。彼女の歩むその先を、自分がその剣で切り開かねばならないと思う。そうしたいし、そうすべきなのだという確信があるのだ。倒すべき敵はきっと他にいる。そのためにも、こんなところでこんな雑魚に構っているわけにはいかない。
ならばどうするべきか。腕力で勝てないなら、いますぐ上回ればいい。腕が動かないのなら、いますぐ治せばいい。なんだ、簡単なことじゃないないかとレイヤーが考えた瞬間、彼の意識は深い海のような場所に落ちた。浅くて透明な白い海。底は見えないのに、なぜか立つことができた。見据えた先には、アルフィリースが一人で歩いている。周囲にはイェーガーの仲間がいたが、彼らは途中で歩むのを止めてしまった。アルフィリースの周囲からは一人、また一人と人がいなくなり、彼女はついに一人で歩き出した。その先には、果てしなく大きな波が迫っている。レイヤーは夢中で傍にあった剣を振るい、波を切り裂いた。巨大な波を切り裂くなどまるで現実感のない光景なのに、波を切り裂いた瞬間にアルフィリースが振り返ったその表情を見た時、レイヤーの中に光明が差した。
赤子が初めて目を開ければこのように眩しいのだろうか。あるいは、ピレボスの山頂から日の出を見れば、これほど輝いているのだろうか。ただ一つわかるのは、例えようもない美しい女性の輝きを、自分がその剣で切り開いたということだけだった。
覚醒したレイヤーの眼前には、涎を垂らした醜悪な男の顔があった。その男の顔を見た時にレイヤーに浮かんだ感情は、ただの嫌悪感と、憐れみにも似た感情。こんなことにしか力を使えないなんて、なんて情けない――そんな感情が沸き上がると、感情に従ったまま伸ばした手はアナーセスの右手を捩じり壊していた。
放り出されたレイヤーは天井に叩きつけられたが、そのまま指の力で天井に張り付き周囲を伺った。真っ先に目に入ったのはシェンペェス。レイヤーはシェンペェスに飛びつき、剣を構えた。シェンペェスには珍しく、慌てた様子の声が語り掛けてきた。
続く
次回投稿は、10/22(土)10:00です。