快楽の街、その167~報復⑰~
「お客様、誠に申し上げにくいのですが・・・」
「用件はなんだ、さっさと言え!」
「ひいっ!」
アナーセスが突然怒声を発したので、男はさらに卑屈になりながら答えた。
「当館の男娼は『それ』で打ち止めでございます。これ以上は――」
「無理だと言うのか? そうならないように努力するのが館長の務めだろうが。なんなら、貴様が俺の相手をするか!?」
「ひ、ひいぃ・・・滅相もなく」
その場の平身低頭して震える館長を見ると、アナーセスはその頭を踏み抜きたい衝動に駆られたが、さすがにそこまではせず衣服を身につけた。
「冗談だ、貴様のようなたるんで脂ぎった男に興味などないわ!」
「はひ、おっしゃる通りで」
「ふん、金は置いていってやる。わかっているだろうが、他言は無用だ。こいつらが今後どうなってもな」
「そ、それはもう・・・」
館長も後ろ暗いことがあるのか、アナーセスの無茶な要求をあっさりと飲んだ。アナーセスは苛立ちを隠さないまま娼館を後にすると、既に陽は中天を超えるところだった。一睡もせず戦い、その後男を抱いたわけだが、アナーセスの体力は尽きるどころか怒りを種にさらに燃え上がっていた。このまま辺境の戦いに放り込まれれば、三日三晩寝ずに戦えるだろう。そのくらいの勢いがある。
アナーセスが苛立ちながら歩いていると、ふと周囲が暗いことに気付いた。先ほどまで明るかったはずだが、屋根のある一画に迷い込んだようだ。ターラムの裏路地には日中でも陽の射さない場所はいくらでもあるが、ターラムの裏路地を相当歩いたアナーセスでも全く知らない路地だった。こういう場所にはつきものの怪しい連中や汚物をあさる鼠すらおらず、ただひっそりとしている。その場所に突然、一輪の美しい花が咲いた。
「御機嫌よう、屈強な戦士様」
「お前・・・」
目の前には暗がりから現れたファンデーヌが立っていた。突如として暗がりに現れた美女を、一輪の輝く花と見まがえるのもしょうがない。光の全くない場所で見るよりも、木漏れ日程度の光ですらファンデーヌは輝いて見えた。これほどの女には、アナーセスは早々であったことがない。人生でも三本指には入るだろうか。ただ一つ間違いないのは、これから散々弄んで壊してしまうことだけであった。
「わざわざ俺の前に現れるとは、どういう了見だ?」
「いえいえ、殿方を焦らすのは女の嗜み。でも満足させないのは、私の主義に反してましてよ?」
「ほう? 今度は俺が満足するまで付き合うと言うのか」
「さぁ、満足するのは私かもしれませんが」
ファンデーヌが優雅な笑みを浮かべながら、背中から鞭を取り出した。前回のと同じく黒い鞭だが、太さが違う。以前よりもやや細く、表面に光沢があるように見えた。
アナーセスはその鞭を見てせせら笑う。
「ふん、以前よりも細い鞭だと? そんな武器で俺を倒すつもりか?」
「さあ、どうでしょう?」
変わらずのらりくらりとした言葉を前にして苛立ったアナーセスが一歩前に進むと、ファンデーヌの右肘から先が消えるように動き、アナーセスの肩に鋭い痛みが走っていた。見ると、痛みと一致した場所にはささくれのように皮膚がめくれ上がり、血がわずかながら滴っていた。
ほんの小さな傷である。だがアナーセスの眼が驚きに見開かれた。
「俺の皮膚を傷つけるだと? その鞭は一体」
「鎧蛇――その中でも特に強い、金剛種と言われる魔獣の皮を使って作った逸品よ。表面にある無数の凹凸が、当たった相手の皮を剥ぎ、肉を削ぐ。いかに頑強であったとしても、人間の体表の硬度には限度があるわ。鎧ごと相手を抉ることのできるこの鞭、あなたにも通じるようね?」
「ふん、しゃらくさい!」
自信の笑みを浮かべたファンデーヌに対し、アナーセスは一直線に走り出した。この路地はそれほど広くない。せいぜい横幅は10人が同時に通れるかどうか程度の広さしかないし、天井も自分の背丈の倍と少し程度である。こんな狭い場所では鞭は存分にふるえないだろうことは明らかだった。アナーセスは背中の戦斧を出せばなお不利になると考え、あえて素手でファンデーヌを仕留めに行った。
だがファンデーヌはアナーセスと同時に前に踏み出した。こればかりはアナーセスも意外だったので、思わず飛びつく腕に歯止めがかかる。間合いを離すのが常套手段の鞭使いなのに、この行動は予想外。だがその理由はすぐにわかる。ファンデーヌが自身を中心として、独楽のように鞭を動かし始めていた。その速さたるや、鞭の残像で楕円形の黒い竜巻が迫ってくるかのようである。この狭い路地では逃げようがない。だからこの場所を選んだのかと、今更ながらアナーセスは感心した。
目の前にできた小さな竜巻をなんとかしようとアナーセスは不用意に手を伸ばしたが、一瞬で掌の皮と肉が抉られたのを見て数歩飛びずさり、今度は戦斧を大上段から振るった。回転はその軸が弱いはずだが、戦斧がファンデーヌに当たる直前、今度は竜巻がほどけファンデーヌが目にもとまらぬ攻撃を仕掛けてきた。半分までは瞬間的に見切るアナーセスだが、あまりの速度に半分は無防備に受けてしまった。
まだ戦いに支障はない程度の傷だが、ファンデーヌはまたしても竜巻を作る準備をしている。そしてさらに左手には、別の鞭が握られていた。その鞭はまたしても違う種類で、奇怪な形をしていた。鞭の部分が妙に細く、先端には蛇の頭のようなものが付いていた。
続く
次回投稿は、10/10(月)10:00です。