快楽の街、その143~快楽の女王㉘~
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フォスティナは夢の中にいるような感覚に捕えられていた。確かに視界は開けているが、思い通りになることは何一つない。指先一つ動かせないのに、体は動き視野が絶え間なく動いている。ぬるま湯の中にいるような感覚に包まれ、どこか心地良ささえ覚えるような曖昧な感覚の中、フォスティナは女の声を聞いた。
「ふふふ、ごめんなさい。体を借りているわ。だって、私の館で勝手に気絶しているのだもの。しょうがないわよね?」
「う・・・だれ?」
「名前はないの。リビードゥというのは勝手にドゥームが付けた名前だし、蜜月もかつての娼館長が付けた名前なの。捨て子だった私には名前すらないわ」
「お前が」
フォスティナはここにおいて失敗したとわかったが、既にどうしようもない状態だった。目の前にはいつかの少年が剣を抜いて立っている。このままで確実に殺してしまうことがわかったが、今更どうすることもできない。もがこうとするフォスティナを嘲笑うように、リビードゥが語った。
「私は館にいる人間の心を読んでその隙を突くのだけれど、それにしても面白い人生ね、貴女。貴女が課された訓練の数々は、どれも常軌を逸したものばかり。子どもの頃に泣き叫ぶ貴女の姿が目に浮かぶわ。あなたの父親は異常ね。剣で身を立てる時代は終わったでしょうに、それでも剣を捨てられなかった。よくぞ狂っていない、いえ、死んでいないものだと思うわ。何人か死んでしまった人もいるわよね?」
「・・・」
「その挙句、宮廷での功無しとして直轄領と身分の剥奪。あなたの父は貴族の世界で生きていくには向いていなかった。世の中に放り出されたあなたは傭兵に。傭兵として功は成したけど・・・ふぅん。あなた、『遺跡』を探しているのね? 遺跡に眠っている力を探して、何をするつもりなのかしら? よからぬ考えを抱いてそうね?」
「良からぬかどうかは知りません。ただ、私は今の貴族制度に関しては納得できないところもあります。ただその解決策が思いつかない。どうすればよいのか、その解決策を探しているだけです。あとは単純な興味ですか」
「ふふ、その発想は今の世界を壊しかねない危険もあるわ。いいでしょう、この戦いが終わったら貴女の考えに従って遺跡を探してみるのも面白いかもね。私にもその発想はなかったから、興味があるわ」
「同意をいただけるのは結構ですが、あなたは――」
リビードゥの過去が濁流のようにフォスティナの意識に流れてきた。リビードゥは物心つくころから、食事をするのと同じように男女の営みの手管を教え込まれた。最初は覗き穴から見ることから始まり、彼女に与えられた部屋は、客室の合間にある隠し部屋だった。そこの覗き穴から四六時中男女の営みを観察し、言葉よりも早く褥の技術を覚えていった。もちろん技術の一環として政治、経済、金融、医術、裁縫などあらゆる知識を吸収したが、それらは全て娼婦としての技術を活かすための修得にすぎなかった。
そして年端もいかぬうちに水揚げされ、以後順調に彼女は娼婦としての地位を確立していく。他国に比べて自由と呼ばれるターラムの法だが、その法律の目の届かぬところでリビードゥはひっそりと育てられた。美しく、歪んだ樹はその枝を伸ばし、やがて娼館そのものを絡めとっていく。客を喜ばせることだけを教えられ、そのどんな歪んだ欲望にも応えてきたリビードゥ。その中には当然、人の法や倫理に触れるものもあったが、そもそも人としての倫理観を教えられていないリビードゥには躊躇いがなかった。その技術が人の命にまで及んだ時、娼館はリビードゥの追放を目論むが、あべこべにリビードゥによって全員が始末された。フォスティナが見たのは、リビードゥに逆らった人間たちが娼館内の秘密の部屋に押し込められ、泣き笑いながらリビードゥを褒め讃えるまで苦痛で、快楽で拷問されていく光景。確かに、リビードゥは一つの世界の女王となっていた。
リビードゥとその取り巻きが死なせた人間が千を超えるころ、彼女は一つの警告を受け取った。どこからともなく届けられた、一つの警告。活動を自重するように促したその警告文を、リビードゥは軽んじた。女王である自分に命令できる者などいないと考えたのだ。次に届いた警告は、リビードゥの罪状と行為を細かく綴ってあった。どこでその事実を知ったのかがリビードゥにも不思議だったが、それらを悪いことと考えられなかったリビードゥは放置した。そして次に警告を見たのは、リビードゥが十字架に打ち付けられて火あぶりにされる直前だった。人々の怨嗟の声、それらを背にリビードゥの前に立ったフードの人物。リビードゥはそれを見て、理解した。自分は一つの世界の主であったが、このターラムの女王ではなかったのだと。ターラムの支配者は別にいて、自分はその逆鱗に触れたのだと理解した。
そしてもう一つ、決意もあった。いずれ彼らにも私の世界を教えてあげよう。だって、こんなにも淫靡で享楽的で、命がなくなるのも関係ないくらい楽しいのだから。だからリビードゥは、火あぶりになって死ぬ瞬間まで笑い続けた。だって、楽しかったから。たとえ肉体が滅んでも、その意識だけでも自分の行為は続けられると確信があった。リビードゥの姿が炭になって崩れ落ちるまで、観衆は恐怖に震えてその姿を見守ったが、恐怖は彼女が死んだ後にも終わることがなかった。
続く
次回投稿は、8/23(火)14:00です。