快楽の街、その140~快楽の女王㉕~
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「なんだ、壁の様子が変わったぞ?」
「それにこの揺れは何?」
「・・・気配が変わった。急いだ方がいいかもしれない」
部屋一面に脈動する血管が走り、部屋が全体的に揺れ動き始めると同時にジェイクの足が速まり、レイヤーは怯えるイルマタルを抱えて走り始めた。ジェイクはもはや魔法陣を探すことすらしない。すれ違いざま無造作に剣を壁や床、天井に刺し、傷つけた部分に次々と魔法陣が浮き出てきた。そしていくつにも分かれていた通路が次々と消滅していく。意味の分からないレイヤーにとっては不思議な光景だったが、ジェイクの感覚が研ぎ澄まされていくことだけはわかっていた。レイヤーはジェイクの背中を守ることすら半ば忘れ、ただその剣を振るう様を見守っていた。
「ジェイク、これは何が起こっている?」
「詳しくはわからないが、時間がなくなってきていると思う。目くらましだけ潰して、最短で本体のところに向かう」
「本体の位置がわかるのか?」
「ああ、はっきりと。相手も焦っているけど、俺たちのことを取るに足らない相手と思っているんだろう。あるいは他にも気を配らないといけないか。どちらにしろ好機だ、やるなら今だけど――」
ジェイクの足がぴたりと止まる。確かに進むべき廊下は一直線に伸びている。そしておそらくは廊下の向こうに見える扉の先に、リビードゥの本体がいることまでわかる。だがあまり広くない廊下が彼らの行く手を困難にする。せいぜい三人がすれ違えればよいところだろうか。考えれば、元は娼館なのだ。いかに豪奢に飾ろうとも、宮殿とは違う。今までのようにだだっぴろい部屋や廊下がどうかしていたのだ。そんなことにも気づかなかったとレイヤーは己の不明を恥じたが、問題はその狭い廊下の壁や天井から出現した無数のリビードゥだった。
もはや取り繕うことはやめたのか。おそらくは先ほどまで使役していた肉壁を乗っ取ったのだろうが、それにしてもかろうじて女性の形を保つだけのぶくぶくとしたしまりのない体を曝し、優雅とはかけ離れた憎悪に満ちた真っ赤な眼でジェイクたちを睨んでいた。
ジェイクがまさか恐れたわけではないだろうとレイヤーは考えたが、時間をかけないためには止まっているわけにはいかない。
「ジェイク、どうした? 突破するぞ」
「・・・いや、そう簡単にはいかない」
「? さっきまでの勢いはどうしたんだ」
「わからない。わからないけど、これは俺には難しいんだ。いや、できないわけじゃない。難しいとしか表現しようがないと言うか」
「?」
レイヤーにもイルマタルにも、ジェイクの言葉の真意は不明だった。おそらくはジェイクにすら不明なのだろうが、レイヤーの決断は早かった。
「ならジェイク、イルの護衛を頼む。騎士なら得意だろ?」
「どうするんだ?」
「僕が突撃する。全力で道を開くから、しっかりついてきてくれ。もし相手の出現が無限だとしたら、一回の突撃で目標まで突破する必要があるだろう。他を気にする余裕はないから、しっかり背中を頼む」
「おう」
ジェイクの言葉と同時に、レイヤーがシェンペェスと自らの剣を抜いた。銘のない剣だが、ラインと共に選んだ剣を信頼できる鍛冶に頼んで鍛えなおしてもらった剣である。レイヤー自身も剣の打ち直しに参加しており、納得のいく出来に仕上がった逸品である。事実、ここまでの戦いでほとんど欠けもしていない。
レイヤーから殺気が吹き出た。思わずイルマタルも青ざめ、ジェイクですら一歩後ずさる迫力である。目の前の敵の群れに集中するレイヤーは、もはやそんなことに気を配る余裕はなかったが。
「よし、行くぞ!」
レイヤーが猛然と地面を蹴った。ジェイクはレイヤーに言われた通りその背中を守るつもりでいたが、ジェイクもまさか剣を振るうことすら忘れることになるとは思いもしなかったのである。
***
「あら? あららら?」
エネーマは突然館の様相が変わっていくことを注意深く観察していた。館を探索しようにも相当面倒なことはわかりきっていたし、変化がどのようなものか見定めていたのであるが、館の内部が明らかに狭くなったことを考えると、どうやら状況は自分に有利に働いているようだった。
最悪、この館ごと全てを吹き飛ばすつもりでいたので、その手間が省けてよかったとさえ思っている。だが、この内部の変容は何かの生物の体内にいるように感じられた。
「ヒドゥン、外の様子を見ることは可能かしら?」
「少し待て」
ヒドゥンは外に残した使い魔の視点を通して様子を観察した。霧がより濃くなり視界を阻害するが、ヒドゥンはただの視力だけではなく、温度の変化や魔術の密度などの要素を観察するなど、観方を変えて外の様子を観察した。
すると、館から巨大な生物の手足が生えて動いているのが見えたのだ。
「・・・なるほど、どうやら霧の生物がこの館を動かしているようだな。我々はその生物の体内にいるのかもしれん」
「へえ? じゃあ最初っからそうだったのかしら。それを気付かせないなんて、かなり周到に用意された結界ね。もしかしてそのために城だった? それにそんな巨大な魔獣、どうやって用意したのかしら。ひょっとすると、幼体の頃から育てたとかかしらね。もしそうだとしたら、相当昔からこの結末を考えられていたということなのか・・・たまたまだったのなら相当面白いわね」
「どちらにしろ問題なのは、この状況をどうするかだ。この魔獣の侵攻を食い止めるべく人間たちが動いているようだが、早々できはしないだろう。やるなら中にいる我々だが、何か策はあるか?」
「そうねえ・・・いっそ逃げちゃえば面白いかしら?」
エネーマが悪戯っぽく笑いながら答えたが、ヒドゥンはそれが本心でないことに気付いていたので、厳しく睨み返していた。その反応に、エネーマはつまらなそうにため息をついた。
「もう、冗談の通じない男ね。これが生き物なら話は早いわ、心臓か頭を潰して終わりよ」
「どうやって探す?」
「あなた、何のための魔術なの? 血を操るっていうのは、ただの謳い文句ではないのでしょう?」
「・・・なるほど、そういった力の使い方は考えたことはなかったな。他人の能力なのに、頭の回る女だ」
「初めて褒めてくれたわね。ただ、さっさとやってくれるとありがたいわ。あまり怪物の胃の中なんてのは気分の良いものじゃなくてね、できればさっさと出ていきたいわ」
「同感だ、初めて気が合ったな」
ヒドゥンはエネーマに素早く同意すると、自らの手首を切って血を地面に垂らした。その血が地面の血管の中に入り込むと、あらゆる方向に巡っていくのをヒドゥンは感じ取っていた。そしてしばらく瞑想すると、ヒドゥンがゆっくりと目を開けた。
「わかったぞ。頭と心臓、どちらから行く?」
「心臓と頭は何個ずつかしら?」
「・・・ふん、心臓は5つで頭は1つだ」
「じゃあ頭ね。私に嘘はつけないわけだけど、こういう言い方をするあたり油断できないわあなた。そういうの、好きよ?」
「変態女に褒められても嬉しくはない」
「あら? たまには褒めておかないと、後でいびる時に面白くないじゃない」
「・・・お前に何か期待をした方が間違いだった」
ヒドゥンは心底失望した顔をすると、その表情に満足したエネーマが鼻歌でも歌いかねない勢いでヒドゥンの指し示す方向に歩き出したのだった。
続く
次回投稿は、8/17(水)14:00です。