快楽の街、その121~霧の中の遭遇④~
膝が突然折れたリディルを心配し、フォスティナがのぞき込む。油断していたわけではなかった。ただ、一瞬の気のゆるみ。突然飛びかかってきたリディルの目は暗く絶望に覆われ、フォスティナすら映していなかった。リディルの手がフォスティナの喉を締め上げ、抵抗すると衣服が破けて肌が露わになった。その瞬間、フォスティナが固まったのがいけなかったのか。それとも、全てはターラムに渦巻く淫靡な霧が悪かったのか。
「リディル、やめて――」
フォスティナは悲鳴を上げなかった。どんな訓練にも根を上げたことのない誇り、そしてこんなところをみられると自分もリディルも社会的に終わるかもしれないことへの恐れ。そして女であることの羞恥心。
フォスティナは抵抗しようとしたが、リディルの人とは思えない腕力の前になすすべもなかった。そしてどうしてこんなことになったのだろうと呆然と考えながら、ただ天井を見上げていたが、天井にまでご丁寧に描かれた男女の睦合いの絵がどこか滑稽に見えていた。
***
「順調だね」
「順調すぎるくらい」
レイヤーとルナティカはアルフィリースたちの後始末をしながら、そう話し合っていた。出撃すること三度目。大きな反撃にも遭わず、アルフィリースたちはオークの群れを狩っていた。その数は一度の出撃で200以上にも上ったが、逆に回数を重ねても何の対応がないこと、無策としか思えない彼らの行動が、かえってアルフィリースたちを慎重にさせていた。
ルナティカは下調べをしてからの出撃を申し出、アルフィリースもそれに同意したが、レイヤーは直感で何の危険もないことを悟っていた。むしろ、嫌な感じはターラムの中の方に強い。
レイヤーがちらちらとターラムの方を気にするせいか、ルナティカが見かねて話しかけてきた。
「気になる?」
「・・・ごめん、そうなんだ。この外には何もない気がする。北には危険を感じるけど、それ以外じゃ何も危険を感じない。むしろ、ターラムの中の方が嫌な感じだ」
「それは私も同じ。イルマタルと探索をしていたことに関係ある?」
「あるような、ないような。でも行くならあっちだ」
「なら、行くといい」
ルナティカの言葉にレイヤーは目を丸くしたが、ルナティカは問題ないと告げた。
「そもそもレイヤーの行動は、建前はただの荷物持ち。その才能を見込んで私が勝手に運用しているだけ。ここは問題なさそうだし、あなたの行動を制限するものは何もない。私が許可する。行くといい」
「でも」
「馬上のエアリアル――特にシルフィードを駆る時のエアリアルは私でも一苦労。夜間とはいえ、オークに遅れをとるとは思えない。それに、迎えも来た」
「迎え?」
ルナティカが指さす先には、ユーティが空を飛んでくる姿がある。
「大変よー!」
「どうした、ユーティ」
「ターラムの霧の中に、やばい魔物が沢山出現してきたわ。今はまだ建物の中には押し入ってくる様子はないけど、これからどうなるかわからない。霧のせいで様子もわからないし、霧の中は大混乱でもおかしくないわ。
イルマタルも突然起きてきて、危険を伝えてきたわ。今は中に残ったイェーガーのみんなも、少しづつ住人を誘導しながら街の周辺部に避難しているわ」
「中に入ったオークは?」
「あらかた掃討が済んだみたい。だけど霧の中には突入できずに困っているわ。霧の外で対抗している人たちもいるみたいだけど、だんだん霧の勢いが元に戻っているみたい。
イルはレイヤーの剣が必要かもって言ってる。戻ってくれる?」
「そういうことなら」
イルマタルが呼ぶなら、とは言わなかった。魔術に関するイルマタルの直感と言うか、造詣は既にレイヤーは目の当たりにしていた。精霊に直に触れあえる種族というのか、まさに生まれ持った感覚なのだろう。わずかな根拠から次々魔法陣や仕掛けを見抜く能力は、魔術に対する知識を持たないレイヤーにも、凄まじいことくらいはわかっていた。だがイルマタルはその能力のなんたるかすらわからず、ただ謎解きをする程度のつもりで能力を行使している。下手に能力を意識すると、よからぬ意志を惹きつける。その能力に伴うイルマタルの自我が確立されるまで、レイヤーはそっとのその成り行きを見守るつもりでいた。
レイヤーは踵を返すと、ターラムにまっすぐに向かった。その速度たるや、シルフィードとの駆け合いにも応じることができるだろう。ユーティも飛ぶように走るレイヤーについて行くのが精一杯であり、慌ててターラムへと戻るのだった。
***
「ついてきてはいないか?」
「はい、ボス。追跡の気配はありません」
「よし、小休止だ。ここでバンドラスを待つ」
ヤトリは生き残った手勢と共に、自分の拠点を脱出していた。建物ごと火をつけたこともそうだが、燃え盛る火と煙の中、敵の姿をとらえることができなかった。相手はあの状況で悠然と狩りを行っていたのだ。少なくとも、自分達よりは忍耐強いと思い、相手の用意した状況で戦うのは振りだと感じ、逃げに徹した。幸いにして、一度は振り切ることに成功したらしい。
逃げる際、バンドラスのみに通じる笛を吹いた。まさかの時は鳴らせとバンドラスから渡されていたものだ。ヤトリが子どもの頃から姿形の変わらない得体のしれない爺ではあるが、バンドラスは少なくとも仲間の中では最も頼りがいのある人物だった。ゼムスの仲間がなんとか仲間の体をなしているのも、バンドラスの力によるところが大きい。どうしてそこまでバンドラスがしてくれるかはわからないが、バンドラスいわく、自分たちは『唯一対等に話せる者たち』だそうだ。理由はわからないが、ヤトリはありがたくその存在を利用させてもらうことにした。
既に近くまで霧が迫っている。ヤトリは仲間を連れて拠点に入ると、簡易の結界を張らせた。これで霧の侵入を防げるし、誰かが入ってきたら感知することくらいはできる。そこでバンドラスを待つことにしたのだが、ほどなくして結界が鳴り、バンドラスがやってきた。
「何の用かの? お楽しみの最中だったのじゃが」
「すみませんね、ご老体。わざわざ呼びつけて。火急の要件だったもので」
ヤトリはできるだけ平静を装ったが、バンドラスはちらりとヤトリの背後を見て事情を察したようである。
「部下の数が減ったようじゃが、関係あるかの?」
「強敵に襲われました。恥ずかしながら、逃げてきた次第で」
「ヤトリよぅ。おぬし、鈍ったのぅ」
「商売にばかりかまけていますからね、否定はしません」
「違う違う、そうではない」
バンドラスは残念そうな顔でヤトリに向けて首を振った。その表情は失望とも侮蔑ともつかなかったが、ヤトリはバンドラスのそのような表情を見たことがなかったので、判断に困った。
バンドラスは戸口から離れず、油断なく告げていた。
「おぬし、自分の部下の区別もつかんほど耄碌したのか?」
「なんですと?」
「一人、明らかに違うのがまじっとろうが」
「なっ」
バンドラスの指摘に、ヤトリは後ろに飛びのいた。その瞬間、残っていた11人の部下のうち、3人の首が宙を舞った。やったのは、部下の女。無表情なその顔が、鮮血に染まっていた。
降り注ぐ血にも微動だにしないその無表情とは裏腹に、女の口調は感情に富んでいた。
続く
次回投稿は、7/10(日)17:00です。