快楽の街、その114~快楽の女王⑬~
ラニリはさっとプリムゼの前に立つと、小さく言葉をつぶやいた。すると伸びてきた霧が掻き消え、再び周囲は静かな深い霧に包まれた。怯えるプリムゼと、険しい表情になるラニリ。周囲を得体のしれない化け物に囲まれたような気分になり、二人はその場からまるで動けずにいた。気づけば、建物を背にして立っている。
「ラニリさん、いったん建物の中に逃げましょう」
「建物の中が安全とは限らないわ、ただでさえターラムは魔窟なのだから。それより、ここからなら私たちが馴染みにしている宝飾店が近いわ。なんとかそこまで行きましょう。霧だけなら、魔よけの魔術程度でなんとか振り払えそうよ」
ラニリがそういった途端、彼らの周囲から猛獣のような唸り声がいくつか聞こえてきた。街中に猛獣などいるはずもないが、明らかに得物を求めるその声を聞いて二人の恐怖心が加速する。
いつの間にか二人は駆け足になり、プリムゼは半ば全速力になっていた。口を押えて悲鳴を上げなかったのは、淑女としてのせめてもの矜持であった。プリムゼは正面しか見ていなかったが、ラニリは黒く長い髪を振り乱しながら時に背後を振り返って何かを唱えていた。
「ラニリさん、何を!?」
「知る必要はないわ! 走って!」
余裕のないラニリの声。まさに今命が危ういのだとプリムゼは知り、青い顔で街を駆け抜けた。体力訓練など娼婦には必要ないと思っていたが、今はそれにすら感謝する。踵の高い靴に足を慣れさせていたのも幸いした。靴を脱ぐ余裕など、本当に切羽詰まるとないことをプリムゼは知ったのだ。
「見えました!」
「戸を開けて!」
プリムゼが取手に飛びつくが、夜更けで施錠されているせいか頑として扉は開く気配を見せない。それが死刑宣告のように感じられてプリムゼは絶望したが、ラニリはあっさりと窓を叩き割り、手を突っ込んで窓の鍵を外していた。だが窓は小さく、小柄なプリムゼが入るのがようやくだった。
プリムゼは一瞬で自分がどうするべきか察すると、ラニリが組んだ手を支えにして窓に飛びこんだ。だが窓枠に引っ掛かった衣装が邪魔で思うように中に入れない。焦れば焦るほど、体が思うように動かない。そして力いっぱい引っ張るとプリムゼは宝飾店の中に転がるように入ったが、その瞬間に足首をひねってしまった。
「痛っ!」
「大丈夫?」
「え、ええ。なんとか歩けます。今扉を開けますね」
プリムゼは扉を開けようとして、絶望した。扉は中からも鍵を使用しないと開かない造りになっていたのだ。自分が入った窓は、小さなプリムゼでなんとか通る程しかない。ラニリは細身だが身長はそれなりに高く、彼女の体格では通ることは不可能だ。プリムゼは咄嗟に店内を見渡したが、暗くてよく中が見えない。他の入り口を探すのは困難であった。
「ラニリさん、待ってください。すぐに入り口を――」
「・・・いえ、プリムゼ。手遅れだわ」
ラニリは周囲から獣のような声がなくなっていくのに気づき、何が起こっているのかを察した。獣は、より強大な獣に得物を譲る。二つの強大で邪悪な気配が近づくにつれ、他の気配は去っていった。霧の中から突如出現した、先ほどの涎を垂らしながら襲ってくる、明らかに正気を失くした住人が自ら退くのだ。どれほど危ない相手が近づいてきているのか、容易に想像できた。そして相手は気配を消すこともなく、まっすぐこちらに向かってきている。まるで逃げれるものなら逃げてみろとでもいわんばかりの行為だ。ラニリは自らの運命を察した。
ならばとるべき行動は決まっていた。ラニリは自らの懐に忍ばせていたお守りとピアスを外し、プリムゼの方に放り投げた。
「プリムゼ、一度しか言わないから聞きなさい。扉からまっすぐいくと裏口があるわ。そこから出て、黄金の純潔館に戻りなさい。挫いた足でも半刻はかからないはずよ」
「ラニリさんは!?」
「私は別の方法で帰るわ。でも、とりあえず時間を稼ぐから。そのお守りの封を解きなさい。そうすれば隠形の術と同じ効果が得られるから。黄金の純潔館で独り立ちした娼婦は危険にも晒されるから、身を守るために持たされているお守りなの。
そしてピアスは私の娘――ラーナに渡して頂戴。駄目な母親でごめんなさいって」
「そんな!」
それではまるで遺言のようではないかと言おうとして、プリムゼははっと口をつぐんだ。素人のプリムゼにもわかる邪悪な気配。職業柄人を見る目を養う自分たちだが、どんな嫌な客や歪んだ欲望を持つ客でも、あれほどの禍々しさは放たない。死刑囚や罪人の類にも修行の一環として面通しをさせられる彼女たちだが、それにしても邪悪に過ぎた。世の中には妄執や無念をもって死ぬと悪霊になると言うが、まさにそのものではないか――
プリムゼは声を上げずに動き出した。それがラニリの行動を無にしない方法だと悟ったのだ。足は思うように動かないが、痛みはどこかに消えていた。悔しくて、それ以上に怖くて、痛みはどこかに消えてしまった。
そして残されたラニリの前に、相手が姿を現した。地味な茶色のローブに身を包んだ明らかに魔術士とわかる男と、鎧のような筋肉に身を包んだ大男だった。ラニリは恐怖心を押さえて毅然とした態度で対応した。そして同時に、魅了の魔術を全開で二人に向けた。無論、彼らの注意を自分に引き付けてプリムゼを逃がすためである。
「何の用かしら?」
「嫌だなぁ、聞くだけ野暮でしょう? 隣の人を見ればなんとなくわかりそうなものですが」
ラニリは大男の下半身に視線を落とし、こくりと頷いた。
「まるで盛った犬ですね。ここは天下の往来ですよ? 往来で客を取る娼婦もいますが、もっと控えめで暗い場所にいるでしょう。私がこんなところで客を取る女に見えて?」
「お高く留まるのはよしなさいな。あなた、人妻の匂いがしますよ? 夫がいるくせに娼婦として客を取っている段階で、十分下衆な行為ですよ。それに子どももいますねぇ・・・女の子、かな?」
「な、なんで・・・」
言い当てられ動揺するラニリに、魔術士風の男――ダートは続けた。
「私の鼻は人の何倍も敏感でしてね。一目見ておおよその経験人数とか、年齢とか、わかっちゃうんですよね。ああ、女性限定ですよ、もちろん。衆道の気なんてこれっぽっちもありませんから。ちなみにアソコの匂いをかがせていただければ、具体的にどんな男にどこでいつ抱かれたまでおよそわかりますが、やってみせましょうか?」
ダートがべろりと舌を出したので、さすがのラニリもひっ、と悲鳴を小さく上げていた。大男の方にはどうやら魔術が効いている。バンシーの自分が放つ前回の魅了の魔術だ。野生の獣すら魅了するものを、どうしてこの男は平然としていられるのか。防御魔術を使う暇はなかったはずだし、そもそも魔眼は抗魔術することも不可能だ。
考えられるとすれば――
「最初から狂っている――のね」
「はは、大当たりですよ。生まれた時からこんな私には、世界の方が狂っているとしか言えませんが。同類以外で私のことを一目見てそうだと見抜いたあなたは、最高の女性です。お礼に、麻酔なしで解体してあげますよ。この大男に犯されながらね。
ちなみにいち早く正気を失ったり死んだり、私の意にそぐわぬことをした場合は、さっき逃げた少女をどこまでも追いかけてもっとひどい目に遭わせます。ご理解いただけましたか?」
ラニリは返事をしなかった。いや、できなかった。ただ一つ、青くなりながらその場に立ち尽くすことが返事になった。ダートは歓喜と興奮に紅潮し身を震わせ、アナーセスはすでに正気を失ったのか、じりじりと服を脱ぎながらにじり寄っていた。
ラニリは目の前の光景に徐々に現実感を失くし、プリムゼの無事をせめて祈りながら、ラーナのことを考えていた。無事に魔女としての修業を終え、大人になったラーナが帰ってきて、自分と夫と、三人で仲睦まじく暮らす光景。そんな、ついにありえなかった理想を考えながら。
続く
次回投稿は、6/26(日)18:00です。