快楽の街、その89~ターラムでの闘技場にて㉓~
「俺、言われた通りのことはやったぞ? あれ以上は無理だ、かなり危険な戦いになる。そこまでする義理はない」
「――?」
「そりゃああんたに力をもらって、召喚用に魔獣も借りたさ。だけど、ほとんど使えない連中ばかりじゃないか。あれほどの強さの人間相手には、足止めにもなりゃしない。もっとさっきの薬を魔物に使ってくれりゃあ、まだ何とかなったかもしれないが」
「――」
「なんだと? それじゃあこちらが勝ってしまう? お前、最初から――」
「――です。獣でしょう? 戦って死になさい」
カサンドラに聞こえたのは、最後の会話だけである。だがその言葉の直後、ハクエンが突撃したが、ハクエンの体を打ち据える無数の攻撃が飛んできた。ハクエンは前進すらまともに適わず、その体の前面は無残にもえぐり取られていた。
「ぎ・・・ひゃ」
「あら、耐久力だけは一級品ね。それだけは褒めてあげるわ」
その言葉の直後、カサンドラは全身の毛が開き、体が泡立つような感覚を覚えた。カサンドラが久しく味わう感覚――これは、『死の予感』である。
その直後、ハクエンの体が無数に切り刻まれていた。いや、ハクエンを含むその周囲全てが微塵となっていた。肉塊どころか、ただの血の塊となった。気配はなく、ただ斬撃だけがそこにあった。カサンドラは必至で震える体を抱いて耐えた。見てはいけない、それだけが本能で察せられた。なのに、会話が聞こえてしまったのだ。
「あら、来ていたの? 久しぶりね」
「――」
「ええ、いざという時のために手駒が必要になるかもしれないですからね。私たちの主な手駒はほとんど使えなくなってしまったのだし。それもこれも『あの間抜け』がしくじったせいだわ。
でもおかげで収穫もあった。このエクスぺリオンと私の能力の相性は非常によいから、これなら十分に代用ができるはず。知性のある個体の発生も確認できたことだし、あとは現在流通している分を押さえるだけ。ヤトリが動くように仕向けた甲斐があったというものだわ。まったく、欲のある人間ほど思い通りになるものはないわね」
「――?」
「ああ、アルマス? ウィスパーも小心者ねぇ。統制できないからこそ混乱は面白いのでしょうに。制御できる混乱など、秩序と変わりはしないわ。心配しないで、手は考えてある。それに最悪、あなたがいればアルマスなんてどうとでもなるでしょう? ウィスパーすら恐れる、あなたなら」
その言葉に不機嫌となったのか、一層強い殺気がざわめくと、その直後また気配が一切消えていた。カサンドラは逃げ出したかったが、必至で耐えた。そして両者の気配が消えた後、ふらふらとその場に出た。それは、何者がいたのか痕跡を確かめるため。その場にあったのは、肉すらなく血だけとなったハクエンだが、その血すらも蒸発しかけていた。
そして足元をゆっくり見ると、その場には黒い線のような跡が何本も放射状に延びていた。その跡を見ながら、カサンドラは自分の記憶を思い起こしていた。この跡には、見覚えがあると。それも、屈辱の類だ。カサンドラは抵抗する自分の本能と戦いながら、記憶の扉を開けていった。
と、そこへリリアムやアルフィリースが追いついてきた。リリアムもカサンドラと同じことを考えたのだろう。彼女たちを伴って追撃してきたのである。
そして蒼白な顔で考え込むカサンドラと、血のたまりを見て何事かがあったのはわかったらしい。
「カサンドラ、ハクエンは死んだのね?」
「ああ、そうだ。八つ裂きどころか、微塵にされて死んだよ」
「微塵・・・? それはまさか――」
フォスティナが思い当る節があるようだったが、それを言うのが躊躇われたのか、少し考え込んでいた。
そしてリリアムがカサンドラの足元にある黒い跡に気付く。だがリリアムの表情はそれを見て一瞬で青ざめていた。先ほどのアルフィリースの挑発よりも、より青ざめている。アルフィリースも異常を察したのか、リリアムを気遣っていた。
「リリアム、顔が青いわよ?」
「・・・あなたならわかるんじゃないの、その理由が。それにしても信じられない・・・全員殺したはずなのに・・・いや、でも人違い? でも顔だって確認して・・・」
「リリアム、しっかりしなさい!」
アルフィリースがリリアムの肩を揺さぶったが、反応が薄い。アルフィリースはカサンドラに目で助けを求めたが、同時にカサンドラも憔悴しているように見えた。
アルフィリースは思い通りにおよそ今日の戦いを進めていた。なのに、最後になって思わぬ事態で戦いを終えることになり、胸にもやもやとした不安の種を残すことになったのだった。
続く
次回投稿は、5/7(土)22:00です。