快楽の街、その88~ターラムでの闘技場にて㉒~
「ゼムスゥゥゥゥ!」
「む!?」
ゼムスはすんでのところでその剣を受けたが、意表を突かれたのと、その剣の力に数歩ほども押し込まれる形になる。ゼムスは相手の表情を見たが、憎しみの炎に燃える瞳があまりに印象的で、全体的な顔の像が頭に入ってこない。
だがその突然起きた光景に驚いたのは本人だけではない。フォスティナが悲鳴に近い声を上げていた。
「リディル!? あなた、生きていたの?」
「リディルだと?」
ゼムスは驚きの声を思わず上げてしまった。以前、戯れに相手したなりたての若き勇者。どんなものかと見る程度の興味しかなかったが、腕前は確かだった。少しからかう、あるいは接触をするだけで終わらせてもよかったが、出会った場所が悪かった。人目の届かぬ大草原、そして連れていた仲間も悪かった。ダート、アナーセス、エネーマが妙な気を起こさなければ、まさか殺すまでの事態には至らなかったかもしれない。あるいは、リディルがもう少し世の中に希望を持たず、生きるのに不真面目であれば、ゼムスも興味を削がれたかもしれない。
ゼムスの方も、リディルの本気の剣を受けながらやや脅威を覚えたのは事実であるが、今現在の驚異よりも、戦いの中で強くなるリディルが恐ろしいと思った。それでもいかほど強くなろうとも、自分が負けることはまずありえないという確信はある、程度の逸材でしかなかったはずなのに。
今現在こうして再び剣を合わせてみると、その器がよくわかる。明らかに以前とは違う器の持ち主となったリディル。まるで容姿はそのままに、中身だけが入れ替わったかのようだ。このままでは危険だ。そうゼムスが感じた時、この闘技場内では実に様々なことが同時に起こっていた。
「うらあっ!」
「何!?」
突然観客席から前触れなく放たれる大火球。だがそれはゼムスではなく、リディルを巻き込んで闘技場の壁に激突して大炎上した。その衝撃と、巻き上がる炎に観客たちが再度悲鳴を上げて逃げ惑う。
さしものゼムスも状況の把握ができなかったが、観客席からゼムスに向けて大音声が放たれた。
「ゼムスの旦那! とっと逃げてくれねぇか!?」
「!?」
「事情はわからなくて結構だ! とにかくあんたが逃げねぇと、これくれぇじゃあ止まりそうにないんでな!」
そう叫ぶが早いか、業火の中からゆらりと立ち上がる人影が見えていた。ゼムスはそれだけでなんとなく事情を察していた。どうやら、リディルは人間以外の何者かになったのだと。そして確実に、自分を死ぬほど憎んでいることも。倒せなくはないかもしれないが、先ほどのフォスティナの悲鳴から、リディルが勇者であることを思い出す者がいるかもしれない。ここはターラム、醜聞には事欠かない街である。あらぬ嫌疑はかけられたくないのがゼムスの本音だ。
「いいだろう。誰かは知らんが、助言には従わせていただこう。無用な争いは好まんからな」
「二枚舌はよしな、旦那。だが俺も仕事があってなぁ。予想よりは面白い出し物になったが、これでとんずらだ」
もちろん声の主はグンツだった。グンツはゼムスの姿を認識するなり飛びかかっていったリディルを止める暇もなく、このような状況になったことを後悔していた。リディルの事情をグンツは詳しく知らないが、ゼムスの人とは思えない強さのことをグンツはよく知っている。傭兵時代、その強さを直接何度か目の当たりにすることがあった。どうしてもゼムスに睨まれるのは得策とは思えず、まずはリディルを何とかする必要があった。
リディルに当てた火球はほとんど加減無しのものであったが、魔王となったリディルには致命傷にならないらしい。本来ならドゥームを呼んでどうにかするところだが、どれほど緊急用の念話で呼ぼうとしても通じない。
「こうなるとリビードゥに声をかけるしか・・・いや、それはもっとまずいのか? ええい、考えている暇はねぇ!」
グンツは自分の直感に従い、行動を開始した。あの状態のリディルは、自分一人ではどうにもならない可能性が高いからだ。殺すことは最悪できても、捕えることが不可能だ。そしてゼムスが闘技場を脱出し、その後を追うように炎の中からリディル、そしてグンツが消えていった。他の者たちはぽかんとしてその様子を見つめざるを得なかったが、同時にハクエンはその隙に撤退をしていた。その場にあらん限りの魔獣、魔王を召喚、ないしは自分の体から分離して。
アルフィリース、フォスティナ、リリアムが追うにも、行く手を阻まれてしまった。すかさず彼女たちはそれぞれの仲間に合図する。
「カサンドラ!」
「ルナティカ! ライン!」
「おうよ!」
「ん」
「ちっ、しゃあねぇ」
呼ばれた者たちが一斉に走り出す。だがルナティカとラインの前には魔物が群がり、カサンドラは闘技場の構造を知り尽くしているため、魔物を部下に任せて先回りをすることにした。その巨躯の割に身軽なカサンドラは、風を巻いて走る。先ほどアルフィリースにやられた影響は既になくなっているのか、さすがの回復力をみせていた。
カサンドラはハクエンがいるだろう場所に走り出す。闘技場の裏から抜けるならこちらの方向であることを、ハクエンも知っているはずだ。見世物として随分と闘技場内をうろうろしており、ハクエンに知性が芽生えているのなら、必ず最短で脱出する道を覚えていると考えていた。
そしてカサンドラがハクエンの血の跡を見つけた。魔王といえど、まだ傷は塞がらないらしい。そしてカサンドラは曲がり路を曲がろうとして、思わず反射的に身を隠した。視界の端にハクエンが見えたからだ。いかにカサンドラといえど、先ほどの三人の女傑で苦戦する相手を一人でどうにかするつもりはない。まずはその逃げ道を知れればそれで充分。まして血の感覚は徐々に長くなっており、傷が塞がりかけていることを示していた。だがハクエンは逃げるのではなく、どうやら誰かと話しているようだった。カサンドラは耳を澄まして会話を聞き取ろうとした。
続く
次回投稿は、5/5(木)22:00です。連日投稿です。