快楽の街、その18~新しい依頼⑨~
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同じく深緑宮。ミリアザールもまた夜が更けても一向に変わらず、熱心に仕事に取り組んでいた。傍には夜の番を務める梓が控える。梓がそっと茶と菓子を差し出すと、無言でそれを平らげるミリアザール。
普段とは違って不平一つ言わぬその仕事ぶりに、思わず梓が心配する。
「最高教主、そろそろお休みなってはいかがですか。明日も早くから大司教たちと打ち合わせがありますのに」
「馬鹿を申せ、ちんたらやっておったら間に合わんわ。何せドライドもマナディルも、休みなく仕事をする輩だからの。エルザがいかに有能でも、彼らの回す仕事を覚えながら捌くには物量的な限界がある。エルザが本当の意味でミナールの代わりを務めるまでには、あと数年はかかるだろうよ。
それにアルネリアの式典は、元来ワシが一人で仕切っておったのじゃ。それがやれ風情だの典雅だのを言い出しよるから、色々と面倒な手続きが増える。昔は口頭でのやり取りで済んでおったものが、今では何かと書類を残さないといけないなどと申しよる。こんなことのために活版印刷術を普及させたのではないのだが。目下最大の敵は、黒の魔術士の前にこの書類の山よな。自ら最大の敵を作り出すとは、よもやこんな日がくるとは夢にも思わなんだわ」
「ご冗談を」
梓はくすりと笑ったが、ミリアザールはいたって大まじめだった。だがさすがに限界が近いのか、その表情にも陰りが見え始める。瞼は半ば近くまで垂れ下がり、うつらうつらとしているようだ。
最後に大あくびを一つしたミリアザールは、梓に一つの書簡を手渡した。その書簡には封はしておらず、内部通達用の書簡なのは明らかだった。
「これは?」
「整理整頓の計画書よ。明日の朝エルザに渡せ」
「は? 整理整頓、でございますか」
「何を呆けておる、ワシだって片付けくらいするわ。特に、大陸平和会議をするにあたっては、些末なゴミを片付けることは必要だ。そう思わんか?」
「・・・は」
梓は察した。これはミリアザールが直に調べた情報なのだ。大陸平和会議を行うにあたり、どんな些細な阻害因子も残さない。各国重要人物が集まるにあたり、いわゆる都市の区画整理と、不穏分子の一掃を行うつもりなのだと。梓が手にした計画書は、実行に移されればかなりの人間が死ぬだろう。梓の手は嫌な汗でじっとりと濡れていた。
だがミリアザールは眉一つ動かさない。こんな仕事は自分もやりなれているとはいえ、梓は改めて自分たちの主の恐ろしさの一端を垣間見た気持ちだった。
「ではワシは言葉に甘えて寝るとしよう。明日の朝はドライドとマナディルには少々遅刻するよう伝えておけ」
「そんな無茶な」
「では面会謝絶の札か、着替え中とでも入り口にかけておけ。少々ゆっくり寝るとしよう。確かに八重の森の遠征からこっち、まるで休みなしだったからな。たまには休みをとっても罰は当たるまい。
それから時に梓よ、お前の妹はそろそろ成人ではなかろうか。見込みがありそうなら、深緑宮に推挙してもよいが」
「・・・死にました、訓練中の事故で」
「む・・・いつじゃ」
「元服の、ほんの10日ほど前です。無事に元服した暁には、深緑宮に勤めたいと申しておりました」
ミリアザールは眠気も吹き飛び、渋い顔になった。そしてしばしの沈黙が流れる。先に言葉を発したのは、ミリアザールであった。
「・・・すまぬ」
「何を謝ることがありますか。口無しの生まれとはそのようなもの。誰かがやらなければならぬなら、我々がやりましょう。その先に、平穏があると信じればこそ。貴女がそのような弱気では、浮かばれる者も浮かばれぬでしょう」
「うむ・・・そうよな。いつしかワシは弱気になっていたようだ。許せよ」
「そうですとも。さ、さ。早く寝られませ。あしたの補佐の輪番はまた梔子様ですからね、厳しいこと請け合いですよ」
「お前、それを今思い出させるな。寝つきが悪くなるわ」
ミリアザールを寝室へと勧めながら、梓は独りになった時、再度浮かない顔になった。その悲しみは、夜更けと共に人知れず沈んでいった。
続く
次回投稿は、12/16(水)20:00です。