快楽の街、その8~闇の小人④~
「テトラポリシュカのことだ。成り行きとはいえ、彼女の体を使っている。この体を彼女の夫の元に返したいのだが」
「それは構わんさ。彼女の体を返してからアルフィリースの元に戻るといい。そのくらいは待ってやれる」
「ところがな、こちらの方が待てないかもしれないのだ。もう少し保つと思って借りていたのだが、思いのほか・・・な」
「――なるほど。早急に返したいと。そういうことか」
「その通りだ」
ポルスカヤとテトラポリシュカの事情を理解すると、ユグドラシルはいち早く転移の魔術を発動させた。その魔術が起動している最中、ポルスカヤはふっとおかしなことに気付く。
「お前の魔力ならノースシールの距離でも不安はないが、どこにでも送られると移動が面倒なのだが」
「心配するな、テトラポリシュカの夫の目の前に送ってやる。そうでもなければ、保ちはしないぞ。お前が思っているよりも時間は少なそうだ」
「・・・そうか。私が憑依した時には既に限界だと思っていたが・・・いや、待てよ。どうやって目の前に送るのだ? 転移の起点でも作っていなければ無理だろう?」
「私に限って言えば何の問題もない。何せ、『見えている』からな」
「見えて・・・? おい、どういうこと――」
「お前には関係のないことだ。世の中には知らない方がいいことだけではなく、知ってはいけないこともある」
ポルスカヤは質問の途中で目の前からユグドラシルの姿が消え、自分が転移したことを知った。そして転移の直後、自分がノースシールのテトラポリシュカの居城にいると知った時、途端に頭の中からユグドラシルに対する興味が薄れていることを実感した。それがユグドラシルの魔術であることに気付いた時に必死で抵抗しようとしたが、目の前にテトラポリシュカの夫の顔が見えると、その考えすらテトラポリシュカの自我が突然覚醒したため、大きな波に押し流されるようにポルスカヤの意識は暗転したのだった。
***
そしてテトラポリシュカは久しぶりに自分の意識を取り戻すことになった。そして同時に感じていた。この会話がおそらく最後になると。目の前には変わらず穏やかな夫の顔がった。決して造形に優れたわけでもなく、また鋭い知性を感じさせるわけでもない。ただその顔は出会ったころからずっと柔和で、深く優しい心根を表すような顔だった。そう、テトラポリシュカが本当に安堵を覚えた瞬間のまま。
「旦那殿」
「ポリカ、おかえり」
変わらない返事、変わらない笑顔。だが周囲の光景は違っていた。自分たちのために建てられていた神殿は既に形を崩し、建物は半壊していた。だがテトラポリシュカは何も問わなかった。村人たちの去就や、これから先のために決めておかねばならないこと、ウィクトリエのこともあったのだが、それらは全て夫の顔を見た時に吹き飛んでいた。
テトラポリシュカは夫の頬を一つ撫でると、ふと思っていたことをつぶやいた。
「そうだ、旦那殿。私は今度花を育てようと思う」
「花を?」
「そうだ。極寒の地でも育つ花だ。中々難しいだろうが、やりがいがあると思わないか?」
「それはそうだねぇ。だけどまたウィクトリエが怒るかも。『また難題を持ち出して。誰が実際に世話をすると思っていますか?』とか言って」
「ふふ、違いない」
その光景が目の前にあるような気がして、テトラポリシュカは手を空にかざした。その手には、既にべっとりと血がついている。これは自分だけの血ではあるまい。
だがそれすらも今はもう気にならない。なぜなら、既に痛みなど感じていないのだから。
続く
次回投稿は、11/26(木)21:00です。