翼(5)
どれ程飛んだ事だろう。
ファムルーの目は、闇に瞬く弱々しい光を捉えた。
闇ばかりが広がる中、その光は今にも紛れて見失ってしまいそうだったが、見間違いではないようだ。
(あれは)
それを見出した事が、肉体的にも精神的にも疲労したファムルーにさらなる力を与えた。
確信ではない。予感でもない。
ただ、そうであればいいと思った。あの光の元に、自分が一番会いたい人がいるのだと──。
(ディスパー…!!)
祈るような気持ちで、空を駆ける。少しずつ確かになってゆく光。それと同時に、闇に沈んだ見慣れた建物が見えてくる。
── 浄育宮だ。
生まれた時から暮らしていて、一日も満たない時間しか離れていないのに、こんなに懐かしく慕わしいと思ったのは初めてだった。
やがて、光の正体が中庭で誰かが持つ松明の灯りである事が知れる。そこに求める人の姿を見つけて、ファムルーはほとんど飛び掛る勢いで地上を目指した。
地上で沈痛な面持ちで空を見上げていた青年の目が、彼女を見つけて大きく見開かれる。その唇が確かに彼女の名を紡いだのを、ファムルーは見逃さなかった。
「ディスパー!!」
翼を畳むのももどかしく、彼に抱きつく。
青年は驚き、慌てて松明を出来るだけ遠くに離した。
「…ファムルー様! 危ないですよ!!」
「あ、ああ、ごめんなさい……」
ようやく我に返り、ファムルーは慌てて身を離した。
いくら何でも、松明を持っている人間に抱きつくなんて危険この上ない。それに、下手に自分が怪我しようものなら、彼が女官達に責められてしまう。
「あ、あの……」
しかし、我に返ってしまうと、今度はまともに言葉が出て来ないのだった。彼には言いたい事がたくさん、あったはずなのに。
するとそれを見透かしたかのように、ディスパーは普段と同じ穏やかな笑顔を浮かべた。
「ご無事で何よりです、ファムルー様。…お帰りなさいませ」
「……」
何だかその言葉で、これまでの心細さやら何やらが一気に押し寄せてきた。腰が砕けたようにペタリと座り込むんでしまう。
そんなファムルーに驚いたようなディスパーの顔を見ながら、ファムルーはぽろぽろと涙を零した。
「こ…怖かった……っ」
ようやく安心出来る場所に辿り着いたせいで、心の箍が外れてしまったのかもしれない。
今日はよく泣く日だと、ファムルーは頭の片隅で思ったけれど、涙はどうにも止まりそうになかった。
「も…戻れないかと…思……っ」
「…ファムルー様……」
座り込んでしまったファムルーを、ディスパーは困惑したような表情で見つめる。
余計に困らせてしまったのかもしれない、そう思っていると、ディスパーは松明の火を消して地面に置き、ファムルーの元へ歩み寄ってきた。そしてそのまま、ファムルーの視線の高さに合わせるかのように膝をつく。
「一人で心細かったのですね」
「う、うん……」
「もう、大丈夫ですよ。ちゃんと戻ってこれたのですから」
「うん……」
あやすような言葉に、ファムルーは涙を零しながら、ただ頷く事しか出来なかった。まるで子供の頃みたいに。
でも、昔とは違う事が一つ。ファムルーは腕を伸ばし、自分を覗き込むディスパーの首に回した。
「……!」
先程とは別の意味で驚いて、ディスパーが息を飲む。
咄嗟に声も出せなくなった彼に、ファムルーはしっかりと抱きつく。── 抱き締める。
「…わたし、ディスパーが好き」
ついに口にした。自分の腕に感じる、彼の温もりは一年前の星空を見た時と同じ。感じるだけで嬉しくて、安心出来る。
「一人でいる時、ディスパーの事ばっかり考えてたの」
「…ファムルー…様……」
「わたしは…あなた以外の人はいらない」
彼の目を真っ直ぐに見つめ、断言した。途方に暮れたような、彼の表情が胸に痛かったけれど、もう止められない。もう…譲れなかった。
自分の《片翼》は、彼以外に考えられない。
「── なりません」
やがて、ディスパーの口から零れたのは、弱い苦痛に満ちた言葉だった。
半ば予想していた言葉だったのに、やはり彼本人から告げられると身を切られるように辛い一言だ。
ディスパーは、まるで彼女の視線に耐えられない様子で目を反らす。
「…あなたも知っているでしょう。私は罪人…アジェ=メンタールなのです。あなたの祈りを受ける価値もない存在です」
「関係ないわ」
彼の告白を、ファムルーは一言で否定した。ここで引き下がる訳にはゆかない。
「あなたが罪人だろうと、何であろうと…わたしはあなたの事が好きなんだもの」
「…ファムルー様。それは違います。あなたはただ…一番身近にいた私を特別であるように思ってしまっただけです。私は…この世で最も高貴な…エフェ=メンタールであるあなたが想って下さるだけの人間ではないのです」
「…どうして? わたしがあなたを好きになる事がどうしていけない事なの? 一番身近だったから…特別に思って何がいけないの!」
相手が罪人であろうとなかろうと、共に過ごした時間に偽りはなかったとファムルーは信じていた。
一番側にいたから、というのは確かに理由の一つかもしれない。けれど、やはりこの気持ちを決定付けたのはそれだけではないのだ。
しかし、ディスパーは痛みを堪えるように頭を振った。そして今まで誰も明らかにしなかった彼の罪を口にする。
「それは── 私が、人殺しだからです」
+ + +
彼女は、彼の手が好きだとよく言っていた。
大きくて温かくて、とても安心出来るのだと。
…だから、自分の生命もその手で断って欲しいのだと、満足に話せなくなった口で彼女は告げた。
『…ね? お願い……。わた、しの最後の、わがままを…聞い、て……?』
何処か狂気を漂わせた瞳は、彼を追い詰めた。
彼には彼女の身を苛む苦痛を理解出来ない。死を望むほどの苦痛を味わった事もない。
痛みが彼女を狂わせてゆく。
そして、苦しむ彼女の姿が── 彼を責める。
殺して、と血を吐くような声で叫び、痛みに耐えきれず暴れる彼女を押さえつけながら、彼は思う。
人の命を奪うその行為は、罪。
けれど、それで彼女が楽になれるのなら…それしか方法がないのなら──。
選らんだのはどちらが先か。
気がつけば彼の手は彼女の首に回り。
彼女はこれ以上とない安らかな顔で、その手を上から押さえた。
もう力も入っていないはずのその手は促す。
さあ、終わりにしよう──。
どちらも泣いていた。
彼女は喜びに泣き、彼は絶望に泣いた。
最後に彼女は、『ごめんなさい』と呟いた。
それは彼を罪人に堕とす事への謝罪だったのか──。
彼もまた『ごめん』と呟いた。
それは何に対しての謝罪だったのか──。
事切れた彼女を抱き、彼は呆然と窓の外を見た。
その身体は痩せ細り、子供のように軽かった。その事実が、胸に痛い。
空に浮かぶは清浄の月。
そこに住まうという佳人は、この地上を癒す為に夢を紡ぎ続けているという。
(…どうして)
胸に湧いたのは、そんな疑問。
どうして、もっと側にいなかったんだろう。
愛していたのに。大事だったのに。
こんな風に失くしてしまうのなら、せめてもっと同じ時間を共有すれば良かった。
彼女はきっと、ここで一人あの月だけを慰めに日々暮らしていたのだ。
自分がいない間、たった一人で。
月は彼女のために、何もしてはくれないのに。
彼女が好きだと言った自分のこの手は、彼女の命を摘む以外にももっと出来る事があったはずなのだ。
あの手の届かない月ですら、彼女の心の慰めになっていたというのに──。
悔恨と絶望の中、罪人となった彼はただ月を見上げる。
せめて彼女の魂が、もう二度と苦しむ事のないよう祈ること。
それしか、彼に出来る事はなかったから……。