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翼の末裔  作者: 宗像竜子
第一話 翼
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翼(4)

 もう日没だと言うのに、ファムルーが戻ってこない。そのせいで、浄育宮は右往左往の大騒ぎになっていた。

 女官達は最後に彼女と一緒だったディスパーに詰め寄り、声高に責め立てる。

 実際、彼に非があるかどうかはどうでも良く、彼女達は自身の不安の捌け口が欲しいだけなのだ。それがわかるから、彼は黙ってその声を受け止めた。

 それに…原因が自分にあるような気がしないでもなかった。

(…ファムルー様……)

 彼の後をちょろちょろと付き纏っていた幼い少女。

 エフェ=メンタールにしては感情豊かなその表情。成長してからもその朗らかさは変わりなかった。

 その彼女があれ程に泣き、彼をなじったのはきっと彼に何か非があったからに違いない。どのような非なのかは、ファムルー自身に尋ねなければはっきりとはわからないが。

 月へと昇る日が近付くにつれて、彼女の顔から笑顔が消えたのを彼は知っている。女官が話し掛ければ微笑んで答えるけれど、それは明らかに作り物だとわかる笑顔だった。

 ずっと側近くで彼女を見守ってきた彼にはわかってしまう。

 きっと、《片翼》がいつまでも見つからない事を気に病んでいるのだと思った。

 だから何とか慰めたくて焦る事はないと言ったものの、心の底でファムルーが《片翼》を見出さなければいいとすら思っていた事は事実だった。

 …口が裂けても絶対に認める事は出来ないけれど。

 この罪を負った身で、至高の者に想いを寄せるなどあってはならない事。その感情の種類がなんであれ、それだけで罪の上塗りになるだろう。

(…やはりあの時、離れてしまえば良かった)

 彼がアジェ=メンタールだと彼女が知ってしまった時に。

 暇乞いをした彼を、ファムルーは引き留めた。真っ赤に泣きはらした目で、彼のせいではないと言ってくれた。

 ── 今まで通りに側にいて欲しい、と言ってくれた。

 それでも自分が罪人と知られてしまってから、あの純粋無垢な存在の側に何事もなかったようにいる事は苦痛で、何かと理由をつけて彼女から距離を置いた。

 あの時から、ファムルーの彼に対する目が何処か変わったような気がしてならなかったのだ。

 何がどう変わったのか、彼自身よくわからない。ただの気のせいなのかもしれない。けれどそう思えた。

 女官達がたまに見せるさげすむようなそれとは違う。けれど、それまでの無心に好意を寄せてくれた目とは違う。

 それが少し淋しく思ったものの、側にいて欲しいと言ってくれた、あの言葉は本物だと思いたかった。

 そう── 離れられなかったのは、自分の方なのだ。

 一度は断罪すら受け入れようとした身なのに、今はもう彼女の為以外には死ねないだろう。せめて、彼女が無事に月へと昇るのを見届けるまでは。

 女官達が彼を責めるのに飽きてきた頃合いを見計って、彼はその場から抜け出した。

 もし彼女が戻ってくるなら、正面の入り口ではなく飛び出していった中庭のように思えたからだ。それに、夜の闇に沈んだこの宮殿を、ファムルーが見つけ出せるとは思えなかった。

 彼は灯りとなる松明を用意し、庭の中程で火をつけたそれを持って立った。

 空の上からこれを見つけ出せるかわからなかったが、せめてこの灯火ともしびが目印になればとそれだけを思う。

 幸運にも、彼は夜通し起きて動く事には慣れていた。まだ、アジェ=メンタールとなる前、彼はよく松明を片手に夜道を進んだものだ。

 村から村へ、街から街へ。旅は彼にとっては日常的なものだった。

 …もう、あれから三年にはなる。そう思うと、ディスパーは不思議な気持ちがした。

 罪を犯したあの時、もう自分の心は死んでしまったとばかり思ったのに、今もこうして生きて、笑えて、誰かの事を想っている。

 忘れがたい罪の記憶も、今は目を背けずに見つめる事が出来る。

 その全ては、ファムルーが彼に与えてくれたもの。

(…どうか、無事に……)

 祈りには、その祈る先に辿り着ける力があるのだと、かつて彼自身が語ったこと。

 ならば今のこの祈りも彼女に届くといい。そうして、もし彼女が迷っているのなら導きとなるといい。

 空には、かつてファムルーと見上げた時のような見事な星空。そして、今日も美しい月。

 あの輝きにはとても敵わない。けれど、彼の灯火が彼女の目に映る事を願わずにはいられなかった。


+ + +


(どうしよう)

 ファムルーは途方に暮れた。身体で覚えているとばかり思っていたのに、浄育宮らしき建物が見つからない。

 周囲の欝蒼うっそうとした木々に紛れてしまっているのか、それとも見落としてしまったのか。

 今更ながら、何故つまらない意地を張ったのだろうかと後悔する。

 どちらにせよ戻らなければならなかったのなら、何故もっと早く行動に出なかったんだろうか。

 …そんな事を思っても後の祭りだ。

 いっそ、何処かで夜が明けるのを待つべきだろうか。

 けれど、今まで浄育宮で大事に育てられてきたファムルーは、その辺で野宿などする必要もない生活をずっと送っている。そんな彼女に、夜露を凌げる場所もなしにそのような事が出来ようはずもなかった。

(…どうしよう)

 引き返して、村々の民に助けを求めるべきだろうか。

 きっと彼等はエフェ=メンタールである彼女を追い返しはしないだろう。おそらく、最大限のもてなしをしようとするに違いない。

 でも、そうするのは何だか気がひける。それ以前に、ずっと女官達だけに囲まれて育ったファムルーには見知らぬ人々の中に入るのは何だか怖いようにも思えた。

 秋の夜は、急激に冷える。

 すっかり身体は冷え切り、翼も疲れてきた。そのせいかわからないが、身体が何だか重い。

(ディスパー…助けて)

 まだ子供だった頃、そう願えばいつも彼が助けに来てくれた。

 飛べるようになってすぐ、夢中になって中庭の一番大きな木の天辺まで昇って── そしていざ降りようと下を見た瞬間、あまりに高くて身が竦んで動けなくなった事があった。

 あの時も、一番に彼が気付いてくれて、怯える彼女を優しく宥めてくれた。落ちても必ず自分が受け止めるから、と。

 でも今、ここに彼はいない。

 励ましてくれる言葉も、安心させてくれる眼差しも何処にも見えない。

(怖いよ……)

 こんなに、世界が広いなんて感じたのは生まれて初めてだった。

 何処までも闇が広がる。月はあんなに明るいのに、星はあんなに輝いているのに、何故こんなに地上は暗いのだろう。

 たった一人きりで、こんな所にはいたくなかった。

 でも、仮にファムルーが助けを求めた声が届いたとしても、彼にはどうする事も出来ないに違いない。彼には翼はないし、ここは浄育宮でもない。

 何処であるのかさえも、わからない。

 怖くて心細くて、涙が出そうだ。泣いたって何にもならないと思うから、必死に堪えてはいるけれど、時間の問題だろう。

(怖い──!!)

 もう、前に進んでいいのか、引き返すべきなのかもわからない。

 宙で動けなくなったファムルーの目から、ついに涙が零れ落ちかけたその時だった。


 …サマ……


(え……?)


 …ふぁむるーサマ・ドウカ・ゴブジデ……


(…声?)

 確かに、微かながら声が聞こえたような気がした。それも、錯覚でなければ今ファムルーが一番側にいて欲しい人の。

(ディスパー?)

 慌てて周囲を見回す。眼下に広がるのは、当然ながら先程と変わらぬ夜の森。彼らしき姿など、何処にも見えはしない。

 けれど、空耳だと片付けてしまう事は出来なかった。

 たとえそれが限りなく幻に近いものであったとしても、彼の声が聞こえるのならそれだけで心が救われる。頑張ろうという気になれる。

 そうだ、ここで挫けてはいけない。浄育宮で、きっと彼はファムルーを待っている。

 一刻も早く戻って、彼を安心させなければ。そして── 謝るのだ。

 彼はこの空の下で、自分の無事を思い、祈ってくれているに違いないのだから──。

 ファムルーは気を奮い立たせ、声が聞こえてきた気がした方向へ身体を向けると、再び翼を広げて羽ばたいた。

 もう彼の声は聞こえなかったが、不思議と先程までの迷いは消えていた。

 黒々とした夜の森を眼下に見ながら、ファムルーは飛ぶ。

 銀の月光をその背の翼に受けて空を駆けるその姿は、もし地上から見る者がいれば、おそらく目を奪われたに違いないほど美しい。

 それはまさに、エフェ=メンタール──『翼を持つ者』に相応しい姿だった。

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