壊れゆく夜のために(7)
── それを祝福だと言ったのは、誰が最初だったのだろう。
その『資格』を有するか否か、それは正に神の気まぐれ次第としか言い様がない。
選ばれた事は果たして幸いだったのか── 神の祝福と特別視される一方で、親や家族を知らずに育つ自分達は本当に幸せなのだろうか、と彼は思う。
『…あたしは、ソーヤに会えて嬉しいけどな』
選ばれたからこそ、彼女と出会えた。それは確かな事実。
けれど、そんな風に言いながら嬉しそうに笑う彼女を見る度に、喜びとは別の感情が生まれるのもまた確かだ。
それは、罪悪感。
無心に、無条件に寄せられる好意が、実際には『偽り』である事を知っている。
彼女が── 彼の『翼』が自分に対して好意を抱くのは、彼女自身も知らない場所で、そう仕向ける力が働いているだという事を知っている。
知らずにいたなら、きっとその言葉を素直に受け入れる事が出来ただろう。けれど、知ってしまったから。
だから。
だから…自分は──。
+ + +
地上で不穏な計画が立てられているらしい、という情報自体はかなり以前からあったものだった。
── 曰く、『月に対し武力を行使しようとしている』。
最初こそ眉唾だと笑った者も、それが真実味を帯びるようになるにつれ、ばかなと一笑に付す事はなくなった。
…確かに、地上と月の間には、その距離以上に大きな技術力の差があった。
月の住人の多くが持つ選民思考も、そこに拠る部分が大きい。ここは地上全体を覆う、飢餓や飢渇、貧富の格差とは無縁の場所だ。
それぞれに課された役割によって、上下の階級差はあるが、金銭的な差はそもそも皆無である。
管理する者、防衛を担う者、医療に従事する者── 実にさまざまな役割が、うまく組み合わさり機能する。ある意味、理想の世界がここにある。
それもそうだ── ここの住人はそもそも、その機能の一部を果せると見なされたからこそ『ここ』に迎えられたのだから。
逆を言えば、すでに完成してしまっているが故に発展性が皆無だ。
稚拙で未熟な技術力しかないと認識されてきた地上は、彼等が楽観視する間に、僅かな手がかりを元に力を蓄え、そして今…手の届かない場所であるはずの彼等を脅かそうとしている。
早急に潰すべきだという急進派と、過ぎた力の危険性を説き、元の関係に修復すべきだという穏健派の対立が方々で見られるようになった。
守られ、最初から全て整えられた場所で生きてきた彼等の大部分が事なかれ主義である為、今の所は穏健派の方が支持されている。
彼── ソーヤも、その一人だった。
ただ違うのは、事を荒立てたくはないだけの多くの穏健派と異なり、地上を争いの場所にすべきではないという考え方を持っている点だろう。
(どんなに荒廃が進んでいても、あそここそが『故郷』だ)
確かに月は、理想郷そのもののように見える。けれど、ソーヤは物心ついた頃から、地上に惹かれてやまない自分に気付いていた。
理由はわからない。ただ、気が付くと遠くに見える赤茶色の大地を見つめている自分がいた。
年齢を重ね、自分がここへと来た理由を知ってから、その感情が一種の郷愁であるのだと結論つけた。
顔も名前も、そして今も生きているのかさえ知らないが── 見つめる先の何処かに、自分と同じ血を分けた人々がいる。
両親や兄弟、もしかしたら祖父母などもいるかもしれない。そう、『家族』が。
それは地上にあって、月にはない、数少ないものの一つだった。
月の住民同士で婚姻関係を結ぶ者は少なくない。だが、生まれた子供はまず『資格』を持たず、判明した時点で両親から引き離される。
…その子供が、その後どうなるかを知る者は少ない。管理階級の者だけが知る機密だ。
だが処分されるか、それと大して違わない扱いであろう事は間違いない。結果として、最初から子を望まない夫婦が多くなり、出産自体が稀な事になっている。
人と人との繋がりが希薄なこの場所にあって、ソーヤは思う。
本当にここに迎えられた事は、幸せな事なのだろうかと──。
そんな彼に、一部の人々が同調し始めたのは、一つの『兆し』だったのかもしれない。地上に対して郷愁の念を抱き、その保護を働きかける彼等の動きを、多くは物好きなと受け流した。
それでも彼は諦めなかった。
まだ、対話の余地はあると信じていたし、何より地上がここまで月に対して敵対心を育てるようになったのは、月側が彼等に対して誠意を一つも見せていないからだ。
少しずつでいい、変えて行けたら。自分でもよくわからない情熱に身を任せ、理解者を増やそうと努力した。
けれど── 彼は知る。そんな動きを、目障りだと思う者がいる事に。
たまたま一人でいた室内。不意に照明が消えたかと思うと、何者かに身体の自由を奪われた。鼻と口を湿った布で抑えられ、薬品臭がしたかと思うと急速に意識が闇に飲み込まれてゆく。
彼が意識を手放す間際に見たものは、窓から見える、今も惹かれてやまない赤茶色の大地だった。
+ + +
重い目蓋を持ち上げると目の前には闇が広がっていた。
闇と言っても薄闇程度で、周囲の様子がかすかに伝わる程度のものだ。
頭の中が霧に包まれたように朦朧としている。なかなかはっきりしない意識は、今までの眠りが不自然なものであった事を証明しているようだった。
(…ここは……何処だ)
目だけを動かし、部屋の中を見渡す。
全身が鉛を詰めたように重く感じる。腕を動かそうとして、ようやく自分の身体が拘束されている事に気付いた。
身体を縛める特殊繊維は、人の力程度では引き千切る事は不可能なもの。すなわち、完全に自由を奪われていると言えた。
恐らく何らかの薬剤を使われたのだろう。集中力が続かず、なかなか頭の中で考えがまとまらない。
考えるだけでもひどく労力を有するものの、今の状況だけで何が起こったのか想像する事は簡単だった。
(── 先手を打たれた、か)
自分の行動を良しとしない者も出て来るだろうとは思っていたが── まさかこれ程早く潰しにかかってくるとは。
(…そうだ…俺がここにいるという事は……)
脳裏に浮かんだ少女の姿を無意識に周囲に求めながらも、にわかに湧き上がった不安を無理矢理押さえつける。
(フィー…は、何処だ……?)
背に翼を持つ守り手たる彼女が、理由なしに側を離れるはずがない。という事は──。
その時、まるで彼の覚醒を見計らったように、部屋の片隅で扉が開く音がした。反射的に向けた先、逆光を受けて立つ長身の姿があった。
「…目覚めの気分は?」
問いかけてくる声は豊かなバリトン。しかし耳触りの良い声ながら、何処かその口調は冷たい響きを有している。
「こんな事になって残念だよ。君は…とても優秀な《シェリド》だったのに」
パッ、と照明が予告もなく点く。眩しさに目を細めながらも、彼はその男から目を放さなかった。
年の頃は三十半ば。まだ十分若いと言える年齢の男は、常に変わらない柔らかな物腰でそこにいる。だがそのアイスブルーの瞳が彼の本質を示していた。
「…やはりあなたか、マリス:リヴレ」
掠れた声で名を呼ぶと、『月』の支配者の一人はその凍りついた目を細めて笑った。