壊れゆく夜のために(6)
ねえ、どうしてわたしは背中に翼があるの?
ねえ、どうしてあなたには翼がないの?
どちらが偽物?
わたし?
それとも── あなた?
ほら、見て。
わたしはここにいるよ。
ほら、触って。
ちゃんと生きているでしょう?
ねえ、どうして答えてくれないの。
ねえ、どうしてそんな悲しそうな顔をするの。
── わたしが『偽物』だから?
それともあなたが『偽物』なの?
わたしはただ、知りたいだけなの。
何故、わたしとあなたが違うのか。
何故、あなたの事を好きだと言うと、他の仲間達が哀れむように笑うのか。
人を好きになることって、そんなに変なこと?
ねえ、あなたは知っているのでしょう?
ねえ…?
+ + +
この命よりも大切だと思う人がいる。
唯一無二の主。でもそれだけではなく、心から守りたいと願った人。
でも── いつも視線の届く場所にいた彼は、今ここにはいない。
『君の主人の身柄は預からせてもらった』
ほんの僅か、側を離れた時の事だった。
隙があったと言われれば事実で、その事に関しては反論出来ない。思い出すだけで自分の不甲斐なさを思い出し、悔しさがこみ上げる。
『エフィラ:ルフィータ。君の能力は聞き及んでいる。是非、協力を願いたい』
言葉こそ丁寧だったものの、要請の形であってもそれは明らかに命令だった。
拒否権など元々ないのに、わざわざ大切な存在を盾に取る卑怯なやり口に怒りで頭が沸騰しそうだった。
許される事なら、おそらくどんな手段を講じてでも取り戻した。けれど一介の『隷属者』でしかない自分に、その命令に抗う術はなくて。
自分に命じて良い存在は、主と認めた彼だけだ。それは今までもこれからも変わらない。
だが── その身柄を相手に握られたとなれば、ルフィータに残された選択肢は一つしかなかった。
すなわち── 『諾』。
+ + +
「…── 何者だ!」
予想に反して、標的が鋭い声を上げた。
シャッ!!
声と重なるように、薄い刃が空気を切り裂きながら標的に襲い掛かるが、夜の闇の中だというのに信じがたい素早い動きで避けられる。
(避けられた…!?)
彼女── ルフィータは思いがけない展開に動揺を隠せなかった。
頸動脈を狙った一撃は、普通の相手なら致命傷こそ避けられても、かすり傷くらいは与えても不思議ではない間合いだった。
そもそも投擲の際に気配を気取られた事自体、驚くに値する事だ。自分達の気配は、普通の人間にはまず気付かれる事などないはずなのに。
偶然なのだとしたら、標的は随分と強運の持ち主だ── 幸か不幸か。おそらく気付かなければ、余計な苦痛を味わわずに済んだだろうに。
小さく舌打ちし、すかさず手首を翻して、手にしたナイフを再び標的に向かって繰り出す。目的が目的だけに、手加減などしなかった。
なのに── まるで明るい場所で戦っているかのような身のこなしでやはり避けられてしまう。
(…どうして、どうして当たらないのよ!?)
標的は地上を統括するタルカス王家の現王── どんな人物かは知らないし、知りたいとも思わないが、これは計算外の事だった。
自分はエフェラ── 《月》の住人の守り手。翼こそ今はないが、要人の護衛や補佐を役目とする者だ。護衛を担う部分もある為、戦闘力は人並み以上にある。
否、ルフィータに関して言えば、どちらかというと『守り』に特化したエフェラにしては稀なほどに高い戦闘能力を有している。
そう── それ故に、最初は『失敗作』とすら言われていたのだ。
護衛の目的があるとは言っても、月では暴力沙汰などまず起こらない。護衛の必要性など皆無で、従者としての役目が重要視されていたから。
決して驕っているつもりはないが、その自分と人に傅かれて守られているだけの『王様』が自分と渡り合えるはずもないと思っていた事は事実だった。
(まさか── 人違い?)
地上へ降りる前に王の寝室の位置を確認してきたが、それが間違っていたのだろうか。
まさか、と思ってすぐに否定する。《セレン》の情報が誤っているはずがない。
という事は──。
(…王様のくせに、自分で自分の身を守れるって事?)
そうとしか考えられない。違和感はあったのだ── 仮にも王の私室というのに、付近に護衛らしき者の姿がほとんどない事に。
どんな事情があるかは不明だが、一番考えられる理由は『必要ないから』だろう。
ルフィータにとって、地上の王は『そういう存在がいるらしい』程度の存在だった。地上で一番偉いという事くらいしか知らない。
戦闘能力に関して言えば、人並以下だという認識すらあった(これは偏見だが)。しかし、こちらの攻撃を次々に避けられては、その認識を改めざるを得なかった。
「…誰の手の者だ?」
低く問いかけてくる声は、思いがけず若い。
少し驚いて視線を向ければ、闇を透かして見える背格好からして、想像していたよりもずっと若いようだ。ひょっとしたら、二十歳を超えてもいないかもしれない。
(…ソーヤと、同じくらい……?)
聞こえてきた声も、何となく似ているように思えた。誰よりも誰よりも大切で、大好きな人に。
少しだけ、罪悪感が胸を焼く。それと同時に、何としても殺さねばと思う。この男を殺せば、大切な人は解放されるのだ。
タルカス王家、国王── ショルト=ディアル=タルカスの暗殺。それが自分に与えられた使命なのだから。
(ソーヤ…待ってて……!)
一気に間合いを詰め、懐に飛び込む。
まずは右手── 前面を薙ぐような大振りの一撃は、思った通りに避けられる。こちらは陽動、本命は次だ。
僅かに体勢が崩れたその隙を狙い、すかさず左手に別のナイフを握り、一気にその心臓目掛けて突き立てる──!!
(終わった)
その確信はあった。事実、王はその一撃までは避けきれなかった。…だが。
「…── え?」
襲撃の最中なのに、ルフィータは思わず声を上げていた。
王の心臓に突き立てられたはずのナイフは、その寸前で不自然な形で止まっていた。攻撃を何者かに妨げられた訳ではない。
妨げたのは──。
(な、なんで…手が、動かない…!?)
左手が命令を拒否していた。直前でぴたりと刃を止めているのは、紛れもなく自分の手だ。
(なに…なんなのよ、これ!?)
恐慌状態に陥ったルフィータは、一瞬自分の状況を忘れた── 目の前に、標的である王がいる事を。はっと我に返った時には、その手首を乱暴に掴まれていた。
「い、痛っ」
そのまま捩じり上げられ、思わず悲鳴をあげてナイフを取り落とす。耐えきれずに零れたその声に、王が意外そうな声を漏らした。
「── 女?」
反射的に右手を動かすと、意外なほどにあっさりと手が離れた。
腕を取り戻したついでに距離を取る。もう一度刃を繰り出そうとして── 今度は先程よりも早く、手足が動きを抑制する気配を感じ取って踏み留まる。
(どうして…なんで攻撃出来ないの!?)
ルフィータは激しく混乱した。
相手は丸腰だ。しかもこの状況になっても、警護兵の一人も呼ぼうとしない。
自分に自信があるのか、それとも他に理由があるのかはわからないが、圧倒的に有利な絶好の機会だ。なのに──。
「…っ」
結局、ルフィータが選んだ行動は、そのまま進入した窓から外へと逃亡を試みる事だった。
何故と考えても答えは出ない。だが、この状態では目的はおそらく達成出来ないだろう。
(…ソーヤ…ごめんね……!)
心の中で詫びながら、ルフィータは人の気配がない方角へとひたすらに足を進めた。