壊れゆく夜のために(5)
今、秘密裏に計画されている事は、全体から見ればほんの一部分あるいは一面に過ぎない。
始まりが何であったのか── それは瑣末事であり、詳しく識る必要性などはないが、彼にとっては自身の願望を形にする為に都合が良かったのは確かだ。
── 貴公は何故、彼等を憎むのだ?
尋ねられた言葉は、封じ込めていた心の痛みを再び思い出させるのに十分だった。
── 貴方様と同じでございますよ、王。
答えた言葉は全くの真実ではなく。
…おそらく、あの聡い王はその事に気づいただろう。この自分の本当の願いが、彼のそれとは根本的に違う事を。
(しかし…目指す方向は同じ)
だからこそ、王も追及はしなかったに違いない。同じ方向を向いている限り、それがどんなに歪なものだろうと『同志』である事には変わりがないから。
ただ…全ては最後の選択肢次第。
あの不治の病に冒された王が、何を望んでいるのか自分は知っている。知っているからこそ、協力を申し出た。
自分にはそれだけの知識と能力がある、と。まだ幼いと言っても過言でなかった王は、力を欲していた。目的が果たせるなら、それこそ相手が悪鬼だろうと手を取ったに違いない。
けれど── おそらく王は自分が何を望んでいるかを知らない。己の手が取った相手が、学者を騙った狂人である事を何処まで察しているのやら。
(ああ…憎んでいるとも。…奴等は私から、全てを奪った)
それが一種の逆恨みである事は承知の上だ。
それでもこの身を焼く怒りと絶望は、『それ』に対する憎しみを増す一方で。…同時に『それ』の行いを受け入れ続ける環境も許せず。
…気がつくと、狂ったように『全てを終わらせる方法』を調べていた。
『──わたしは…あなたが心配だわ』
遠く色褪せてゆく思い出の中、忘れる事の出来ない人は悲しげな顔をしている。
学のない無知な女だった。そのせいで、世の辛酸を舐め続けた愚かな女。けれど、唯一己すら気づいていなかった彼を理解した女でもあった。
どれほど彼女の存在が自分の心を大きく占めていたのか知らないまま、いるのが当たり前のように思っていて── 失って始めてその喪失の大きさに呆然と立ち尽くした。
『あなたは自分が思っている以上に…とても、とても優しい、人だから……』
その時はそんなはずがないと一笑に付した一言が、今はただ懐かしい。
あの頃は、確かに自分は幸せだった。彼女がいて…暖かな温もりのある『家庭』がそこにあって。
あの場所を守れるのならば、どんな事でもしようと思っていた。でももう、今の自分には何も残されていない──。
「…きっと、お前は悲しんでいるんだろうな……」
彼女を喪った悲しみは、彼女が命がけで残した小さな命の存在で救われた。けれどその救いすら── この腕にろくに抱く事すら出来ないままに奪われて。
寝る間も惜しみ、精神を削るように日々研究に費やす、今の憎しみに囚われた自分を、彼女は死者の園で嘆いているだろうか。
それでも。
(たとえ、お前と同じ場所へ行けなくとも……)
自分が死んだら、魂が安らぐという死者の園ではなく、永遠の苦しみが続くという煉獄へ堕とされる事だろう。
けれどこの歪んだ憎悪は、留まる術を知らない。留めてくれる存在も、いない。ただひたすら、『終焉』に向かって走り続けてゆくだけ──。
忙しく書籍のページを繰りながら、彼は自嘲気味な笑みを浮かべた。
+ + +
暗い闇を透かした向こうに見えるのは。
── 赤味を帯びた、茶色の岩と土の塊。所々に、黒い染みのようなものも見える。かつてそれは、青と緑の斑で彩られた美しい宝玉だったそうだ。
資料としてかつての姿を見た事もあるが、何度思い返してみても、とてもではないが同じものとは思えなかった。
「…ねえ」
「うん、何?」
「《セレン》に記録されてたあの映像── 本当にあの大地と同じものなのかしら?」
窓の外を眺めたまま、何処となく舌足らずな口調で問いかける少女に、側に控えていた少年は軽く首を傾げた。
その背には白い翼。
邪魔にならないようにと畳んでいるが、やはり目を惹く。年の頃は十五、六歳ほど。その髪は背後の間接照明を受けて本来の色はよくわからないが、かなり明るい色のようだ。
「僕には本当かどうかはわからないよ、マチーユ」
答えると、ようやく少女は彼の方へと顔を向ける。
こちらは少年とは対照的に暗い色合いの容姿をした、十二歳前後の少女だった。少し身体に合わない服を身に着け、その胸に金属製のプレートがかけられている。
それはその場所に住まう人間の中でも『特別』を意味するものだったが、それ以上に目立つものを少女は身に着けていた。
それは── 顔半分を覆い隠す、少々無骨な造りの大き目の眼鏡。視力が低いのか、そこには厚いレンズがはまっており、少女の顔を更に隠していた。
「…でも、本当だと思っているのよね? 地上の人は」
「── みたいだね」
少女が何を思ってそんな事を尋ねるのかわからないまま、少年は相槌を打つ。
彼にしてみれば、地上など今後関わる予定のない場所であるし、ましてやそこに住まう人間が何を思おうと全く関係のない事だ。
でも── 自分が仕えるこの少女が気にしているのなら、それに合わせて基本的な知識や情報を頭に叩き込む事くらいはする。
「《賢者の眼》── そう呼んでいるようだけど。どうやらその使い方を解析したらしいよ」
「『地上の復権』の為に? …ばかみたい。何も知らないで」
吐き捨てるように言う言葉には、隠さない侮蔑の感情があった。
「あそこまで壊れた大地を再生するなんて不可能だわ。出来るならとっくにやっているに決まってるのに。いまさら足掻いたって状況の悪化を引き起こすだけだわ」
「…マリス:リヴレはもう布石を打ったみたいだけど。── 恐るに足りず、と放置するかと思っていたけどね」
「そんな事する訳ないでしょう、シャイル。一般人から見ればちょっと綺麗なただの石でも、彼らにとっては長年の悲願を可能とする為の魔法の石で、管理機構側から見れば危険レベル高のものよ。最高責任者が無視なんて出来るはずがない」
普段は必要がなければ一言も言葉を発さない少女の、珍しく饒舌な語りに少年はくすり、と小さく笑った。
相変わらず── 『育ての親』に対しては盲目的だ。彼が一部で『臆病者』と批判を受けている事を知って、もう弁護側に着こうとしている。
(…僕はマチーユの従属だから、マチーユが良ければそれでいいけど)
だが、事態は少女が思うより複雑で、いろいろな思惑が絡んでいる。長い事存在し続けたこの《月》と《地上》の確執が、新たな局面に至ろうとしているのだ。
欲と希望。憎悪と絶望── まだ事態は混沌としていて、何が正しいのかまったくわからない状況だ。
その混沌に、主人である少女が巻き込まれない事を祈らずにいられない。…このまま行けば、否応なく巻き込まれるとわかっているからこそ。
「…シャイル? 聞いているの?」
「もちろん。…それでマチーユはどうしたい?」
「── 取り合えず様子を見るわ。リヴレ様が打った布石が功を奏すれば問題ないもの。でも……」
厚いレンズの向こうの薄紫の瞳に決意を宿らせて、少女は告げる。
「有事の際は、わたしも戦う。この手に武器は持てないけれど、わたしだって《マリス》の一員。何か…出来るはずだもの」
胸元に下げた金属のプレートを握り締めて、そんな事を言う少女を見つめ、少年は苦笑を浮かべて頷いた。
「わかった。…じゃあ、その時は僕がマチーユを守るよ。その為にここにいるんだからね」