壊れゆく夜のために(4)
身体の中に、一匹の凶暴な『獣』が潜んでいる。
それは凶悪で凶暴で── 何よりも血を好む。
『── 殺してしまえ、何もかも』
そう、内から囁きかける声に必死に耳を塞いで。
『壊してしまえ、全てのものを』
絡み取られそうな衝動を、必死に耐える。その誘惑はそれほどに甘く、強烈だった。
内なる言葉に従い、全てを手放せば楽になれるのかと、一体幾度考えた事だろう。そうすれば、おそらく『己』と引き換えに、今まで自分が思い悩んできた様々な事柄から解放されるに違いなかった。
それでもその道を選ばなかったのは── 己を惜しんだ訳ではなく、ただの復讐心から。
── お前なぞ、産まなければ良かった。
今も耳に残る、嫌悪を隠さない女の声。
獣が誘いかける度にその声は耳に甦り、彼の足を引き止める。
── どうせ、いつか死ぬのでしょう。だったらさっさと死んでしまえばいいのよ。
一体、自分の何が彼女にそこまで言わせたのか、言われたその時はわからなかった。
わかったのはそれからしばらく経った、ある日の事。原因不明の高熱を出し、寝込んだ時だ。
朦朧とした意識の中、隣室から聞こえてきた母親であったはずの人と医師の声。
彼等は憚るような小声で、けれど聞き間違いのない程にはっきりとこう言った。
── 間違いありません。あれ程に兆候が顕著である事も珍しいですが……。
── そう…、ではやはり、あの子は死ぬのね。
── 王妃様…! それはあまりにも……。
── …何? お前に獣を産んだ女と呼ばれる気持ちがわかって?
── で、ですが…今となっては、王の子はショルト様のみ。王の血が絶えるかもしれないのですぞ!?
── 黙りなさい。あれは…人じゃないわ。お前だって、それを認めたじゃないの。
── そ、それは違います。そのような意味で申し上げたのでは……!
── いいのよ、本当の事でしょう。あのおぞましい、赤い目。あんな目をしたものが人であるはずがない。それに…そうよ。あなたは忘れてないかしら?
── ……?
── 忘れたとは言わせないわよ。…王の子は『一人』ではない。そうでしょう。
── …っ、王妃様!? 一体何をお考えですか…!!
人ではない、と。
獣なのだ、と。
そして── 自分はその内、死ぬらしい。
その時はまったく実感などなかった。それほどに幼かったし、何よりも母親に向けられた嫌悪の方が心を傷つけていたからだ。
物心つく以前から露骨に避けられていれば、好意を持たれていない事は気付いていた。それでも母親だ。心の何処かで、その手を差し伸べてくれる事を期待していた。
でも── 今の言葉ではっきりとそれがただの願望に過ぎず、決して現実になり得ない事である事を理解した。
それが、切っ掛けだった。
自分の中に眠っていた、狂気と言う魔性が目覚めたのは。それはいつしか黒い獣の形を取って、夢の中に現れるようになった。
『滅ぼせ。お前だけが一人で死ぬ事はない。生きているもの、全てを道連れにしてやれよ』
内から聞こえる、禍々しい声。時間はないと急きたてる。
そうとも、もう時間はない。だからこそ、まだ己を獣にくれてやる訳にはゆかないのだ。
一分一秒でも長く生き続ける事、それ自体が己の死を望んだ母への復讐なのだから。
+ + +
── 久し振りに嫌な夢を見た気がする。
目を開いて飛び込んできた闇にすら安堵感を覚えてしまう程の…過去の傷。
『さっさと死んでしまえばいいのよ』
今も耳に残る声は、それだけで心の内を冷たく凍らせる。
幻とわかっていつつも、何度も夢という形で繰り返される度に、『その時』に感じた痛みを思い出してしまう自分に嫌気が差す。
額に薄く浮いた汗を乱暴に拭い、きつく唇を噛み締めた。
(…昔の事だろう。いつまで引き摺る気だ……!?)
苛立ちをそのままに、意識をその事から反らそうと、周囲を見回す。漂う静寂と闇に沈んだ部屋の様子から、まだ夜中であると判断する。
彼は寝台から身を起こすと、明かり一つない暗闇に戸惑う様子もない動きで、サイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばした。
グラスに水を注ぎ、そのまま一息に呷る。
咽喉を流れ落ちる温い水に、かつてあった微かな苦味が存在しない事で、彼は現実をようやく噛み締めた。
…もう、毒物に身体を慣らす必要はないのだ。
そう思いながら、意識の端々に残る夢のかけらを飲み下すように、更にもう一杯水を呷ると寝台から抜け出した。
夢を恐れている訳ではないが、何だか寝なおす気になれなかったのだ。
暗い部屋の中、窓辺だけが明るい。今日も月は翳り一つなく地上を照らしているらしい。
その仄かな光に誘われるようにその光の下へ向かった彼は、掛け金を外して窓を開いた。ふわり、と湿り気を帯びた微風が頬を撫でる。
その感触に目を細め、彼はその目を天に浮かぶ銀盤へ向けた。月光を受けて、彼の瞳がきらりと金に光る。
── それはかつて、彼が実の母に疎まれ、命すら狙われる事になった元凶。
「…もうすぐだ……」
もうすぐ、何もかもが──。
それは『獣』に唆されたのではなく、自分自身で決めた事のはずだった。
それでも何故か心の何処かがまだ躊躇している。準備はすでに整い、後は始めるばかりなのに。なのに何故、迷うのだろう。
失うものなど何もないし、大切なものもない。
良心なんて、内に巣食う獣にくれてやったはず。それでも心が迷うのは、一体何のせいなのだろう……?
「…我ながら矛盾している事だ……」
この場に誰もいないからこそ吐ける、自嘲の言葉。
そんな彼の吐息に溶けるような小さな呟きを受け止めるのは、夜風のみ── そのはずだった。
「…?」
ふと、視界を何かが横切った気がして目を眇める。夜更けに飛ぶ鳥の影かと思ったが、それにしては随分と大きかった。
(何だ…?)
瞬時に意識が切り替わる。
それはかつて幾度も命を狙われてきた彼には、随分と馴染みのある感覚だった。
すなわち── 殺気。
即座にピンと張り詰めた彼の意識は、周囲の変化を敏感に感じ取っている。金色に光る瞳が鋭利さを増した。
(何か…── いる……!!)
そう認識すると同時に、さながら月光の破片のような光が彼に向かって一閃した。