壊れゆく夜のために(3)
『月』と呼ばれるそこは、選ばれた者だけが住んでいる。
地上より遥か上空にある、手の届かない場所にある楽園。そこには苦痛もなく、飢えもない。全てのものが満たされて暮らしているのだと。
それは地上に伝わる現実の御伽噺。
手が届かないからこそ、その幻想は余計に美しく輝く。
「あそこに住む人達は、あらゆる美しいものに囲まれて暮らしているのですって」
寝物語に語りながらも、母親の胸にあるのは幼い我が子に対する慈愛だけでなく、針でチクリと刺すような憧れ。
否── 妬ましさ。
彼等の暮らす地上は、人が生きるにはいささか厳しい場所。
子が無事に生まれた所で、大人になるまで生き延びる確率は半々、老齢まで生きれば奇跡。そんな所だ。
痩せた大地は実り乏しく、食いつなぐのに精一杯。そんな状況で、多分に曲解されていたとしても伝え聞く『月』の情景はまさに楽園そのものだった。
「彼等は皆、背に翼を持つ従者を持っているの。彼等は不思議な力を持っていて、最初に定められたただ一人の主人に生涯仕え続けるのですって」
選ばれた者になれるかどうかは、生を受けた時点で審査を受ける事によってわかる。場合によっては、生まれる前からでもわかるという。
その審査基準がなんであるかは、一般の民には明らかにされてはいないが── それでも年にほんの一握りの人間が、あの光り輝く楽園に行く。そして、二度と戻って来る事はない。
── それだけが、彼等の知る事実。
だからこそ。
彼等はひたすら語り継ぐ。憧れと妬ましさを織り交ぜた、幻想に満ちた虚構を。
親から子へ、子から孫へ──。
目の前にありながらも、選ばれなければ誰一人として行く事の出来ない、天上の楽園の物語を……。
+ + +
いくら言葉にしてもしきれない思いがある。
好きとか、嫌いとか。そんな言葉をいくら費やしても、多分この思いは形に出来ないし、そんな言葉で全てが伝わりきれるとも思わない。
そんな単純な思いじゃ、ない。
第一、人は簡単に嘘をつける生き物で。本当に真実を語っているかなんて、その人本人にしかわからない。…逆も然り。
自分がどんなに本心からの言葉を告げても、相手がそれを真実と受け止めてくれなければ通じないのだ。ただでさえ自分はあまり頭が良くないし、自分の想いを的確に表現出来る言葉も思いつかない。
だったら── 行動で示すしかないではないか?
ずっとそんな風に彼女── ルフィータは思っていた。
「…うわ、マズそう……」
手にした錠剤を見つめ、思わずげんなりと呟く。
簡易ランプの赤味がかった光の下にあるそれは、ショッキングピンクとダークグリーンという、実に目に痛い色彩をしていて、出来る事なら口にしたくはないと思わせる物だった。
少なくとも口にするものには見えないし、どう見ても悪意しか感じない。飲めるもんなら飲んでみろと言わんばかりだ。
(本当にコレ、毒じゃないんでしょーね……)
渡された時はケースに入っていた為、何も考えずに受け取ったものの、もしあの時中身を見ていたら── 多分、すぐには受け取れなかったに違いない。
じっと薬を見つめ、次いで自らの背から生える白い翼に目を向ける。
『── 地上に着いたらこれを飲むといい。《エフェラ》特有のその翼は目立ちすぎるからな』
思い出した言葉は確かに事実で、闇の中でも── 否、闇の中だからこそ、彼女の翼は一際目立った。
『エフェラ』とは彼女のような有翼亜人を示す称号。かつていた場所には、ルフィータのようなエフェラがたくさんいた。
男に女、大人に子供。性別や年齢層は違えども、その示す事は共通している。すなわち── 隷属者、ということ。
背にある翼は機動性や特殊性の表れというだけでなく、只人と区別する為の標識のようなものでもあるのだ。
こんなものを背中に生やしたままでは、目的を遂げる事は恐らく困難を極める。
…選択肢は、一つしかない。
難しい顔のまま再び錠剤に目を戻すと、小さくため息をつく。叶う事ならこのまま役目を放り出して帰ってしまいたい。それが叶わない事なのはわかっているけれども。
「…あたし、挫けそう……」
誰に言うともなく呟いて、それでも彼女は覚悟を決めたようにぎゅっと目を閉じると、それを口の中に放り込み、用意していた水で一気に胃へ流し込んだ。
飲み下すまで呼吸を止めていたのだろう、飲み終わると同時に大きく肩で息をすると、いつの間にか額に薄く滲んでいた汗を袖で拭う。
薬一つ飲むだけだが、今までで一番緊張した気がするのはきっと気のせいではないだろう。時折、仲間達の間で行われる実戦込みの技能試験の時だってここまで命の危険を感じた事はない。
(飲んじゃった…飲んじゃったよ、あたし……)
これでもう、後には引けない。
変化はすぐには訪れず、かと言って動き回る訳にも行かず、ルフィータはその場に座り込み、時が来るのを待った。…薬が効果を発揮する、その時を。
天上の月が、ゆっくりと傾いてゆく。
こうして地上から見上げる日が来るなんて、人生(実際は人ではないけれども)というものは本当にどう転ぶものかわからないものだ。
ついこの間まで、地上になんて行くつもりも行きたいとも思わなかったけれど。
(…きれいだな)
冷たい、何処か人を寄せ付けないような光だけれど、その光は周囲を飾る星よりも美しいと素直に思った。…そこに住む人達は、一人を除いて最悪だというのに。
今回の地上への降下は、決して望んだものではない。それでもそこにいれば決して見る事の出来ない光景を見れた事は、ほんの少しだけルフィータの慰めになった。
(…が、いたら、いいのに、な……)
ふとそんな想いが浮かんで、唇を噛む。きっとあの人は一生この光景を自分の目で見る事はないだろう。
(一緒に見たかったな……)
感動を分かち合えない事が寂しい。自分の想いと同様、この美しさはどんなに言葉にしても伝わりきれないに違いないのに。
── が。
呑気に月を眺めていられたのはそこまでだった。
「── っ、…い、痛っ!?」
突然背を襲った激痛に、堪え切れずに悲鳴を上げてしまう。痛みに対してはそれなりに耐性があるはずなのに。
翼の根元が焼けた鉄棒を押し付けたかのような、熱を帯びた痛みを訴えたのを切っ掛けに、そこから全身に痛みが神経を伝わって駆け抜けてゆく。
「ぐ…あ、ぁあ……っ」
少しでも苦痛を和らげようと無意識に前屈みになり、自分の身体を自分で抱きしめるような形で地面に転がる。必死に歯を食いしばるものの、やはり噛み殺しきれずに悲鳴が漏れた。
いっそ気を失えたら良いのに── 痛みの中でそう思うものの、その願いは叶わない。
(い、た…痛い痛い痛い痛い痛いってばああああ~~~~ッ!!!!)
何がどうなっているのかなんてわからない。
痛みで頭の中が白く焼き切れそうになる頃、ようやく苦痛から解放された。ズキン、ズキンと余韻は残っているものの、体を内側から引き裂かれるような痛みは消えている。
汗だくになりながらよろよろと身を起こすと、パサリ、と乾いた音がして何かが背から落ちた。
…黒い地面に転がった、白い翼。それを呆然と目にして、そろそろと摘まみ上げる。
かつて己の背にあったであろうそれに、不思議と愛着は湧かなかった。手にした翼を放し、次に背に指を伸ばせば、今まであったものが確かに消えている。
それを確認すると、ルフィータは薄く笑った。もうこれで、自分の行動を縛るものはない。
それに…見た目だけでも『人』と同じになった事が少しだけ嬉しかった。
背中はまだ痛んだものの、もはや気にならなかった。ルフィータは立ち上がり、痛みのせいで覚束ない足取りで歩き始める。
── 言葉にする事も出来ない、抱えきれないほどの想いを行動で示す為に。