翼(2)
季節は秋の始まり。
先日までの暑さはもうすっかり消えて、風が涼しい。心地良い微風を受け、長い白銀の髪がふわりと空を舞った。
(気持ちいい……)
目を閉じて風に身を委ね、そうして、赤く泣き腫れた目を冷やす。
…久しぶりに、大泣きした。物心ついてから、泣くような事はほとんどなかったけれども、多分その中でも二番目くらいだろうか。
一番はこの春先。きっと、あれ以上に泣く事はもうない。
(…ディスパー、心配してるかな)
思わずそんな事を考えて、彼女── ファムルーは慌てて頭を振ってその考えを追い払った。
エフェ=メンタールたる彼女は、今ではもうすっかり成長していた。十七・八歳程のその姿は、養育をしてきた女官達が自慢に思う程にエフェ=メンタールに相応しい。
すらりと伸びた手足。白い肌。真っ直ぐな白銀の髪に、紫を帯びた青い瞳。そしてその滑らかな背に生える、白く大きな翼。
絶世の美貌とまではいかないが、その可憐な姿は見る者に一種の感銘を与えるものだった。
成人まで、あと僅か。月へと昇る日が近付いている。
(……)
その日を思って、ファムルーは地上を見下ろした。
空を飛びまわれるようになったのは生まれて三ヶ月が経つ頃。楽しくて嬉しくて、あちこち飛び回っては女官達を慌てさせた。
── 性格だけは、女官達の理想通りには行かなかったようだ。本人は特にそれを気に病んではいなかったけれども。
(…何処にいるんだろう)
ファムルーは焦っていた。何故かと言えば…まだ《片翼》が見つかっていないからだ。
《片翼》は、地上においてエフェ=メンタールの祈りを受け止める存在。言わば、対となる者だ。
こればかりは女官達が連れてくる訳にもゆかないし、ファムルー自身が見出さなければ意味がない。
そして《片翼》がいなければ、ファムルーはエフェ=メンタールとしての義務が果せなくなる。
(何で…見つからないの?)
通常、エフェ=メンタールは空を飛べるようになった時点で、自らの《片翼》を見出す為に《浄育宮》と呼ばれる宮殿から、時間は限られるものの単身出る事が許される。
月にある聖殿と近い環境に整えられているという浄育宮と、実際に目の当たりにした地上は一見したところではそう変わらないような気がした。
けれど、そこに住まう人々達の目に空を駆けるファムルーに対して、畏怖のようなものがある事はそう時を置かずともすぐにわかった。
彼等にとってエフェ=メンタールであるファムルーは、畏れ敬う存在であって、それ以上でも以下でもない。
…同じ高さに立ってはくれないのだ。決して。
育ててくれた女官達と…ディスパー、物心つく頃から側で彼女を守ってくれたあの青年と同じように。
それがわかってしまったから、余計にファムルーは《片翼》を求める気持ちが高まった。
《片翼》── 地上の民でありながら、エフェ=メンタールに選ばれた対となる者。
男でも女でも構わない。その人物なら…きっと、ファムルーを『ファムルー』という個人として認めてくれる。そう思えたから。
しかし、月へと昇る日を目前にしても、ファムルーの《片翼》は見つからなかった。
エフェ=メンタールはほとんど突然変異のようにして生まれてくる。
エフェ=メンタールの両親から子が生まれる事はないし(何故なら彼等は月へ昇った後、地上に戻る事はない)、エフェ=メンタールと地上の民の間に子が生まれる事もない(エフェ=メンタールの九割が女性で、一年で成人した後すぐに月へ昇る為だ)。
それだけ生まれてくる確率が低い為、ファムルーは自分以外のエフェ=メンタールに会った事がない。月へ昇れば会えるけれども、それではあまり意味がない。
女官達の話によれば、飛べるようになったエフェ=メンタールは早くて一月程で自身の《片翼》を見出すという。けれど、それがどういう感情によってわかるのか、当然女官達にわかるはずもない。
(時間がない……)
もし、その時までに《片翼》が見つからなかったらどうなるんだろう。
この頃、よくそんな事を思う。エフェ=メンタールとして培われたその自覚と意識が、彼女を雁字搦めに縛る。
女官達はファムルーを気遣って何も言わないけれど、彼女達にはきっと不名誉な事に違いない。出来そこないのエフェ=メンタールを育ててしまったという汚名を、被ってしまうかもしれない。
…彼女達だけでなく、彼も。
考えないようにしようと思っても、やっぱりファムルーの思考は彼へと辿り着く。
ずっと彼女の一番近くにいて、一番信頼している彼に。
『焦る事はありませんよ。きっと見つかります』
彼はファムルーが焦っている事を誰よりも先に気付いた。
もう、子供ではないからと、半年前…あの今までで一番大泣きしたあの日から常に一緒にはいてくれなくなったものの、不思議と彼はファムルーを一番理解してくれる。
でも、時としてそれはファムルーには何より辛い。
今日も、そう言って慰めてくれた彼に一方的に突っかかって、それでも怒りもしない彼に腹を立てて飛び出して来たのだった。
(…もし叶うなら、ディスパーを選ぶのに)
もしかしたら、そういう想いこそが《片翼》を見出す事の妨げになっているのかもしれない。たまにファムルーはそう思い、けれどその想いを捨てる事は出来なかった。
決して彼は、《片翼》にはならない。逆を言えば、だからこそ彼は彼女の護衛として側に置かれたのだと言ってもいい。
そうと知って、ファムルーは一日泣き通した。なんであんなに涙が出たのか、今はわかる。
あの頃から、自分は彼を心の内では選んでいた。彼が好きだったのだ。
でも── それは叶わぬ夢。
ずっとずっと子供だった時、彼は自分に祈ってくれると言ってくれたけれど、彼は決して自分の祈りを受け止めてはくれないのだ……。
+ + +
『ディスパーのばかあっ!!』
泣き腫らした目が、頭から離れない。飛び立つ最後の言葉が、耳から消えない。
彼は一人、ため息をついた。
自分が側で見守ってきたエフェ=メンタール、ファムルーはこの頃情緒不安定で、流石の彼もどう扱っていいのか思案してしまう。
普通の民の少女なら『お年頃』で済まされる事だが、エフェ=メンタールである彼女にはそれは許されない。
彼女が成人する── すなわち、月へと昇る期日が着実に近付いているからだ。時間にすれば、あと半月強。
表には出さないが、彼女付きの女官達もこんな事態が起こるとは思ってもみず、困惑しているようだった。
こんな…成人ぎりぎりまで《片翼》を見出せないなど、今まで嘗てなかった事らしい。
気の毒に、と彼── ディスパーは思う。
ただでさえあんなに早く成長するというのに、月に昇った後はずっと夢の中に生きなければならない。
それだけでもなんて不自由な一生だろうと思うのに、恋すらも急いで見つけなければならないとは。
そう…誰もはっきりと言わないし、そして認められてもいないけれど、エフェ=メンタールの《片翼》は恋人と同義なのだ。
相手が異性でも同性でも、恋い慕う想いこそが彼等の祈りを地上に届ける。
エフェ=メンタールの、対の幸福を願う祈りは地上を確実に癒す。
エフェ=メンタール自身は恐らく知らないままだろうが、この大地は呪われた場所だった。
人が暮らすには、あまりに過酷な場所。一見平和そのものに見えるが、大気には人の自由を奪う毒が含まれ、大地には人の生命を縮める毒が含まれる。
その毒を中和するのが、エフェ=メンタールの祈りの力。
彼等が星の呪いから解き放たれた月から祈ってくれるから、地上はかろうじて人が生きられる環境になっているのだ。
最も高貴な存在と崇めるのには、それなりに理由があっての事。ディスパーには彼等が生け贄のように思えてならなかった。
(…無事に戻って来られるといいけれど……)
大地の汚れからエフェ=メンタールを守る為、浄育宮は一般の人々が暮らす平野部から離れた高地に置かれている。
人の足では《片翼》を捜しに出たエフェ=メンタールを捜しに出る事はまず不可能だった。
不安が募る。ファムルーが一人で飛べるようになった頃から、彼が守る為に側にいる事は少なくなった。
…甘えん坊で、何処となく頼りないあの少女は、今頃何処で何をしているのだろう。
『ディスパーには、わたしの気持ちなんてわからないのよ!』
涙で訴えた彼女。でも、彼女こそわかっているのだろうか?
こうして、彼女が無事に戻る事を祈るだけしか出来ない、彼の気持ちを。
決して自分の物にならない翼を見守るしかない、この気持ちを──。
思い出すのは、彼女が子供だった頃の── 彼にとってはほんの一年程前の事。星が綺麗な夜だった。
彼と一緒でないと嫌だと駄々をこねたファムルーの、たどたどしい言葉と、しがみ付いてきた小さな温もり。
あの暖かさに、何だか純粋に感動した。
あんな風に彼に触れる者がまた現れるなんて、夢にも思っていなかったからかもしれない。
…あの時の誓いは今も胸の中にある。そしてこの誓いが失われる事はないだろう。
ただ、きっと彼の祈りは彼女の元へは辿り着けない。あの美しくも遠い、あの月まで届かないだろう。
彼が彼女の祈りを決して受け止められないように……。