翼の末裔(15)
まるで何かに引き裂かれた跡のような、醜く引き攣れた傷。それが丁度、ティアーレの左右の肩甲骨の辺りにあった。
(…この傷は、なんだ?)
村人達に貴人のように扱われていたにしては、あまりにもひどい傷痕だ。
しかも見た所では、それ程古い傷痕のようでもない。何処か生々しさの残るそれは、たった今ついたものではないが、少なくともここ数年でついたものだろう。
なまじ染み一つない白い背であるが故に、その傷は目に強烈に焼きつき、そして痛々しく見えた。
それ程の傷だと言うのに、それを隠そうとしない服装なのが奇妙に思える。むしろ── 逆に目立たせようとしているかのような。
(まさか、な……)
そうは思うものの、実際リュナンはその背からしばらく視線を外せずにいた。
村人達のティアーレに対する態度が、リュナンにそう思わせたのかもしれない。あの、『宝』と言いながらも、ティアーレの人格を無視するような、あの態度が。
世間知らずというだけでなく、多少風変わりな感は否めないものの、ティアーレも年頃の娘のはずだ。身体に傷があるなど、隠したいと思うのが普通ではないだろうか?
確かに先程まではショールで隠れてはいたが、隠す為のもののようには思えなかった。おそらく単純に防寒の為だろう。
それとも…ひょっとしたらティアーレ自身は気付いていないのかもしれない。背に走る傷が、これ程にひどいものである事を。
自分の背中など、見ようと思って見れるものではない。鏡は高価なものだし、上半身を映すだけの物でも相応の値段がする。こんな辺境では、あったとしても小さなものだろう。
周囲の人間が口を揃えて大したことはないと言えば、それを信じるだろう。
(何だか…羽でも、もいだみたいだな)
そんな事を思い、その想像に何か引っかかるものを感じる。
そう言えば矢を受ける前に、村人達が言っていなかっただろうか。『エフェ=メンタール』という耳馴染みの薄い言葉を。
それは、今ではもう伝説になった存在の事ではなかったか。
子供の頃、寝物語に聞いただけの為、具体的な事はろくに覚えていない。確か永い月日の中で生まれなくなっていき、今ではもういないという話だったように思う。
背に翼を持つ、心優しき佳人── ティアーレはそれだと言うのだろうか。
(…そんなはずはないか)
しっくり来ると言えば確かにそうなのだが、もしそうだとしても、その象徴たる翼を奪う理由がないし、背に翼を持つ存在など、とてもではないが実在するとは信じられない。
リュナンはようやく視線を反らすと、再び自らの手を見つめた。村人達の血に塗れたそれは、すでに赤黒く変色し始めている。
自らの傷を見れば、矢で切り裂かれたそこは、すでに再生した血肉によって傷痕すら見出せない。引き千切られた服がなければ、何処を傷つけられたのかもわからないだろう。
何度となく確認してきた事だ。自分は人の姿をしていても、『人』ではない。異常なまでの治癒力がその事実を強調する。
── 人ならぬモノなら、今ここにいる。
彼女は『人』だ。形は間違っていても、誰かに必要とされていた存在だ。
…死を望まれ、自分でもそれを望み── なのにいつまでもそうする事が出来ずに、不幸ばかりをまき散らす自分とは違う。
『獣』になった自分を見ても、行くなと引き留めてくれた存在。恐怖以外の感情を向けてきた、初めての──。
ここに置き去りにした結果、村へと連れ戻された時、果たして彼女は自分を恨むだろうか?
(……。恨む前に許しそうだよな、こいつ……)
たった半日にも満たない間。その間だけしか一緒にいた訳ではないというのに── その想像は何故か簡単に出来た。
置き去りにしたリュナンを『仕方ない』と許し、そして村から二度と出られなくなっても、それが運命なのだと諦める、その姿が思い浮かぶ。
何故ならティアーレは彼を助ける為に、自分の意志で飛び出したはずの村へ帰ると言った位なのだから。
いくら恩義を感じたにしても、村を出たのは相当思い切った行動だったはずだ。それを撤回してでも、自分に迷惑をかけるまいとしたお人好し。
運よく村人に見つかる前に気がついたとしても、この様子では一人で旅など出来るとは思えない。騙され、奪われ、最悪── 殺されるだろう。
「……」
リュナンは完全に破れてしまったティアーレのショールを枝から外すと、意識のないティアーレの背にそっとかけた。
服としてはほとんど役に立たないが、多少なりと傷は隠れる。そのまましばらく迷った後、その身体を抱き上げた。
自分よりいくらか低い程度の身長なのに…しかも意識のない状態でありながら、その身体は信じられない程に軽い。確かに華奢ではあるのだが、それでも小さな子供だってもっと重い気がするほどだ。
その事を疑問に感じながらも、リュナンは歩き出す。
これで本当に人攫いになってしまう、と思いつつ、けれどその足取りに迷いはない。
「…約束は、守らないと、な」
言い訳のように呟いて。それでもこのまま放置する事は出来なかったのだ。
助けてやる、と自分はティアーレに言った。
あの時はそこまで考えて言った言葉ではなかったけれども。自分が死ぬまでの間くらい── 人としていられる間くらいは、その言葉を守りたいと思った。
抱き上げるこの腕も、手も、身体全体が数え切れない人の血で汚れてしまっているし、この身は呪われたものだ。
けれど、この世間知らずな少女が一人で立てるようになるまで、襲いかかるであろう困難から守る事くらいは出来るだろう。
…最初にティアーレが自分にくれた信頼を裏切りたくはなかった。たとえ目覚めた後、ティアーレが自分を恐れても。
世界中の誰もが自分を人だと認めてくれないとしても、せめて心だけはまだ人でありたいと思う。許されないのだとしても、生きている限りは人でありたかった。
「……?」
ティアーレが身じろぎして、反射的にそちらを見ると、何処か安心したような顔でティアーレはリュナンに身を預けてくる。
その白い手が、きゅ、とリュナンの血塗れの服を握りしめるのを、何だか不思議な気持ちで見つめた。
無意識の行動に意味などないと思う。昨夜と同様、温もりを求めただけであって、別に自分という存在が必要とされている訳ではない事もわかっている。
…それでも。
「…ガキみてー……」
呆れたように呟きながらも、心が少しだけ軽くなったのを自覚する。
…目が覚めてもティアーレは今までと変わらないかもしれない。そんな予感がした。
期待などすべきではないと思うのに、今この時はリュナンは自分の選択が間違いではないのだと信じられた。
一度だけ振り返れば、そこには凄惨な光景が広がっている。この先、何度もこんな光景を見せ続ける事になるかもしれない。その事を思うと胸が痛むけれど──。
そして、リュナンはそのまま森の中へと姿を消す。
事切れた村人達の骸を他の村人達が発見するのは、彼等がその場から姿を消してからおよそ半刻が過ぎる頃。
そして、村人達は知る。
彼等の『翼』が、『獣』によって奪われた事を──。