翼の末裔(13)
── これは、今ではもう、誰も知らない物語。
大地のずっと、奥深く。
そこには昔、一匹の獣が棲んでいました。
それはとても強い力を持っていましたが、普段はずっと眠っていて、余程の事がない限りは目覚める事はありませんでした。
何故なら、獣は知っていたのです。
自分が目覚めると、必ず何かが壊れて失われてしまうのだという事を。
何故なら、獣は自覚していたのです。
自分が自分以外の存在にとって、どんな存在であるのかを。
獣はずっとずっと、独りきりで眠っていました。
夢も見ずに、眠り続けました。
このまま、目覚める事が二度となければいいと、願って眠り続けていました。
というのも、獣はかつて目覚めた時に、その力を抑える事も出来ず、多くの生命を奪ってしまったからです。
獣は孤独でしたから、身の回りの世界が失われる事をとても恐れていました。
たとえ、自分の事を必要とされなくても…自分を恐れようとも、自分というものを認識してくれる存在を失いたくはなかったのです。
全てがなくなってしまったら、獣は本当に世界に独りきりになってしまうのですから。
…しかし、あまりに長すぎる眠りは、いつしか獣から心を奪いました。
心を失った獣は、形を失いました。
── そして、そこにはずっと獣が内で抱き続けていた「感情」だけが残されたのです。
ずっとずっと、獣が心の奥底に抱え、見まいとしていた、『負』の感情だけが。
悲しい── どうして、こんな淋しい場所にいなければならないのか。
辛い── どうして、こんな場所で眠り続けねばならないのか。
憎い── どうして、自分はこんな力を持ってしまったのか。
羨ましい── どうして、自分以外の存在は幸せに生きる事を許されるのか。
大地の奥深くで、そんな思いが坩堝のように渦巻いて溶け合い、最後に一つのものだけが残ったのです。
それは── 『淋しい』。
意志を失った獣の心は、その最後の願いを叶える為に動き出しました。
孤独を癒してくれる何かを求めて── 地上へと。
けれど。
形すら失った獣は、それでもやはりあらゆる存在にとって、災厄でしかなかったのです……。
形を失った獣は、あまりにも不安定でした。
もはや本能しかないそれは、己がどんな存在であったかも忘れて、『形』を求めました。
最初は森に生息する小動物に。
けれどそれには収まりきれず、次はそれを餌にする猛禽類に。
それでもやはり収まりきれずに、求める『形』はどんどんと大きく凶暴な生き物になって行きました。
獣は己の抱える飢えが元々なんであるのかすら、忘れていたのです。
より原始的な本能── 食欲に置き換わってしまったそれは、血を求めて荒れ狂いました。
食べて、食べて、貪って、食い散らかして。
それでも満たされる事はなく、たくさんの命が為す術もなく奪われました。
流れた血が大地を赤く染めて行き── 全ての命が絶えるかに思われました。
しかし、ある時。
獣の前に一人の人間が現れました。
獣が襲いかかるその刹那、その人間は言ったのです。
『愚かなことを。全てを絶やした所で、後にはお前が残るだけというのに』
初めて誰かに語りかけられた獣は、振り下ろした腕を止めようとしました。
それはそれまで本能だけで動いていた獣が、初めてそれに逆らった瞬間でした。
けれど── 止めるにはあまりにも獣は大きくなりすぎていたのです。
自重で加速のついた爪は、あまりにもあっけなくその人間を粉々に引き裂いていました。
もはや語る事のないその人間を、獣は茫然と見つめました。
思い出したのです。どうしてここに自分がいるのかを。
何を、望んでいたのかを。
獣は泣き叫びました。
獣は己を呪いました。
また眠りに就いたところで、きっと同じような事が起こるに違いない、と。
── 滅びてあれ、と。
けれど獣は滅びの化身。
自分で自分を滅ぼす事が出来ません。
そしていつしか獣は、また形を失い、心を喪い── そしてついに自分を含めた全てを滅ぼす呪いそのものに姿を変えて。
『ホロンデシマエ』
『キエテシマエ』
『コロシテシマエ』
全ての滅びを叫ぶその呪いは、いつしか大地全てを飲み込み包んで行きました。
── これは、今ではもう、誰も知らない一匹の哀れな獣の物語。
それは今でも終わらない悪夢の中、全てが終わる時を待ち続けているのです──。