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翼の末裔  作者: 宗像竜子
第二話 翼の末裔
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翼の末裔(11)

 キリキリと弓矢が引き絞られる。あれが解き放たれたら、無防備なリュナンは命を落とす。

(やめて)

 リュナンは死にたがっている。死ぬ事を望んでいる。

 ならば、自分はそれを助けなければならない。彼が自分を助けてくれたように、彼の望みが果たされるよう、ここで止めてはならないのだ。

 そう、思うのに。

(死なないで……!)

 獣宿持ちが死なねばならないのだとしても、…納得は出来ないが、それが逃れられない運命なのだとしても、今、この時に死んで欲しくはなかった。

 まだ、自分はちゃんと言えていない。

 彼が助けてくれた事に対して、お礼の言葉をちゃんと言えていないのだ。

 自分の一方的な願いを聞いてくれたのに、ありがとうの一言も──。

(お願い、死なないで……!)

 自分には何の力もない事を、ティアーレは自覚している。

 村人達の言うような、癒しの力など持っているはずもない。だけど、祈る事が唯一彼女の出来る事なのは確かだった。

 だから、祈った。

 射手の手が、ほんの少しでも狂う事を。

 リュナンが、その矢を避けてくれる事を。

 …少しでもいいから、『死』を厭ってくれる事を。



 ── しかして、その祈りは聞き届けられる。

 だが、皮肉にもそれは獣宿というものがどういうものかを、ティアーレに知らしめるものだった……。


+ + +


 ザシュッ、と肉が切り裂かれる音。

 衝撃と痛みが走り、それと同時にかっと熱がそこに集まる。全身の血が、そこ一点に集まったかのようだ。

 そこ── 心臓よりも少し下、わき腹を抉るように切り裂き、矢は崖の方へと飛んでいった。ほんの一刹那、時間が止まったような瞬間の後、傷から勢い良く血が吹き出る。

 熱い液体が飛び散り、大地を染め、腕や身体、顔にまで飛んだ。

 真紅の、血。生命の…色。

 そして── 狂気の引き金。

「……」

 最後の最後で、矢は外れた。

 男の手元が狂ったのか、それともリュナンの身体が無意識に反応してしまったのか、それはもうわからない。

 どくんどくん、と血が駆け巡る音が聞こえる。

 視界が血の色に染まって行く。

 世界が、あらゆる音が、遠ざかる。

(…ああ)

 絶望の中で思う。まただ。

 また、自分は死ねなかった──。

 思考が闇に塗りつぶされてゆく。代わりにその奥にいた自分の中の── 《獣》がゆっくりと目覚めてゆく。

 そして……。


『殺してしまえ、何もかも』


 聞こえて来るのは、呪いの言葉。

 心の奥底から聞こえて来るようなその言葉は、何故かとても心を乱す。

 その通りにしたら、とても気持ちよくなれるような気がするのだ。


『壊してしまえ、全てのものを』


 殺して、壊して、奪って── 何も残さず食い漁れとそれは言う。

 そうすれば、『人』を捨てれば楽になれるとそれは嗤う。

 自分の内に巣食うそれは、自分が死に瀕する度にこうして現れる。

 流れた血で目覚め、流れた以上の血を求めて荒れ狂うのだ。

 その間の事は、何一つ覚えてはいない。ただ、わかるのは── 誰かの命を奪えば奪うほど、それが自分を支配する時間が長くなっているということだけ。

 だから早く死ななければと思う。

 まだ少しでも自分が『人』である内に。『人』に戻れる内に。


 早く、早く、早く── 誰か、オレを殺してくれ……!!


 その焦燥もやがて全て闇に飲みこまれて。

 代わりにそこに形なすのは、狂気のイキモノ──。


+ + +


 どん、と激しく突き飛ばされ、ティアーレは為す術もなく頭から繁みに飛び込んでしまう。葉が肌を傷つけ、枝に引っかかってショールが破れる音がした。

「……ッ」

 全身を打ちつけて気が遠くなる。地面と違い、それなりに衝撃は弱まっていたものの、心の準備もなく倒れた為に受身らしいものも取れなかったせいだ。

 くらりと眩暈がするのを、ぐっと歯を食いしばって耐える。

 すぐに立ちあがらねばと思ったものの、何故かそうしてはならない気がして、しばらくそのままそうしていた。

 それは突き飛ばされる瞬間に、自分を捕らえていた村人が『危ない』と叫んだからかもしれないし、今、すぐ背後で恐ろしい悲鳴が上がったからかもしれなかった。

 そして、何かが自分の身体にもかかった。熱い── 生臭いような、独特の匂いを放つ何か。それが何なのか、考えないようにする。

(…怖い……)

 一体、何が起こったのかわからない。何が起こっているのかも。

 矢がリュナンの身体を傷つけたものの、命を絶つまでには至らなかったとわかった瞬間、周りの村人達に動揺が走った。

 リュナンは噴出した自らの血で、すぐに真っ赤に染まった。

 止血をしなければ、と思った時には、もう村人によって突き飛ばされていたので、それから何が起こったのかわからない。

 リュナンは一撃で仕留めろ、と言っていた。そう出来なかった場合、一体何が起こるのだろう?

 聞こえてくるのは次々に上がるくぐもった断末魔の声と、応戦しようとしているのか、弓が鳴る音だけ。

 反射的に耳を塞ぎ、目を閉じた。それでも恐怖は薄れなかった。

 いたのは全部で七人程。それぞれがそれなりに腕に覚えのある者のはずだった。…なのに、すぐにその場は静寂に包まれる。

 そして…代わりに漂うのは、考えないようにしていたのにどうしてもわかってしまう、濃密な血の匂い……。

 しばらく待って、そろそろと身を起こし── ティアーレはそこに広がる凄惨な場面に身体を強張らせ、目を見開いた。声が喉の奥で凍りつき、悲鳴すらも出てこない。

 先程まで生きて動いていた村人達は、みな事切れて大地に転がっていた。確かめた訳ではないが、首と胴とが引き離されて生きていられる人間がいるはずもない。

「…っ、ぁ……」

 一面が彼等の血で真っ赤だった。大地も周辺の繁みも、そしてよく見るとティアーレ自身にもその赤はあった。

 それが先程浴びた何か── 返り血なのだと理解し、目を反らしたいと思うのに反らす事も出来ない。

 このままこの場面を見続けたら何かが壊れてしまう、そう思うのに、完全に身体が固まってしまって動けなかった。

 転がる死体の中に、一人立つ姿── リュナンだ。

(…わたしも、ここで死ぬの?)

 そこに人ならぬ気配を感じて、ティアーレは思う。

 死ぬかもしれない。その事に対しては怖いと思うのに、不思議とリュナン自身に対しては恐怖は感じなかった。今もその手に、村人の首を無造作に掴んでいるというのに。

 獣宿とは、その名の通り獣を宿すものの事なのだ、とようやく理解する。獣でなければ── 人の心を持たない存在でなければ、こんな惨たらしい殺し方は、きっと出来ない。

 腕や首を、素手で引き千切るような殺し方など──。

 一見したところ、普通の人間と変わらない彼の何処にそれほどの恐ろしい力があるのか、こうして目の前に事実を突き付けられてもわからなかった。

 リュナンがふと気配を感じ取ったようにティアーレの方を見る。

 その赤い目に、感情らしいものはない。あるとしたら、それは狂気と呼べるものだったのかもしれないが、ティアーレにはわからなかった。

「…リュナン」

 呼びかけたのは、もしかしたらリュナンが正気に返るのではないかと思ったからか、それとも別に理由があったからか。

 それすらもわからないままに、彼の名が口から零れ出ていた。

 リュナンが手にした首を投げ捨て、ティアーレに向かってゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。それは何だか、昨夜出会った時の事をティアーレに思い出させた。

 あの時も、彼は繁みの中にうずくまる彼女の元へ、迷う素振りもなく歩み寄ってきたのだ。そして、迷子扱いをして、村へ送ってやろうか、と言った。

 …その時には確かにあった、人らしい感情が、その瞳にはない。

 闇の中で金に輝いた赤い瞳は、今は無表情に繁みの中のティアーレを映している。その事が無性に悲しかった。

「リュナン……」

 血塗れの手が動き、迷う素振りもなくティアーレの首に伸びる。

 逃げなければこのまま殺されると思うのに、ティアーレは動けなかった。ただ、ひたすらリュナンの名を紡ぐ。そうする事しか、思いつかなかった。

「リュナン」

「……」

 村人達の血か、生臭い臭いが鼻をつく。

 ぬるり、とした感触と共に、リュナンの指がティアーレの細い喉に絡みついた。

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