翼の末裔(8)
面倒な事になった、と内心では思った。
ちらりと後に目を向ければ、必死な様子で彼の後をついてくるティアーレの姿がある。
最善を尽くす── その決意を実行に移すべく、明らかに歩き慣れていないくせに、黙って彼の後を着いて来ている。
(…少しは、歩調を落としてやりたいけどな)
しかし、そうする余裕はあまりない。
実際、追手は確実に後からやって来ている。微かに聞こえてくる声の様子だと、あの野宿した跡を発見したのだろう。
簡単に始末をしたものの、見る者が見れば一目でそこで人が休んだ事がわかっただろう。── しかも、二人の人間が。
疑問はあった。地の利はあるだろうが、追い着くのが早すぎるような気もする。道と言う道もない場所だと言うのに、やけに正確にティアーレの足跡を辿っている気がするのだ。
(…まさかな)
おそらく偶然だ。
ティアーレには伝えなかったが、リュナンがこの逃亡に協力的なのは、別に理由があったからだ。
追手の声はこう言っていた。
── 早く取り戻さなくては。
ティアーレは自分で出てきたはずなのに、何者かがティアーレを連れ去ったのだと彼等は考えているようだった。
その状況で自分とティアーレがいる所を見ようものなら、リュナンがその盗人と思われるに決まっている。
だったら、今ここでティアーレを一人置いて行けばいいのに── ティアーレを見捨てる事は、何故だか出来なかった。
それは、昨日の夜は久しぶりに夢も見ずに眠れたからかもしれない。
自分を包み込むように抱き締めてくれる温もりは、確かに彼に幸福だった頃の記憶を呼び覚まし、いつものように訪れる悪夢を退けてくれた。
…まさか、目が覚めたら本当にティアーレが抱きついているとは思わなかったが。
思い返せば、人の温もりを身近で感じたのはおよそ十年ぶりの事だった。そう、最後に温もりを与えてくれた人── 母親が死んでから、自分にあのように触れる人間は誰もいない。
《獣宿》という呪いが、自らの身にかかるのを恐れ、ただその死を願うばかり。
もっとも、ティアーレは獣宿を知らないからこそ、平気なのに違いない。もし、それがどのようなものであるのかわかれば、きっと彼女も自分から去って行くだろう。…きっと、必ず。
可能ならば、知られるのは別れてからがいい。身勝手だと思いながらも、リュナンは思う。
真っ直ぐに自分を見てくれるティアーレ。彼女が自分を恐れる姿は、出来る事なら見たくはなかった。
(その為にも、何とかこの場を切り抜けないとな……)
地の利は向こうにある。
本来ならティアーレこそが、先に立って進むべきだろう。この地で生まれ育ったのなら、彼より地理に明るいはずなのだから。
しかし、リュナンはそうはしなかった。
獣宿、というこの世界で最も不浄であり、異端とされるものを知らないティアーレが、普通の村人のように生活をしていたとは到底思えなかったからだ。
そして事実、ティアーレはリュナンの後を着いて来るばかりで、道案内をする気配はない。
少しでもこの辺りを知っていたら、道を知っていてもおかしくはないのに、それをしない。つまり── 知らないのだ。
(…本当に、一体こいつは何者なんだろう)
何度も口にするものの、それに対する答えは与えられてはいない。ティアーレ自身が、自分の事をよくわかっていないからだろうが、それでも疑問は募る。
獣宿持ちの場合は、生まれてすぐに殺されるか、一生幽閉される。リュナンは後者── もっとも、かつては、という言葉がつくけれども。
しかし、ティアーレの場合は何なのだろう。ただの村人ではない事と、獣宿持ちでないのは確かだ。
明るい場所で見た姿は見目麗しいと呼べるものだが、だからと言ってそれを理由に閉じ込める事もないだろう。
ティアーレはその辺りの村娘と片付けるには、何処か高貴な雰囲気があるが、けれど決して、絶世の、とか傾城の、と形容のつくような美貌ともまた違うのだ。
そう── ティアーレから感じるのは『清らかさ』だ。何処か、人間臭さを感じさせない、その雰囲気が、世間知らずな内面と合いまって、『ティアーレ』という少女を形成している。
光の下であらわになった姿は、何もかもが白かった。
髪も肌も、服までも白く── けれど、不思議と冷たさも潔癖さも感じさせない『白』だ。濃紺の瞳と薄紅の唇と爪先だけが、その白を彩る。
…白い髪。銀の髪なら幾度か目にしたが、本当に白い髪を目にしたのは初めてだ。もしかすると、その稀な髪が理由なのだろうか……?
── 考えても考えても、答えは見えない。その間も休みなく足を動かす。
「…!」
そして、いきなり視界が開けた。
「…くそっ、こっちは駄目か」
「リュナン?」
追い着いたティアーレが立ち止まったリュナンを不思議そうに見上げ、そして彼の視線を辿ると息を飲んだ。
「…崖……」
そこには抉れたように大地がなかった。
巨人がその部分を削り取ったかのようなその場所は、村人が『大山狗の爪跡』と呼ぶ場所だった。
大山狗とは、かつてこの周辺に棲んでいたとされる伝説の生き物で、生物を何でも食らい尽くす怪物だったと伝えられている。
人を食らう度に肥え太り、その足音は大地を震わせたが、最後は自重で動けなくなり、そこを勇敢な戦士達によって鎖で山肌へと縛り付けられた。
大山狗はそのまま山の一部になったが、捕獲される際に暴れて大地を深く削ったという。
それが、『大山狗の爪跡』。深い断崖は、谷と呼ぶにはあまりに深く、大地の底にまで続いているとも言われている。
だが、リュナンもティアーレもそんな伝説など知りもせず、ただ突如現れた断崖絶壁に呆然となるばかりだった。
迂回するには、かなり遠回りを覚悟せねばならないし、恐らくこの場所を知る村人は迂回路を押さえている事だろう。
かと言って、この崖を降りるなど、たとえそうした装備があったとしても無理に決まっていた。
(…どうする……?)
ふと考え込んだ、その時。ティアーレが静かに口を開いた。
「…わたし、戻ります」
「え?」
一瞬、何を言われたのかわからず、まじまじとティアーレの顔を見ると、ティアーレは真剣な目で見返してくる。
濃紺の瞳が光を受け、一瞬透き通った。
「わたしが村に戻れば、きっとリュナンは見逃してくれると思います」
「…何言ってるんだ、お前は?」
ほんのちょっと前に、最善を尽くすと決めたばかりなのに。
どうして今になってそれを覆そうとするのか、リュナンにはわからなかった。
「お前、村には戻りたくないんだろ?」
生きて行く場所を見つけたいと言っていたはずだ。
もしかしたら── リュナンが死ぬ場所を見つけようとするのと、同じだけの切望をもって。
その問いかけに、ティアーレは寂しげに微笑んだ。
「…ええ。でも、もしこんな所で追手に捕まったら…リュナンに迷惑をかけます。それは嫌なんです。リュナンは物を知らないわたしを、助けようとしてくれました。…だから」
そこで一度ティアーレは言葉を切り、そしてまるで祈るように続きの言葉を口にした。
「わたしにも、リュナンを助けさせてください」