翼の末裔(6)
何だか泣きそうな顔だ、と思ったものの、目の前の少女はそれでも涙を流しはしなかった。何処か挑むような目で、じっとリュナンの目を見上げてくる。
見た所、十六、七歳くらいだろうか。おそらく自分とあまり違わない。けれど、その年齢にしてはおかしな事があった。
── 今まで、家族以外で彼の目をそうやって真っ直ぐに見つめてきた人間は皆無だった。
夜、輝く瞳は人外の証。不気味がられる事はあっても、こんな風に真正面から睨みつけられる事はなかったのだ。
だからかもしれない。この、初対面の少女に興味を抱いたのは……。
「…何故、死ぬ事があなたを、あなたたるものにするのですか?」
真っ直ぐに見上げる瞳は、零れそうに大きい。濡れて輝くそれは、今は夜の闇と同じ色。
肩の辺りで切りそろえられた髪ははっきりと色こそわからないものの、まっすぐに流れて曲一つない。
白く飾り気のない服に、同色のショールを肩にかけ、荷物という荷物は見当たらない。
これで家出(本人は違うと言っていたが、結局はそういう事だろう)してきた辺り、いかに世間知らずかわかろうと言うものだった。
…事実、彼の異常さを目の当たりにして、なおかつそんな事を尋ねてくる辺りが、物を知らない証明でもあろう。
「生きてこそ、あなたはあなたであれるのではないのですか?」
紡がれる言葉はまったくもって正論だった。
それは、リュナンとてそう思う事。けれど、彼の場合はその正論も当てはまらない。
── 何故なら、リュナンはこの世界においては人であっても、『人』として認められていないから。
「オレは、人じゃない。だからその理屈は当てはまらないのさ」
事実を口にすると、少女はその目を丸くした。そして、からかわれたとでも思ったのか、いっそう力のこもった視線をぶつけてくる。
「あなたはどう見ても、人ではないですか!」
やがて少女の口から飛び出したのは、あまりにも常識を無視した言葉だった。
…普通の人間は、夜に目が光ったりしないという事を、知らないわけではないだろうに。
その食って掛かるような言葉が何だか愉快で、彼は知らず笑みを浮かべていた。笑う事など、すっかり忘れていたと思っていたのに、こうして笑える自分が不思議だった。
「人の姿はしているが、外見だけだ。…あんた、《獣宿》って言葉を知ってるか?」
「獣…宿? いいえ、それは一体何の事です?」
不思議そうに問い返される。
もしや、とは思ったものの、あまりにも予想通りの返答に、リュナンも流石に考えた。
いくら何でも、物を知らなすぎる。実際の獣宿持ちを見た事はなくても、言葉くらいは知っているはずなのだ…普通なら。
知らない振りでもしているのかとも思ったが、そのようには感じられないし、そしてそんな必要は何処にもない。
明らかに異常なリュナンを全く恐れない事といい、一体どういう育てられ方をしたというのだろう。
「…あんた、一体何者だ?」
「何者と言われましても…あ! 名前でしたら、ティアーレと言います」
あからさまに怪しい男に、あっさりと名乗り、先程までの警戒を忘れたかのように微笑む。
質問の答えをはぐらかした訳でもないのだろうが、その反応は益々リュナンの疑問を募らせるものだった。
ティアーレと名乗ったこの少女は、何処かおかしい。
現実の厳しさすら、ろくに知らないで育ったかのように、不自然なほどに純真で無知すぎるのだ。
これがもし都のような場所であれば、貴族か裕福な商人辺りの娘で通るのだろうが、今二人がいるのは辺境も辺境、しかも山奥である。
生活は貧困を極めているに違いないし、そしてその厳しさ故にその価値観は必要以上に現実的なもののはずだ。
…それなのに。
「…普通の人間は、《獣宿》という言葉を聞くだけで、祓いの呪いをするもんだぞ」
無意識の内にティアーレへの不信が言葉に表れる。
するとそれが伝わったのか、ティアーレは途端におろおろとうろたえ、困ったような目を彼を向けるのだった。
「あ、あの…わたし、変、ですか?」
やがてティアーレが口にした言葉は、あまりにも自分というものを自覚していなくて、かえって毒気を抜かれるものだった。
「す、済みません…田舎育ちですし、わたしは何処か、人より疎いところがあるので…その……っ」
「……」
田舎育ちと口で言いながら、その丁寧な口調といい、素直過ぎる感情表現といい、とても田舎で育った人間には見えない。たとえ村長の娘であろうと、こういう風には育たないだろう。
それこそ── ずっと、世俗と隔離された場所で、限られた知識だけを与えて育てるような事をしない限りは。
(…それとも、そういう育てられ方をしたっていうのか?)
そう思った瞬間に、一つの記憶が甦った。
── 窓一つない、石の壁。蝋燭の薄明かり、浮かび上がる狭い部屋。
冬になると底冷えがひどく、夏は空気の通りが悪かった。…それでも、願えばいつでも暖かな腕が、暖かな声が差し伸べられた、場所。
(思い出すな。もう、…覚えていたってしょうがないんだから)
振り払うように心の中で呟き、そして不安そうに見上げるティアーレに再び目を向けた。
もう一度確認するように見てみても、やはり見た目はどうという事はない、普通の少女だ。何処にも異質な徴候は見られない。
…自分とは違うのだ。
(…まあいい。どういう事情があろうと、オレの知った事じゃない)
そう── ティアーレの手助けをするのは、単に成り行きだ。
交換条件として口にした、『自分が死ぬ』為の手伝いなど、実際は当てにもしていなかった。
今までずっと探してきた。それでも、見つからなかった── 自分が自分である内に死ねる場所。殺してくれる誰か。
十年近くの年月をかけて探し続けたそれが、そう簡単に得られるはずもない。
「…あの?」
困惑を隠さない声で我に帰り、リュナンはふう、と重い吐息を漏らす。そして生じた間を誤魔化すように、自分の名を口にした。
「オレは、リュナンだ」
「…! リュナンさんとおっしゃるんですね」
名乗ればやたらと嬉しそうな笑顔になる。この風変わりな少女のちょっとした冒険に付き合うくらい、大した手間にはならないだろう。
自身のいた村に戻りたくないと言うのなら、少し離れた別の村まで連れて行けばいい。
この様子なら、どうせそこまでの道中で根を上げるに決まっている。そうしたら、そこで別れればいいのだ。
(そう…それだけだ)
自分を恐れない瞳に、興味を抱いたからではない。その不可解さに興味を抱いたからでもない。
単なる── 気まぐれ。そう思った方が、きっといい。
自分にとっても、おそらく彼女にとっても。
「…まだ、その分だと体力はあるよな?」
「はい!」
リュナンが提示した条件を冗談だと思ったのか、それとも手助けしてくれるとわかったからだろうか、ティアーレの顔がぱっと輝いた。
その単純明快さに、リュナンは苦笑する。こんな調子じゃ、いつか悪党に騙されてひどい目に遭うに違いない。
…もっとも、自分も世間一般的な目で見れば、世間を騒がす悪党と何ら変わらないのだけれども。
「なら、ついて来い。こんな場所じゃすぐに見つかるし…それ以前にこんな所で寝たら、明日には身体中が痛んで動けやしないぞ」
「はい、リュナンさん」
「……。リュナン、だ。…『さん』付けは鬱陶しい」
「はい、リュナン!」
先に立って歩き始めたリュナンの後を、驚く程体重を感じさせない足音が続く。
静かな静かな夜の闇の中、二人の旅人はそれぞれの思惑を抱え、行く先の定まらない道のりを歩き始めたのだった。