剣聖候補のスランプと、名もなき練兵場
レイラ・フォルストランドは、剣聖候補だった。
剣を振るたび、誰かが見ていた。失敗するたび、誰かが囁いた。
そしてある日、レイラは第一練兵場から逃げ出した。
騎士学校の中央には、第一練兵場がある。王族と公爵家の子弟、そして剣聖候補が、専属教官の指導を受ける場所。床は磨かれ、的は新調され、剣の音さえ整って響く。
その隣に並ぶ第二練兵場は、侯爵家から子爵家までの子弟、または特待生クラスが使う場所。
敷地の南には、第三練兵場。男爵家以下の義務課程組が、そこで剣を振る。
それより外。林に半ば呑まれた古い建物が一つある。屋根の一部が抜け落ち、的の麻は破れ、床板は割れている。校舎案内図にも載っていない。名前もない。
レイラ・フォルストランドは今、その建物の中にいた。
剣聖候補。
その肩書きを背負ったのは、一年前のことだった。十七で正式に候補に認定された日、誇らしさよりも先に、視線が重くなった気がした。
第一練兵場で剣を振ると、教官の声が飛んでくる。
「フォルストランド、もう一本」
「フォルストランド、その振りで剣聖が務まるか」
「フォルストランド、見せてみろ」
同輩は何も言わない。けれど振り終わるたびに、視線が刺さる。後輩は壁際に並んで、剣聖候補の素振りを観察している。一振りごとに、出来不出来を採点されている。
最初は応えられた。期待は誇りだった。
スランプは、ある朝唐突に来た。剣がいつもと違う重さで手に乗っていた。振っても、芯に当たらない。同じことを百回繰り返しても、戻らなかった。
それでも視線は止まらなかった。
「フォルストランド、調子が悪いのか」
「フォルストランド、もう一本」
「フォルストランド、剣聖候補だろう」
教官の声が、応援から催促に変わった。同輩の視線が、敬意から疑念に変わった。後輩の囁きが聞こえるようになった。
剣聖候補がスランプ。
その四文字が、第一練兵場を駆け巡るのは早かった。
レイラは、第一練兵場から逃げ出した。
第二練兵場に移動した。ここなら、教官付きではない。自分一人で振れる。そう思った。
二日と経たずに、空気が変わった。
「あれ、剣聖候補だろ」
「なんで第二にいるの」
「スランプって本当だったんだ」
稽古の音が、少しだけ乱れた。第二練兵場の生徒たちが、こちらを見た気がした。剣を止めた者もいれば、振り続けながら目だけを向ける者もいる。特待生クラスの同期たちが、離れた場所で視線を交わしていた。
声をかけてくる者はいない。けれど、囁き声だけは、剣の音の合間に耳へ届いた。
剣の話ではなかった。
剣聖候補が、第二に来た。その事実そのものが、彼らの娯楽になっていた。
第三練兵場には、行けなかった。
男爵家以下の義務課程組が、剣を振る場所だ。第一や第二より、ずっと多くの生徒がそこにいる。視線の数で言えば、これまでの比ではなかった。
それでも、視線の数の問題ではなかった。
剣聖候補が、義務課程組の場所で剣を振っている――その光景を、生徒たちに目撃されることが、レイラには耐えられなかった。第一や第二では、まだ「剣聖候補の不調」として消費されていた。第三で目撃されれば、「剣聖候補が義務課程組の場所まで落ちぶれた」という話になる。剣聖候補という肩書きそのものが、嘲笑の対象になる。
それだけは、できなかった。
行き場をなくしたレイラは、ある日、敷地の外周を歩いていた。
授業のない時間。剣を振りたいのに、振る場所がない。第一は地獄。第二も地獄。第三には行けない。
林の中に、古い建物が見えた。
校舎案内図にも載っていない。誰も使っていない。誰にも見られない。
視線から逃れるように、レイラは戸を開けた。
最初の日、レイラは誰もいないと思っていた。
床板の割れた音と、自分の呼吸の音だけが響く場所。屋根の穴から差す光が、的の影を斜めに伸ばしていた。
ここなら、誰にも見られない。
レイラは剣を抜いた。振った。久しぶりに、評価されない振りだった。
百回。二百回。
数を数えている自分がいた。本当の素振りは、数を忘れてからだ、と師に教わった。けれど数えるのをやめられなかった。
三百回で、手が止まった。汗が顎から落ちて、割れた床板の隙間に染みた。
レイラは顔を上げて、息を整えた。
そのとき、視界の端に、誰かが映った。
建物の隅、一番奥の薄暗い場所。男が一人、剣を振っていた。
歳は自分と同じくらい。地味な稽古着。腰に下げているのは、装飾のない実用品の剣。
男もレイラに気づいた。けれど一瞥しただけで、興味をなくしたように素振りを再開した。
今はそれが何よりの救いだった。
下手だ、と思った。
フォームが雑で、力任せで、明らかに我流。剣聖候補の目から見れば、入学したばかりの十二歳の見習いの方が、まだ整った振りをする。
でも、男は止まらなかった。
レイラが呼吸を整えている間も、男は黙々と剣を振っていた。動きは遅い。レイラが百回振る間に、男はせいぜい四十回ほどしか振らない。
レイラは、自分の素振りに戻った。
その日、レイラが先に建物を出た。古い木戸を閉めるとき、男はまだ素振りを続けていた。
翌日も、男はいた。
同じ場所で、同じ下手な素振りをしていた。
その翌日も、その翌日も。
昔は、剣を振ることで迷いは断ち切れた。今では、振ることで迷いが生まれる。それでも、振らずにはいられなかった。
迷いが頭を埋めるたびに、レイラは建物の戸を開けた。
いつ来ても、男はいた。
朝早くに着いた日も、男は既に振っていた。
昼、授業の合間にふらりと立ち寄った日も、男はそこで振っていた。
夜、寝る前にどうしても剣を握りたくて来た日も、男はまだ振っていた。
レイラがどの時間に建物の戸を開けても、彼は必ずそこで剣を振っていた。
ある日、レイラが建物を出ようとした時、年老いた管理人が箒を持って立っていた。
「すみません、お嬢様。入口の帳面、気づかれませんでしたか」
管理人が戸口の脇を指した。
そこには、脚の片方が少し傾いた古い小机があった。初めて来た日から目には入っていたはずなのに、レイラは使われなくなった備品だと思っていた。
机の上には、薄い表紙の帳面が置かれていた。机には埃が積もっていたが、帳面だけは手に取られている気配があった。
「ここ、案内図には載っとらんですが、一応、何かあった時のために誰が使うかは付けることになっておりまして。お手間ですが」
レイラは帳面を手に取った。古びた紙の感触が、指先に乾いて残る。
ハーゼ・ベルクフェルト。
ハーゼ・ベルクフェルト。
ハーゼ・ベルクフェルト。
最初のページにも、次のページにも、その名前があった。
レイラは、無言でページを遡った。
日付だけが変わり、名前は変わらない。
「変わったお方ですよ。誰も使わないこんな場所で、毎日」
管理人が独り言のように呟いた。
半年前。
一年前。
それでも、同じ名前があった。
ずっと、ただ一人の名前が並んでいた。
「私もこれから使うんだがな」
レイラが言うと、管理人は少し驚いた顔をした。
レイラはすぐに謝った。
「今のは少し……嫌味な言い方だったな。すまない」
レイラは、帳面を一番新しいページまで戻した。
ハーゼの名前の下に、自分の名前を書き加えた。
初めて、その帳面に別の名前が並んだ。
その日、レイラは寮の自室で長く起きていた。
帳面に並んだ二つの名前が、目を閉じても消えなかった。
剣を握って、振らずに、ただ握っていた。
ハーゼ・ベルクフェルト。
その名前がどこから始まっているのか、最後まで遡ることはできなかった。遡るのが怖かった。
技術なら、自分の方が遥かに上だ。それは間違いない。
けれど、続けることでは、自分はあの男に負けている。
レイラは剣を置いて、灯りを消した。眠れなかった。
レイラは今日も練兵場に行った。
ハーゼはいた。いつもの隅で、いつもの下手な素振りをしていた。
レイラは自分の場所で素振りを始めた。
百回。二百回。
レイラの手が、止まった。
「あの」
声が出ていた。レイラ自身、出すつもりはなかった。
ハーゼが振り向いた。汗を腕で拭いながら、不思議そうに目を瞬かせる。何度か同じ場所で振っていた相手が、初めて声をかけてきた、という反応だった。
「はい?」
レイラは、自分の口が動くのを止められなかった。
「私は、努力が足りないんだろうか」
言ってから、しまった、と思った。剣聖候補が、見ず知らずの相手にこんなことを聞くなんて、どうかしている。
ハーゼは、少し考える顔をした。
それから、淡々と答えた。
「ここに通いだして、今日で二十三日になりますね。二十三日分の努力にはなってると思いますよ」
レイラは、ハーゼの顔を見た。
ハーゼに、特別なことを言った様子はなかった。当たり前のことを、当たり前に答えただけに見えた。
二十三日。
たったそれだけの答えだった。
けれど、その数字はレイラの胸に深く落ちた。
剣聖候補として十分か。期待に応えられているか。剣聖に近づけているのか。
レイラはずっと、そういう物差しで自分の剣を測っていた。
けれど、ハーゼの答えは違った。
二十三日通ったなら、二十三日分。
それ以上でも、それ以下でもない。
振れた日もあった。迷った日もあった。途中で手が止まった日もあった。
それでも、ここに来て剣を握った日は、確かに積み重なっていた。
第一練兵場からは逃げた。第二練兵場からも逃げた。第三練兵場には行けなかった。
けれど、剣を置いた日はなかった。
剣聖候補。
その言葉は、いつの間にか自分のものではなくなっていた。
教官の声の中にある言葉。同輩の視線の中にある言葉。後輩の囁きの中にある言葉。
だが、誰にも見られないこの場所で振った二十三日にも、その言葉は続いていた。
誰に見られなくても。うまく振れなくても。迷っても、怖くても。
それでも剣を置かなかった自分がいる。
ならば、その肩書きもまた、自分のものだ。
私は、剣聖候補なのだから。
「……ふっ」
笑いがこぼれた。
「ふっ……はははは」
笑いが止まらなかった。
ハーゼは困ったように眉を下げた。何がそんなに面白いのか、まるで分かっていない様子だった。
レイラは、しばらく笑った。笑いながら、汗とは違う何かが、頬を伝った。
笑い終わった時、古い練兵場の景色が、少しだけ違って見えた。
割れた床板。破れた的。屋根の穴から落ちる朝の光。そして、隅で剣を握る男。
下手な剣を振る男ではない。名もなき練兵場にいた誰かでもない。
ハーゼ・ベルクフェルトという、一人の人間だった。
レイラは剣を鞘に納めた。
呼吸を整えて、ハーゼに向き直った。
「私はレイラ。レイラ・フォルストランド。よろしければ、お名前を聞いても?」
ハーゼは戸惑った。剣聖候補の名前を知らないわけがない。学校中の生徒が知っている名前だ。それを本人が、自分のような者に向かって、わざわざ先に名乗っている。
「……ハーゼです。ハーゼ・ベルクフェルト。ベルクフェルト男爵家の長男です」
レイラは、その名前を口の中で確かめるように繰り返した。
それから、深く頭を下げた。
剣聖候補が、男爵家の長男にする礼ではなかった。
「また会おう、ハーゼ殿」
レイラは建物を出た。古い木戸の向こう、林の合間に差す朝日の中へ歩いていった。
ハーゼは、しばらくその場に立っていた。
頭を下げられた理由が、よくわからなかったし、何がそんなに面白かったのかも、わからなかった。ただ、毎日同じ場所で素振りをしていた相手が、ここに通いだしてからの日数を、何となく数えていただけだった。
ハーゼは剣を握り直し、素振りに戻った。
その日も、ハーゼが建物を出たのは、いつも通りの時間だった。
レイラは、第一練兵場に戻った。
床は磨かれ、的は新調され、剣の音さえ整って響く場所。
戸を開けると、幾つかの剣の音が止まった。
「フォルストランドだ」
「第二にいたんじゃないのか」
囁きが、耳へ届いた。
視線が刺さる。けれど、もう前ほど重くなかった。
教官が歩み寄ってきた。
「フォルストランド。……振れるのか」
レイラは何も言わなかった。
自分の定位置へ行き、剣を抜いた。
頭の中にあるのは、割れた床板と、破れた的。そして、あの遅い剣の軌道だった。
レイラは、剣を構えた。
振った。
手の中で、剣の芯が戻っていた。
期待に応えるための振りではなかった。剣聖に近づくための振りでもなかった。ただの、二十四日目の振りだった。
百回。二百回。
数を数えている自分がいた。けれど、もう数えるのを怖がる自分はいなかった。
囁き声は、いつの間にか止んでいた。
第一練兵場には、剣の音だけが、等間隔に響いていた。
数ヶ月後、王立剣術大会で、若き剣聖候補レイラ・フォルストランドが優勝した。
その報は、見る間に国土を駆け巡った。




