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「考え直すつもりはないかい?」
柏木人事部長が、最後の確認を口にした。
「はい」
私は晴れ晴れとした気持ちでそう答えた。柏木人事部長はため息とともに書類にサインをして「お疲れさまでした」そう告げ、書類を差し出した。書類にサインを書いていると「これからどうするんだい?」と問うてきた「やりたい事をやろうと思います」そう答えると「そうか」とだけ答えた。世間話にもならない短いやり取りだった。仕事の関係とはいえ長い付き合いの私たちの間では、それで十分だった。
自分のデスクに戻り、残っているものが無いかの最後の確認をする、少しずつ持って帰っていたため一学期最終日の小学生の様に荷物でいっぱいになるなんてことは無かった。自分のデスクの掃除と水拭きをしていると、ふと笑みがこぼれた。一学期最終日か、我ながら言い当て妙だと思った。学校を卒業して働き続け、定年してやっと人生の一学期が終わったという事か。これから長い夏休みか、人生なかなか捨てたもんじゃないな。人生の秋も冬もまだまだ先の事の様だ。
掃除道具を片付けて、さあ帰ろうとすると、仕事仲間たちが集まってお疲れさまと言ってくれた。口々にまだ引退は早いだの定年再雇用制度を使うべきだの言ってくれるが、私の腹の中はもう決まっている志と「ありがとう」を言って退社をした。引き留めてくれる、会社にとって私は価値のある存在だったのだ、そう思わせてくれる同僚たちの心遣いが嬉しかった。
会社の門から出て、守衛さんにパスカードを返却すると、会社に一礼をして私は帰路に付いた。
退勤ラッシュに揉まれない電車で帰るなんて、何時ぐらいぶりの事だろう? そんな事を思いながら帰路に就く、長年住み慣れた独居者用のマンションに帰り、手洗いうがいをして、何時までも若いままの君の写真が入った写真立てに「ただいま」を言う。会社用のスーツにブラシをかけながら「そういえば、もうこのスーツも革靴もワイシャツもネクタイも、もう必要ないのか」そう独り言ちる。そういったものをリサイクル袋とゴミ袋に詰めて、次の回収日は何時だったかを確認する。
まだ明るい時間に夜ご飯を食べ、風呂に入ると、もはややるべきことも明日の準備も存在しなかった。君が居ればまた違った選択肢もあったんだろう、君との子供が居たなら、定年延長をして孫のための学費を稼いでいたのかもしれないね。
以前まではベッドがあった寝室には、大きなカプセル状のタンクベッドが鎮座していた。要介護者が数ヶ月単位で使用しても問題ないように、床ずれ防止機能や体を清潔に保つ機能や身体能力低下が起きないような機能が付いている最高級の一品だった「遊びにかまけて、体を壊しては元も子もないからね」退職金でこんなものを買ったなんて言ったら、君は説教をしてくれていただろう。
タンクベッドにセットアップされてるヘッドギアを装着し横になった。
さあ始めよう、人生最後の青春を、あの夏休みをもう一度手に入れるために。
ヘッドギアから直接脳内に映し出されるオープニングムービーの美しさに感動しながら、私はVRMMOにダイブしたのだった。




