13 傷の手当て
家の中に戻り、僕は美国の傷を手当てする準備にかかった。
今度はリビングで手当てをしようと思っていたが、美国は自分の部屋が良いと言う。
「自分の好きな物に囲まれていた方が、少しでも落ち着けると思うから」
だからさっきもわざわざ自分の部屋に招いたのだ。僕は穴があったら入りたい、穴がなくても掘ってでも入りたい気持ちだったが、反省は後回しにした。
僕はキッチンで見た物を持って美国の部屋に入り、机の上にあったカッターナイフを取って、美国に渡した。
「良いですか、美国。これを持って、もし僕が美国に変なことをしようとしたら、これで僕を切りつけて逃げるんです」
美国は目を見開いて、僕を見た。
「後は誰に聞かれても、僕に襲われそうになったからだと答えれば良いんです。僕はそれに一切反論しません。美国の言った通りだと答えます」
美国は今から自分の最大の恐怖と戦おうとしているのだ。ならば僕も、相応の勇気を持って望むのが当然だろう。
「傷の手当てには、これを使おうと思います」
僕がキッチンから持ってきたのは食品包装用のラップだ。
「最近は、傷口を乾かさない治療が推されてるんです。僕も体育の時にできた擦り傷で試してみましたけど、痕が残らないで治りました」
水で洗った傷にラップを貼り付けてサージカルテープで止め、後はラップがずれないように包帯で巻いておく。傷が治るまで傷を水で洗ってラップを張るの繰り返しだけでいい。
「消毒はしないの?」
「消毒する方が駄目なんだそうです。人が元々持っている自己治癒力の妨げになる場合があるらしいので。大きな怪我でなく、日常生活でできる程度の傷なら、こっちの方法の方がいいらしいです」
そして僕は持ってきたもう一つの物を美国に見せた。
「台所用の手袋です。これを手にはめて、傷の手当をします」
普段この家で食器を洗うときに使っているらしいピンク色のゴム手袋がキッチンのふきん掛けにかかっているのを見て、思いついたのだ。
男の手は恐くても、生の手でなければ耐えられるのではないかと。
僕は手当の下準備をすると、手袋を両手にはめて美国に座るよう声を掛けた。
「さっさと済ませますからね」
美国に笑いかけはしたものの、正直僕は相当緊張していた。また美国が発作を起こすのも恐かったが、怯えた美国にカッターで切りつけられる事態になるのも恐かった。
「傷の所、見せてもらいます」
僕は動作を先触れして、慎重に行動した。できるだけ美国の身体に触れないようにTシャツ袖を捲り上げると、上腕から肩にかけて大きく擦り傷ができていた。
袖を捲り上げるとき、美国はビクリと身体を引こうとしたが、僕の手を見開いた目で見つめながら息を飲み、それ以上逃げずに耐えた。美国が右手に握ったカッターが小刻みに震えているのを、僕は最大限の努力で視界の外に押しやった。
「この部屋、本がたくさんありますけど、本が好きなんですか」
僕は美国に話しかけ、会話を試みた。美国と話ができれば、美国の意識も多少は僕から逸れて恐怖も薄まるし、緊張も緩和されかもしれない。僕の方も黙って手当てしていると息が詰まりそうで、美国の地雷を踏まない話題として、部屋に散乱する本を選んだ。
この部屋にある本は主に漫画を描くための資料なのだと美国は答えた。それを糸口に、最近読んだ本の内容、好きな作家、とできるだけ美国が喋るように仕向けて、その間に作業を進めた。
「僕も読んでみたい本があるんですよ。図書館で探そうかと思ってるんですけど」
「誰の、何て本?」
「シノ様お勧めの、本郷雅彦って作家の本です。本の題名も知らないんですが」
「私、何冊か持ってる。どれでも良いなら、貸すよ」
「じゃあ、美国が面白かったと思ったのを一冊貸してください」
平穏に受け答えしながらも、僕は汗だくになっていた。高校入試の面接でさえこんなに緊張しなかった。それも当たり前か。入試に落ちても死にはしないが、今美国に不信感を抱かれたら、この世とおさらばすることにもなりかねない。
いや、最悪でもそれはないだろう。僕の現世への復帰ための期間に死ぬ運命が来るなんてことがあってたまるか。そんなことになっていたら、今度こそあの世でクレーマーになってやる。
それにしても閻魔様から何の連絡もないのは、僕が思うよりあの世界は複雑で難航しているからなのだろうか。
包帯を巻くために左腕を取っても、美国はもう逃げなかった。包帯を巻いていくゴム手袋の僕の手を見ながら、最近一押しの漫画の話を僕に聞かせてくれていた。
「はい、これでいいです」
包帯の端をテープで止め、美国の腕から手を放したとき、僕はその場に倒れ込んでしまいそうなほど疲労困憊だった。が、意地で大きく息をしただけに止めた。
「……ありがとう」
美国は感慨深げに包帯を巻かれた腕を見ていた。白い包帯は、美国が一つのハードルを確かに越えた証で、勲章でもある気がした。
「美国、悪いんですけど、帰る前にお茶もらえませんか。僕、喉が渇いてしまって」
「あ、うん。麦茶でいいなら」
「わがまま言っていいですか。熱い日本茶が飲みたいです」
渇いた喉を潤すだけなら麦茶で良かったが、未だ身体に残る緊張の芯を解すためには熱い日本茶が欲しかった。年寄り臭いと言われようと飲み物の中で一番日本茶が好きなのだから仕方がない。ここで好みよりも格好つけ優先で「コーヒーを」と頼めないのが、僕がモテない要因の一つだろうか。
美国が湯を沸かしてお茶を入れてくれている間に、僕はトイレの掃除にかかった。
今日美国は相当頑張った。持てる勇気以上の勇気を振り絞って、恐怖に打ち勝った。そんな美国に、自分の弱さの後始末をさせるのは可哀想で、させたくなかった。
「中原君、いいよ、そんなことしてくれなくても」
キッチンにいた美国が慌てて走ってきたが、僕は美国を追い返した。
「お茶をねだった代わりです。大丈夫、僕こういうの、結構平気なんですよ」
吐瀉物をトイレットペーパーであらかた拭き取った後、汚れた便座カバーとマットをバスルームのシャワーでざっと洗い、脱衣所に置いてある洗濯機に放り込む。それから戻ってトイレの床を掃除用シートで拭き、仕上げに脱臭スプレーを撒いた。
掃除を終えてキッチンに行くと、美国がカウンターの上に急須と湯飲みを置いた。
「ありがとう……ごめん、気持ちの悪い掃除をさせて」
「あれくらい何でもないですよ」
気にしないようにと僕は笑ったが、美国は申し訳なさそうな顔で湯飲みに茶を注いでくれた。その後自分の湯飲みにも茶を注ぎ、キッチンの引き出しから錠剤を取り出した。
「美国、それ、薬ですか」
「……うん、頭が痛くて」
「駄目ですよ。胃が空っぽの状態で薬を飲むのは」
かといって、今すぐ食べられそうなものは何もないらしい。
「冷蔵庫の中、見て良いですか」
美国に断って冷蔵庫を開けると、残りご飯がラップに包んであった。卵も市販のめんつゆもある。
「美国、十分待ってください。簡単な雑炊作りますから」
僕が高校受験のため夜遅くまで勉強していると、何回か佐緖里姉ちゃんが作って部屋に持ってきてくれたものだ。小鍋に水と残りご飯を入れて、火に掛ける。沸騰したら火を弱めて五分ほど炊き、めんつゆで味付けして溶き卵を入れ一煮立ちすればできあがりのお手軽雑炊だが、美国はとても喜んでくれた。
「すごい。中原君、すごくおいしいよ」
一口食べて、美国は笑顔を見せた。広海の見舞い以来見なかった笑顔だった。
美国も頑張ったが、僕も僕の限界を超えて頑張ったと思う。美国の笑顔はその報償だ。
美国は笑顔のまま雑炊を完食し、薬を飲んだ。
「じゃあ、僕、帰ります」
使った鍋などを洗って片付けて、キッチンテーブルに寄りかかるようにして座っていた美国に声を掛けると、
「……ああ……うん」
美国はキッチンテーブルに寄りかかるようにして座っていた身体をゆらりと起こして、鈍い返事を返した。目が眠そうに虚ろになっていて、身体がふわふわと不安定に揺れている。腹が満たされて身体が温まり、薬も効いてきて頭痛も治まって眠気が来たのだろう。
「あ……そうだ。貸すって言った本……持ってくる」
「じゃあ、玄関で待ってます」
危なげな足取りで自分の部屋に向かう美国に若干不安を覚えたが、僕は玄関で靴を履いて彼女を待った。しかし、美国はいつまで待っても来ない。嫌な予感がして再び家に上がり、美国の部屋に行ってみると、美国が本に埋まるように倒れていた。
僕は、生まれて初めて全身の血の気が引くという体験をした。身体が硬直して、呼吸まで止まった。脳が目に入る情報の処理を拒否して働かず、時が凍り付いた感覚がした。
「美国! 大丈夫ですか!」
数泊の後、僕は弾かれるように美国の側に駆け寄った。
美国は――眠っていた。眠っているだけだった。ただ、平穏に。
頭に過ぎった最悪の状況でなかったことに安堵して、僕はその場にへたり込んだ。
美国の手元には本郷氏の本が一冊落ちていた。他の本も探そうとして、寝落ちしてしまったのだろう。無理もない。あれだけ吐いて、泣いて、極度の緊張に耐えて頑張った。その上時刻はもう深夜というより明け方に近い。体力気力が共に尽きてしまったのだ。
僕は美国のベッドから上掛け布団を取って、眠る彼女にかけてやった。漫画のようにお姫様だっこで美国を運ぶ筋力なんて僕にはないし、運べたとしても万が一運んでいる途中に美国が目を覚ましたら、その先は想像もしたくない恐ろしい事態になる。
少し口を開けて平和に寝息を立てている美国を見て、僕はこみ上げてくる涙を抑えきれなかった。
美国は僕を同性愛者と誤解して信じている。だから美国の僕に対する恐怖は僕の『男の身体』である表面であって、内面に対する警戒はない。その美国の僕への信頼が、今は僕を激しく責めていた。
僕は美国に信頼される資格なんてない。
僕は自分勝手な妄想と思い込みで、取り返しのつかない過ちを犯すだった。美国が僕を好きだなんて、好きだから僕を誘ってるなんて、思い上がりにもほどがある。よくもそんな自意識過剰で都合の良い想像ができたものだ。数時間前の僕を殴り倒したい。
だけど女の子に夜中に呼び出されて、親のいない家の自室に招かれたら普通期待するだろう――と心のどこかで声がする。それこそが僕の罪だった。
僕は美国を嫌いではない。が、愛しているわけではない。
愛もないのに、僕は美国の言動を自分に都合よく解釈して、性に対する好奇心と欲望だけで彼女に手を出そうとした。それは美国を暴行した教師と同じ、外道の行いだ。僕は強姦魔と同類のクズな人間だ。
声を押し殺して泣く僕の側で、美国は安らかに眠っている。
せめて夢だけは優しい幸せなものであって欲しいと願う。目覚めて生きる現実の時間の美国には、辛すぎる過去の陰がつきまとっているのだから。
僕が作った雑炊をおいしいと笑った美国の顔を思い出す。
何もなければ、学校でもあんなふうに笑えたはずだった。他の女子みたいに、恋の話に胸をときめかせて、格好いい芸能人やスポーツの得意な先輩に憧れたりして、ごく普通に、けれどかけがえのない青春の日々を送れたはずだった。
それがたった一人のクズのために奪い去られてしまった。
男性に恐怖を抱く美国にしてみれば、学校の教室は拷問部屋に等しいだろう。蛇に噛まれて蛇嫌いになった人間を十数匹の蛇と一緒に部屋に放り込むのと同じだ。「この蛇は人を噛まない」と言われたところで安心できるわけもない。常時緊張し、怯える空間で笑顔を見せろという方が無理だ。
男が恐いと泣きながら吐く彼女の姿を、彼女を襲った男に見せてやりたい。四年経った今もなお心の傷が癒えずにいる彼女の苦しみを見せて、お前のせいだと罵ってやりたい。
僕はTシャツの袖で乱暴に顔を拭うと美国が貸してくれようとした本を拾い、明かりを消して部屋を出た。
見るところ今は美国の体調に問題はなさそうだが、僕が帰った後急に悪くなったらと思うと不安で帰れなかった。せめてあと一時間、様子を見てからにしようとリビングで本を開いた。
本は本郷氏の短編集だった。読みやすい文章で、一話もう一話と続けて読んでいる内に、僕も自覚なく限界だったらしくそのまま寝てしまっていた。
その眠りの中で夢を見た。
夢の中で、僕は荒野に立っていた。僕が死んだときに見た、あの荒野だ。
僕の後ろにある四本の木は、何故か両親と二人の姉だと分かった。
そして先方に形も大きさも違う五本の木があった。
幹の太い頑健そうな木、細いが優しい形の葉を茂らせた木、複雑な枝の形が美しい木、まっすぐ上に伸びて生命力溢れる木、そして、幹も枝も葉も小さい木。
小さい木には幹の大きな傷があったが、健気にも花を咲かせていた。薄桃色のかわいらしい花だった。触れると落ちてしまいそうで、僕は大事にしてやりたいと思った。
ふと、読んだ本のタイトルが頭に浮かんだ。それは本郷氏の短編集の中の一つ。
いつか森になる荒野。
僕の無意識の夢にぴったりのタイトルだった。




