12 恐怖心
持っていたコップを取り落としそうになって、ようやく僕は我に返った。
「それは……いつのことですか」
酷い質問だと分かっていたが、聞かずにはいられなかった。
「小六の、五月」
つまりは十二、いや旭が美国の誕生日は三月と言っていたから、十一歳だ。
しかも、学校の教師に?
僕はショックで気が遠くなりそうで、ドアの前に座りコップを床に置いた。
「旭たちは、知ってるんですか」
詰問調子にならないように、僕はできるだけ柔らかい声を出すよう意識した。
「知ってる。あの四人は、自殺しようとした私を、助けてくれたんだ。それからずっと、力になって、くれてる」
おそらく誰にも知られたくなかった一番の秘密を僕に自ら暴露して、心の重石が無くなったのか、涙混じりで途切れがちではあるが、声に少し落ち着きが戻っていた。
「でも、そのせいで、旭たちの、人生の、邪魔を、してる」
そんなこと、と僕は美国に見えないのも忘れて首を振ったが、
「旭たちは、私を心配して、同じ高校に、来てくれた。でも、私が、いなかったら、旭も瞬も、もっと、いい高校へ、行けた。大樹も、剣道の強い学校に」
美国は自分のせいで友人たちの進路を曲げてしまったと思っているようだった。
旭と支倉君に宮ノ森の他に行きたい高校があったのかどうかは知らない。けれど、前田君は美国の言う通りなのかも知れない。
「広海だって、自分の、病気より、私の心配、ばっかり」
「友達を心配するのは当然ですよ。美国が旭たちを大事に思っているのと同じです」
ようやく落ち着いてきた美国の感情がまた高ぶらないように、ありきたりな言葉しか言えなかったが僕は美国を宥めるのに徹した。
「うん……でも、私がいつまでも弱いのが、いけないんだと思って……まず、中原君を、平気になろうと思ったんだ」
「僕を? どうしてですか」
「中原君は……女性にそういう興味が無い人だから」
僕は声を上げそうになって、手で口を塞いだ。
そうだ。忘れていたけれど、そもそもはそんな誤解が元で僕は旭と偽装交際の契約を結んだんだった。僕を同性愛者と思い込んでいる美国が、僕と肉体関係を結ぼうと誘いを掛けてくる訳がない。
「中原君は、女性に邪な感情を持たない。だから、中原君に怪我の手当で、触られても大丈夫だったら、男の人が恐いのも、克服していけるんじゃないかと、思ったんだけど」
ごめん、と美国は再び泣き出した。
「な、中原君は、何も、悪くない、のに、勝手に、怖がって。ごめん……ごめんね」
「謝らないでください」
僕は這うようにしてドアにもたれかかり、美国に語りかけた。
「美国こそ、何も悪くないです。恐いものを恐いと言って、何が悪いんですか」
「だ、だけど、いつも、親切にしてくれる、中原君を、恐い、なんて言って……私、自分が、情けない。よ、四年も、経つのに」
「時間なんて関係ないです。それに、僕にだって、美国とは比べものにならないくだらなさですけど、思い出す度に身もだえして呻きたくなるような辛くて嫌な経験、ありますよ。幼稚園の頃、好きな女の子の前で転んで犬のうんこに顔から突っ込んで、その子に悲鳴を上げられて逃げられたこととか、小学校の遠足で、行く途中でズボンの尻の部分が裂けて一日そのままでいるしかなかったこととか。他人からすればそんな些細なことと思われるかも知れませんけど、僕には立派なトラウマです」
どちらの時も暫くそれをネタにからかわれて、本当に悲しかった。思い出したくもない過去だ。
「それに、僕、美国の気持ち、少しだけど分かります。実は僕、春先にバスの中で痴漢にあって、それ以来恐くてバスに乗れないんです」
あれから僕は、本当にバスが苦手になった。事故に遭ってから体質が変わり酷くバス酔いするようになったと言い訳しているが、乗ったバスにまたあの痴漢がいるような気がして、乗れなくなってしまった。それどころか、痴漢に遭った時と同じ外見のバスを見かけただけでも若干気分が悪くなる。
「誰にだって恐いものや苦手なものはあります。だから、そんなふうに気に病んでは駄目です」
美国を慰めながら、僕はトイレに籠城する彼女をそこから出してシャワーを浴びさせる方法を模索していた。
美国は僕が恐いのだから、僕が帰れば話は簡単なのかも知れない。けれど、汚れた床の掃除が今の美国にできるのか疑問だったし、何より、本当に怪我をしているらしいのにそれを確認もせず帰る気にはなれなかった。
考えながら彷徨わせた視線がキッチンの方へ向き、そこにあった物を見て閃いた。
「美国、いつまでもそこにいては、身体に悪いです。シャワーを浴びて、着替えて、怪我の手当をしましょう」
美国が拒否する前に、僕は言葉を重ねた。
「いいですか、今から僕が言うことをよく聞いてください。僕はこれから玄関の外に出ます。玄関のドアが閉まる音がしたら、美国はそこを出て、玄関の鍵を閉めるんです。これで僕はもう中には入れません。だから安心してシャワーを浴びて、着替えてください」
これができれば一つ問題は片付く。
「そして、もしもう一度だけ、僕に怪我の手当をさせる勇気を持てるなら、玄関を開けてください。僕は三十分玄関先で待ちます。それで玄関が開かなかったら、僕はそのまま帰ります。でも、できれば僕に手当させてください」
良い方法を思いつきましたから、と続けると、
「……どんな」
美国が怖々問い返してきた。
「美国は男の人が恐いけれど、一番恐いのは男の手だと思うんです。男の姿そのものが一番の恐怖なら、僕と自転車の二人乗りなんてできないはずですから。だから、その一番恐い手を隠して、手当てする方法です」
具体的に話さなかったのはわざとだ。どうするのか疑問に思い、好奇心が刺激されればそれが勇気を出す力になる。
詳しいことを聞かれないうちに、僕は先手を取って動き出した。
「さあ、美国、頑張りましょう。このドアの外にコップを二つ置いておきます。赤い方のコップには塩水が入ってますからまずそれでうがいして、その後もう一つのコップの水で口を濯いでください」
僕はキッチンテーブルの上に置きっぱなしだったスマホと服が入った袋を持つと、玄関を出た。外は雨が降っていたので、玄関の軒先で雨宿りしていると、背後で静かに鍵がかかる音がした。
美国が動き出せたのが分かり、僕は彼女の強さが嬉しかった。美国が再び鍵を開けてくれるかどうかは分からないが、約束通り三十分待とうと思った。
今何時か確認するためスマホを見て、ついでに着信記録とメールを見ると、由香里姉ちゃんから、電話が三回、メールが五通来ていた。メールはどれも、僕がどこで何をしているのか問い、連絡をよこせという内容だった。最後のメールは午前一時過ぎ。今は二時近くになっている。
帰ったら説教に遭うだろうが、今更連絡しても同じことだと僕は返信をしなかった。
美国は僕の予想以上の短い時間で、玄関に戻ってきて鍵を開けた。
「……大丈夫ですか?」
僕の問いかけに美国は無言で頷く。
「無理をすることはないんです。怪我が酷くないなら、僕はこのまま帰りますから、早く休んだ方が」
しかし美国は首を横に振った。
「無理したい。ここで、もう一歩、無理にでも前に進みたいから」
そう言って、ぎゅっと口を真一文字に引き締めた美国に、
「じゃあ、もう一歩、行ってみましょうか」
僕が笑いかけると、美国は目を潤ませて頷いた。




