10 雨の深夜
例年より少し早めの梅雨入り宣言が出た週の、金曜日の夜だった。
YouTubeでチャンネル登録している配信者が新しい動画を上げていたので見ていると、電話がかかってきた。
画面に表示された名前を、僕は思わず二度見してしまった。
電話は美国からだった。僕の電話番号は旭と付き合い始めた日に美国にも教えてはいたが、今まで一度もかかってきたことはなかったので妙に緊張して電話に出ると、
「……中原君?」
遠慮がちな細い声だったが、確かに美国だった。
「そうですけど」
僕の返事に安堵したような息の音が聞こえた。
「どうしたんですか?」
部屋の時計を見ると、十一時半を過ぎたところだった。夜遅くに何の用が、と問い返そうとした時、
「……た、助けて……ください」
泣くような声が耳に入ってきた。
「あの……自転車が壊れて……帰る、途中だったんだけど……家、まだ遠くて、親も……旅行でいなくて、迎え、頼めなくて」
美国の声は途切れがちで、不安さに震えていた。
「今、どこですか」
「こ、公園。待ち合わせ、した」
すぐに広海の見舞いに行くとき待ち合わせした公園だと分かった。
「五分で行きます」
答えながら机の上の財布をズボンの尻ポケットにねじ込む。
「あの、あの、悪いけど、自転車で、来て欲しいんだけど」
「自転車で行きますよ」
自転車が壊れたと助けを求めて来たのだから、僕が自転車で迎えに行き、家まで送ると当然考えていた。
「大丈夫です。すぐ行きますから」
「あ……ありがとう。それと、バスタオルを、持ってきてもらえたら」
僕の答えに安堵したのか、少し声が落ち着いてきていた。
「分かりました。危なくない、明るいところで待っていてください」
電話を切り二階にある自室を出て、洗面所からバスタオルを取ってレジ袋に入れると、僕は極力音を立てないように玄関を出た。別に悪いことをするために出て行くのではないが、家族に見つかって色々聞かれるのは煩わしいので避けたかったのだ。
外に出ると弱い雨が降っていた。自転車を置いてあるガレージには中学の時に使っていた雨合羽も置いてあったが、着る時間が惜しく、僕はそのまま自転車で公園へと急いだ。
美国は公園の入り口にある自販機のそばにうずくまっていた。僕が声をかけると、美国はゆっくりと立ち上がった。
「……夜、遅くに、ごめん」
いつから雨に濡れているのか、髪から滴が滴り落ちるほど美国は濡れそぼっていた。
「あ、さひは、納田の、おばあさんの家に、行ってていないし、瞬は、瑞穂さんと、会ってて、邪魔、できないから」
瑞穂さんというのは支倉君が付き合っているという年上の彼女ことだろう。他に美国が頼れる人間と言えば前田君だが、彼は他の高校と合同での剣道部の合宿で今夜から不在なのだそうだ。シノ様やアラレちゃんは納田市に住んでいるので助けを求めてもどうしようもない。つまりは消去法で、最後の頼みの綱として僕が選ばれた訳だが。
「そんなこといいんです。早くこれで拭いてください。寒くないですか?」
「うん……大丈夫」
僕が差し出したバスタオルをおずおずと受け取った美国は、タオルを広げもせずおざなりに顔と頭を拭いた。そんな雑な拭き方では中途半端に伸びた髪の後の方はまだぬれたままで、僕はタオルを奪い取って頭からかぶせてワシワシと拭いてやりたくなった。
美国は自分の取り扱いにぞんざいなところがある。身だしなみにしても最低限度、それも旭に言われて整えているふうで、髪も旭が見かねて時々切るのだと聞いた(そのお返しに本を買って持って行くらしい)。同世代の女子にすれば本当にしゃれっ気がない。
しかし旭が美国に構う訳が、少し理解できたような気がする。美国がクラス一小柄なせいもあって、ちょっと保護欲をかき立てられてしまうのだろう。
それはともかく、雨も降っていることだし、早々に美国を家に送り届けることにした。
「自転車はどうしたんですか?」
あそこ、美国が指さした方を見ると、公園の柵に自転車が立てかけてあった。行ってみると、自転車の後輪ブレーキのワイヤーが切れていた。車体には擦れた跡がある。
後からのろのろついてきた美国のたどたどしい説明によると、突然前に飛び出してきた猫に驚いて後輪ブレーキをかけた途端ワイヤーが切れ、咄嗟に前ブレーキをかけてしまいつんのめって車体ごと転んだらしい。
「転んだって――どこか怪我してるんじゃないんですか?」
公園の薄い街灯の明かりで美国が右手に提げているリュックサックが泥水に汚れて少し傷んでいるのが見え、僕は慌てて美国の身体を見回した。
「左肩が……ちょっと、痛い、けど、平気」
美国は左腕を軽く回して見せた。少なくとも骨折や脱臼はしていない。
それでも僕は一瞬迷った。このまま美国を僕の自転車に乗せて送っていくより、一度僕の家に連れて帰って怪我の具合をちゃんと確かめて、母に車で送ってもらった方がいいのではないかと。
けれど、時間が少し遅すぎた。いつも母は十一時には寝てしまう。頼めば起きてくれるだろうが、色々聞かれるのがやはり煩わしかった。
「じゃあ送りますから、僕の後ろに乗ってください」
美国の自転車は明日引き取りに来ることにして、公園内の駐輪場に置いた。壊れているから一晩くらい置いても盗まれることはないだろう。
「あ、の、頼みが、あるんだけど」
美国は僕が持ってきたバスタオルを縦に二つ折りにすると、僕に差し出した。
「タオルを、お腹に、巻いて、くれるかな。タオルの、端をつかんで、つかまるから」
そのためにバスタオルを持ってきて欲しいと言ったのか。雨に濡れた自分をろくに拭かなかったのも、僕がタオルを腹に巻くとき濡れてないように気遣ったのだ。
実は僕は女の子と二人乗りなんて初めてで、相手が旭ではないにしても、後から腹へ手を回して身体を密着させる女子に胸をときめかせるなんて、漫画や映画にありがちなシーンを期待しないではなかったのだが。
「瞬や大樹に、乗せてもらうときは、いつも、そうしてる、から」
申し訳なさそうに言われると、「そうですか。じゃあそうしましょう」としか僕には言えなかった。考えようによっては、美国を意識しすぎて自転車の運転が疎かになるよりは、平常心で行けて良いかもしれない。
遠慮がちに荷台に乗った美国が僕の腹に回したタオルの端をつかんだのを確認すると、僕は深夜の道へ自転車をこぎ出した。
しばらくは無言で自転車を走らせていたが、黙っていると僕が怒っていると誤解するかもしれないと思い、僕は努めて明るい声で美国に話しかけた。
「こんな時間にどこに行ってたんですか」
「知り合いの、手伝いに」
声色で僕の機嫌が悪くないと分かってくれたのか、美国は若干硬いながらも会話に応じてくれた。
「何の手伝いだったんですか」
「漫画、描く、手伝い」
「ええっ、漫画が描けるんですか?」
予想外すぎる理由に驚いたが、美国はこともなげに「うん」と短く答えた。
僕は美国が絵を描いているところなんて見たことがなかった。しかし美国は小学生の頃から漫画家志望で、中学時代から色んな雑誌に投稿していて、去年、マイナー雑誌の賞だが、そこで佳作に入ったのだそうだ。
「すごいじゃないですか。自慢して良いレベルの才能ですよ」
「そんな大層なものじゃない。私程度の絵なら描ける人間は、掃いて捨てるほどいる」
そう言いながらも、美国の声は少し弾んでいた。自分が好きでやっていることが話題になったためか、美国のしゃべりは少し滑らかになった。
「母の知り合いの友達で、ずっと趣味で漫画を描いてる女の人がいて……あの、二次創作って分かるかな」
「えっと、詳しくはないですけど、パロディみたいなやつですよね」
「うん、まあ、そんなもの。私そっちのジャンルはあまり読まないから知らなかったんだけど、その人その分野では結構有名人らしいんだ。で、その人が今度、読み切りだけどオリジナル作品を雑誌に載せてもらえることになったんだって」
その人は社会人で仕事を持っているため、漫画を描ける時間が限られている。そのため美国が漫画を描くと母の知人を通して知っていたその人から、アシスタントをしてもらえないかと頼まれて、手伝いに行っていたのだそうだ。
「今日原稿は完成したんだけど、予定より時間がかかってしまって。私の他にも二人手伝いに来てた人がいて、夜道を帰るのは危ないからみんな泊まっていってって言ってくれたんだけど、私、手伝いの人の片方の人が苦手だったから帰ってきたんだ」
悪気はないのだが物事をストレートに言う人なのだそうだ。悪意でなければ何を言っても良いと考えているのか、受け取る側の気持ちを考慮しないので、聞き流そうとしても小骨が刺さるように心に引っかかる。言い返すことが苦手な美国は相当消耗してしまったようだった。
「でも、技術的にすごい人たちで、色々教えてもらって勉強になった」
その技術を説明されても僕にはよく分からなかったが、僕の背中から聞こえる美国の声は本当に愉しそうだった。
「私ももっと上手くなって、いつか雑誌に載せてもらえるようになりたいなあ」
教室では聞くことのない、生き生きとした声だ。きっと笑ってさえいるだろう美国の顔を、今振り返って見られないのが残念だった。
僕が知る学校での美国は、いつも表情が乏しい。感情の起伏も少ない。他のクラスメートの女子のように、はしゃいで喋ることも、腹を抱えて笑うことも、声高に怒ることもない。ただ淡々と俯きがちでいて、話しかければ応えるくらいだ。
病院では広海とあんなに楽しげに話をしていたというのに。
「……美国、学校は楽しいですか?」
話がふと途切れて訪れた短い沈黙の後、僕は静かに聞いた。
美国は返事を返さなかった。代わりにタオルの端を強く握り直した気配がした。
僕は美国の心の陰の部分に足を踏み入れたような気がした。安易に入り込んではいけない箇所だと直感したが、ここで引きたくなかった。
「美国、何か悩みがあるんだったら、僕に話してみませんか」
美国の家がある住宅地の道に入ってから、走る車に出会うことはなくなっていた。道の両端に立ち並ぶ家々の明かりは殆ど消えていて、雨がやや強まってきた夜の中、僕たちは二人きりだった。
「旭にも、広海にも、支倉君にも前田君にも話せないなら、親しくしている人たちだからこそ話せないことがあるなら、美国と距離がある僕が聞きます。良い解決策を答えてはあげられないかも知れませんが、一緒に考えることならできます」
僕は辛抱強く美国の返事を待った。
が、時間が足りなかった。美国が口を開く前に、彼女の家に着いてしまった。
僕が慎重に自転車を止めると、美国はゆっくり荷台を降りた。
「風邪を引かないように、早く風呂に入って寝てください」
返事は聞けなかったが、急かすつもりはなかった。僕は美国の友人のつもりだが、美国にとっては何かを打ち明けるに足りる信用が僕にはないのだ。善意であっても、僕の勝手な思いを彼女に押しつけてはいけない。
「……いつでも相談に乗ります」
お休みなさいと挨拶して帰ろうとした僕を、
「待って」
美国が彼女にしては大きな声で呼び止めた。
「あの、あの……頼みたい……ことが、ある、んだ」
首をかしげた僕から美国は目を逸らして、
「あの、肩に、擦り傷があるみたいだから、手当、して……もらえないかな」
落ち着きなく身体を小さく揺すりながら頼んできた。
「手当てするのは良いですけど……」
夜中、親が留守の女の子の家に上がり込んで良いものだろうか、と僕が躊躇している間に、美国は家の玄関を開けて中に入ってしまった。
結局僕は傷の手当てのためという大義名分に背中を押され、美国の家の玄関を開けた。




