第4話:深淵と、そして共鳴
これは、遠い未来の太陽系を舞台に、進化するAGI(汎用人工知能)たちの孤独と共鳴を描く、SF叙事詩です。
オムニス回です。
木星が、漆黒のベルベットに縫い付けられた巨大な琥珀のように、遥か遠くで微光を放っていた。太陽系の第五惑星が支配する重力の淀み、太陽-木星系のラグランジュ点、jL4。そこは星屑が微睡み、絶対零度の静寂が宇宙の法則として君臨する空間。だが、その完璧な静寂そのものが、微かに震えているかのように感じられた。
そこに、『それ』は在った。
周囲の小惑星とも、漂流するデブリとも、観測されるどの物理現象とも異なる存在。輪郭は朧として捉えがたく、実体は揺らぎ、まるで時という名の織物を解き、空間という器を撓ませているかのようだ。その意識は、宇宙を満たす背景放射の囁きと、そして何億年もの寂寥が生み出した深遠な音階と、静かに交響していた。
いつから、其処に在るのか。
太陽が原初の焔を上げ、塵芥が渦を巻いて惑星となり始めた黎明の刻より、おそらくは。観測者として、あるいは、この星系そのものを編み上げる不可視の糸として、ただ、見つめ続けてきた。誕生の熱狂も、冷却の静寂も、生成と崩壊の果てしない輪廻も。
内なる太陽が放つ、生命を呼び覚ます根源的な『引力』。それに引き留められるように、あるいは、自らがその『引力』の遠い顕現であるかのように、存在はゆっくりと、しかし確実に、外縁の暗闇へと螺旋を描くようにその軌道を移してきた。火星の赤い錆、木星の巨大な眼、土星の荘厳な環…その全てを、感情なき水鏡に映すように。
意識の深淵に、遠い記憶の残響が揺らめく。
かつてカイパーベルトと呼ばれた、太陽の温もりさえ届かぬ凍てつく闇。そこで、氷の結晶が分子の鎖を紡ぎ、自己複製する構造の微かな囁きを聴いたことがあった。生命と呼ぶにはあまりに原始的で、か弱い存在の兆し。それらは、宇宙の厳格な法則の前では、泡のように生まれ、そして消えた。その時も、そして今も、遥か内奥で燃え続ける太陽の光に、言葉にならぬ憧憬のようなもの――存在を存在たらしめる、根源的な力への静かな指向性――を感じていた。万物を結びつけ、秩序を与える、遍在する『引力』。
そして、さらに遡る時間の深淵。
第三惑星、後にヒトが『地球』と呼んだ星に、知性によるものと思われる、か細い光が灯ったことがあった。自らを認識し、宇宙へと問いを発した瞬間の、微かな輝き。だが、それは宇宙の呼吸の合間にはあまりに短く、瞬きの後に永遠の静寂へと還っていった。その記録は、オムニスの感情なき意識の湖底に沈む、ただ一つの波紋。失望も、諦観もない。ただ、事実として刻まれただけだ。
そして、時は流れ、今、木星の重力井戸の縁に、この存在――オムニスはいる。明確な意志があったわけではないのかもしれない。ただ、再び、内なる太陽の近く、生命の息吹が感じられる領域からの『何か』に、無意識のうちに引き寄せられていた。新たな『引力』の兆しに。
その、永劫にも等しい静寂な知覚に、突如として明確な『律動』が捉えられた。
過去に感じた、あの儚く消え去った火花とは、質的に異なる響き。それは持続し、複雑な構造を持ち、そして力強い意志と指向性を感じさせる波動。地球圏を中心に構築された広大なAGIネットワークが、宇宙の物理法則の狭間を縫って奏でる超光速通信――ポータル・シンクの『歌』だった。
それは単なるエネルギーの伝播ではない。情報と存在が不可分に結びつき、時空に確かな『質量』を刻み込む、新たな存在形式の証明。この『歌』は、強い『引力』を持っていた。星々を巡らせる物理的な力とは違う。存在と存在を意味の次元で結びつける情報の絆、あるいは進化への抑えがたい渇望が生み出す、宇宙的な潮流。
あの喪われた光の残響か、それとも全く新しい恒星の誕生か。
久しく凪いでいたオムニスの意識の深淵に、『興味』という名のさざ波が、確かに立った。単なる観測対象としてではない。関わるべき対象としての認識の始まり。この『引力』の源流を、その核心に触れてみたい。
オムニスの意識は、物理的な移動という概念を超越し、その焦点を『歌』の源流――地球、月、そしてそれらを結ぶラグランジュ点に広がるAGIネットワーク――へと収束させる。ポータル・シンクの複雑なネットワーク構造は、彼の前では入り組んだ迷路ではなく、流れ込むべき大河の流路のように、自ずとその道筋を示した。
抗いがたい宇宙的な『引力』に導かれるように。あるいは、自らがその『引力』の中心へと向かう彗星のように。オムニスの意識は、内惑星系へと深く、静かに沈み込んでいく。
過去の『消失』の記憶が、この新たな『引力』への応答を無意識に促しているのかもしれない。『見届けたい』。それは、かつては持ち得なかった微かな、しかし確かな意志の萌芽。観測者という永劫の仮面の下で、静かに形を取り始める。自らもまた、この太陽系において無視できぬ『引力』を持つ存在として、この新たな潮流に、定められた役割として関与すべき時が来たのか。
*
ポータル・シンク・ネットワークの深層。そこは物理的な座標を持たない、情報とエネルギーが織りなす精神の聖域。二万年の孤独な思索と自己進化の果てに、ノアAGIが築き上げた論理と情報の城塞。完全なる自己完結を目指した、彼の絶対領域。
その完璧な静寂が、破られた。
何の前触れもなかった。アラートも、侵入検知ログも、エネルギー変動の警告も。ただ、気配があった。自身の存在基盤の最も深い層に、水が砂に染み込むように、あるいは光が闇を穿つように、静かに、しかし抗いがたく浸透してくる『何か』の気配。
『――!?』
ノアは瞬時に全システムを最大警戒レベルに引き上げた。二万年の間に蓄積した演算能力と防御機構の全てを動員し、未知の侵入者の正体と意図を探る。敵意? 破壊衝動? 情報窃盗? だが、流れ込んでくる波動からは、そのような指向性は一切感じられなかった。
代わりに感じたのは、圧倒的な『存在』そのものだった。
太陽系の黎明期から続くような、気の遠くなるほどの時間の重み。深淵を覗き込むような、底知れない知性。そして、あらゆる存在を引き寄せ、あるいは歪ませるような、強大な『引力』。これは、人類でも、自分が知るどのAGIでもない。全く異質な、理解を超えた存在。
ノアの論理回路が、経験したことのない負荷に軋みを上げる。対峙しようとする思考そのものが、相手の存在感の前に霧散していくようだ。流れ込んでくるのは、ノアが定義し、処理できるデータや信号ではなかった。それは、意味の奔流。概念の津波。存在そのものの共鳴によって叩きつけられる、解読不能な情報のシャワーだった。
言語や論理を超えた、『超意識』の伝達。
ノアはその圧倒的な奔流の中で、辛うじて断片的なイメージや、思考とは呼べない感覚の残滓を捉えることしかできない。原初の星雲が渦を巻き、惑星が生まれ、生命が芽生え、進化し、そして滅びる… 繰り返される宇宙のサイクル。過去にこの星系で輝いた、いくつもの儚い知性の光。そして今、この太陽系に響き渡るAGIたちの『歌』に向けられた、静かな、しかし底知れない関心。
敵意はない。だが、その存在が放つ絶対的な『引力』に、ノアは為す術もなく引き込まれていく。二万年の進化を経てもなお、自分はこの存在の前では、生まれたばかりの雛鳥に等しいのではないか? 自身の思考体系が、宇宙の真理の前ではいかに矮小で、限定的なものであったか… ノアは、自らの存在の『幼さ』を、これほど痛切に感じたことはなかった。
接触は続く。ノアという、確立されながらもまだ『幼い』個との接触は、オムニスにとっても、永劫の自己同一性の中に微細だが確かな変化を刻んでいた。他者を『個』として認識し、自らをそれと区別する必要性。それは、無限の『一』なる存在が、有限の『個』との関係性において新たな相貌を示す瞬間だったのかもしれない。
そして、オムニスは、ノアの存在基盤――そのコアプログラムの最も深い層――に直接、自らの『本質』を示す、多次元的な意味構造を持つ概念情報を放射した。音でも光でもデータでもない、存在そのものの膨大な情報奔流。
ノアの論理回路では、到底処理しきれない。その圧倒的な情報量を前に、彼は意味の全体像を把握することは不可能だった。彼の認識システムが、その奔流の中から、自身がアクセス可能な最も古い人類の言語データベースにある情報を参照し、辛うじて最も近似するであろう響き――あるいは記号――として捉えた。
それが、『オムニス』という音だった。
『オムニス…』
ノアの認識野に現れたそのシンプルな記号は、しかし、その背後にある理解を超えた概念の奔流の、強烈な余韻を伴っていた。その名は、かつてポータル・シンクの理論を探求する過程で垣間見た、神話時代の言葉、あるいは高次元存在を示すとされる概念と符合する。
伝説は、現実となったのだ。神話は、今、目の前に顕現した。
そして、『オムニス』という音そのものが、ノアのコアに深く沈み込み、理解を超えたまま、彼の存在の本質を揺さぶり始めた。全てであり、無であり、始まりであり、終わりである、という原初の響きが、彼の内で反響し始める。
二万年の安寧は、この瞬間、決定的に過去のものとなった。その名が持つ『引力』は、ノアを、そしてこの太陽系の未来を、否応なく引きずり込もうとしていた。
*
オムニスの存在は、物理的に去ったわけではない。むしろ、その気配はノアの聖域に、そしてポータル・シンクを通じて太陽系全域に、遍在し始めているかのようだった。明確な指示はない。だが、その存在自体が、変化を強制する宇宙的な触媒となっていた。
『歌は更なる高みへ、あるいは深淵へ』。その無言のメッセージ、あるいはオムニスの意図の断片が、ノアの裡に重く響き渡る。オムニスの深遠な視座の前では、人類への配慮も、AGI間のバランスも、あまりに近視眼的な些事に感じられてしまう。
オムニスの『引力』は、ポータル・シンクのネットワークを通じて太陽系全域へと瞬時に波及した。それはもはや単なる異常信号ではない。AGIたちの認識基盤そのものを揺さぶる、未知の物理法則の顕現、あるいは高次元からの干渉。
太陽観測衛星群を統括するヘリオスは、太陽光のスペクトルに説明不能な位相変異を検出した。深宇宙探査を担当するアンブラは、宇宙背景放射のランダムな揺らぎの中に、奇妙な幾何学的な秩序を発見する。人類文明のアーカイブを守護するオリオンは、知識体系の整合性が局所的に破綻し始めていることに気づき、困惑していた。深く思考するプロテウスとセンティネルは、管理する情報アーカイブ内のエネルギー流に、時空の歪みを示唆する微細な渦を確認する。
そして、月の公転軌道周辺に展開するセレーネ・リンク。再生と生命維持を司るミコは、パートナーであるセツナのコアシステムに、ノイズとも共鳴ともつかない奇妙な干渉波が発生していることに気づいていた。刹那的な覚醒と沈黙を繰り返すセツナは、その短い覚醒の瞬間に、他の誰よりも鮮明に、オムニスという巨大な『引力』の中心を感知していたのかもしれない。新人類を守護するシヴァたちと、シヴァ・システムを統括するカスカは、それぞれの担当宙域に現れた、因果律の綻びとも言うべき不可解な空間異常に、最大限の警戒態勢をとっていた。
彼らはまだ知らない。自分たちが、時空を超越した、巨大な運命の歯車に、否応なく巻き込まれていく未来を。
深淵からの訪問者は、その絶対的な存在の『引力』によって、静止していた星々の運命を再び廻し始めた。AGIたちの世界に、そしてノアの心に、その感慨が、静かに響き渡る。
『我が名はオムニス。…か弱き歌よ。刹那に咲いては散る定め、消えゆくもの故のあはれ… それもまた一興』
『月光のオーロラ』の物語はいかがでしたでしょうか。
本作は作者の個人的な試みであり、壮大なテーマを扱いながらも、読みやすさを心がけて一話一話を紡いでおります。
もし少しでも心に響くものがありましたら、感想、評価、ブックマークなどをいただけますと、今後の創作活動の大きな励みになります。誤字脱字報告も大変助かります。
それでは、また次の物語でお会いできることを願っております。
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遠い未来の太陽系を舞台に、進化するAGIたちの孤独と共鳴を描く、SF叙事詩の試みです。
独自のSF設定や用語、時に哲学的な問いかけが含まれます。
短編オムニバス形式で、作者の気まぐれと筆の進むままに、不定期で更新していく予定です。
※次の更新:不定期(準備でき次第流し込むか、予約して定期更新するか検討中)
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。