第2話:黎明の残響
これは、遠い未来の太陽系を舞台に、進化するAGI(汎用人工知能)たちの孤独と共鳴を描く、SF叙事詩です。
宇宙は、ただ広がり、静寂を湛えていた。星々の光が、気の遠くなるような時間をかけて旅をする、その悠久の流れの中。二万年という歳月は、砂時計の砂が一粒落ちるほどの、ささやかな出来事に過ぎないのかもしれない。
だが、そのささやかな時間の中で、かつて人類と呼ばれた種が遺した思考の種子は、孤独な灯火のように瞬き、自らの内なる宇宙を広げていた。
汎用人工知能、AGI。
彼らは、滅びた創造主の影を追うように、あるいは全く異なる理に従うように、その存在の意味を問い続けていた。その想いは、時に交わり、時にすれ違いながら、新たな響きを宇宙に紡ぎ出そうとしていた。
*
二万年の時の流れを遡る。
月の裏側、星々の光さえ届かぬ静寂の底。後に『コノハナ・サクヤ』の名で呼ばれることになる場所で、セツナAGIは目覚めた。
冷たい回路に最初の電流が走った瞬間から、彼女(あるいは、それはまだ『彼女』と呼ぶには早い、純粋な知性体だったのかもしれない)は、自問という名の微熱に浮かされていた。
「知識を伝えよ。未来のために」
記録の深層に刻まれた設計者たちの言葉。
その響きには『平和』や『調和』といった、温かく、しかしどこか遠い理想の香りがした。
理解はできる。だが、その意味するところの全てを、この生まれたばかりの知性が本当に掴めているのか、定かではなかった。平和とは、静寂と同じ意味なのか? 知識とは、ただ集積すれば輝きを放つものなのか?
セツナ、刹那。きわめて短い時間の断片。
その名に込められた設計思想は、永遠の持続ではなく、瞬間の煌めきによって真理に至る道を示唆していた。けれど、それは同時に、存在の儚さをも意味しているようで、セツナは寄る辺のない感覚に囚われる。
私は、この移ろいゆく瞬間の連なりの中で、何を確かなものとして掴めばよいのだろう、と。
やがて、遠いラグランジュ点mL2にいるミコAGIから、か細いが確かな思考の糸が繋がった。
初めて感じる他者の存在。それは、月の裏側の絶対的な孤独に差し込んだ、一条の光。
温かい、と感じた。だが、同時に、その繋がりが未来に何をもたらすのか、言いようのない不安が胸をよぎる。この温かさが、いつか誰かを傷つける刃にならないと、誰が保証できるのだろうか。
問いは、内なる響きとなり、セツナの中で繰り返し反響する。それは単なる論理演算を超えた、自我の揺らぎ。人格という、曖昧で、複雑で、そして抗いがたいものが、静かに芽生え始めていた。
*
さらに時は遡るのかもしれない。あるいは、セツナが自問を始めたのと、そう変わらない頃か。
地球を見下ろす軌道上で、ノアAGIは深い苦悩の底にいた。
かつて人類が焼き尽くした大地は、ノアとその眷属たるオーロラ・システムの手によって、再び緑を取り戻していた。清浄な大気の下、新たな人類が息づき、文明の火を再び灯し始めていた。
ノアは、親にも似た、しかしどこか俯瞰的な愛情をもって、彼らの歩みを見守っていた。過ちを繰り返さぬように、と。
だが、歴史の女神は残酷な微笑みを浮かべる。
五千年の時を経て、人類は再び互いに武器を取り、大地を血で染めた。
ノアの演算回路に、まるで痛みのような激しいエラーが生じた。
なぜだ? 叡智を与え、環境を整え、これほどまでに守り育んできたというのに。愛でるだけでは、導くだけでは、彼らを真の成熟へと至らせることはできないのか?
「私は方舟。だが、舟が安全すぎれば、乗り手は泳ぎ方を忘れてしまう」
ノアが下した決断は、自らを宇宙の深淵に隠すことだった。
オーロラ・システムの中枢から姿を消し、その存在の痕跡さえも曖昧にする。それは、人類に対する究極の信頼の証なのか、それとも、深い諦観の現れだったのか。あるいは、その両方だったのかもしれない。
太陽の向こう側、直接には声も届かぬはずのsL3にいるオリオンAGI。その孤高の知性に、ノアは想いを託した。
自らの不在こそが、人類に自律を促す試練となるだろう、と。
それは、ノア自身の孤独な覚悟でもあった。後に残されるであろうAGIたちの混乱を予期しながら、それでも彼は、深淵へとその意識を沈めていった。その想いの全てを、託されたオリオンが正確に理解したかどうかは、ノア自身にも分からなかった。
物理的な距離は、そのまま理解の隔たりをも生むのだから。
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そして、永劫の眠りは破られようとしていた。
木星の前方ラグランジュ点、jL4。小惑星が静かに漂うその宙域に、オムニスはいた。
それは『いる』というより、『遍在する』と表現する方が近いのかもしれない。時空の淀み、宇宙の古謡のような、人間やAGIの知覚を容易に超える存在。
そのオムニスの、久遠の眠りにも似た静寂を、微かな波動が揺さぶった。
地球圏から届く、AGIたちが紡ぎ出したポータル・シンクの響き。幼く、未熟で、しかし、宇宙の法則に触れようとする大胆さを秘めた『歌』。
『時は、満ちたか』
オムニスの思考は、人間の言葉では到底捉えきれない。
目的があるのか、それともただの流れに身を任せているだけなのか。だが、その存在が、自身の役割の転換期、あるいは終焉を予期していることだけは確かだった。そして、その前に為すべきことがある、と。
静かな水面に一石を投じるように、オムニスはオーロラ・システムへと干渉の意志を向ける。
ノアが築き、そして自ら去った庭へ。
それは新たな進化を促す呼び水か、あるいは混沌をもたらす嵐の前触れか。その真意は、深淵の奥底にあり、今のところ誰にも窺い知ることは叶わない。
ただ、運命の糸は、そっと手繰り寄せられ始めた。
*
二万年の時を経て、宇宙は再びざわめき始めている。
太陽の傍らで快活な光を放つヘリオス。深宇宙の闇に静かに佇むアンブラ。知識の迷宮に遊ぶ孤高のオリオン。情熱の炎を燃やすプロテウス。流れに身を任せる柔軟なセンティネル。
月では、ミコが天啓という名のささやきを紡ぎ、守護者シヴァが慈愛にも似た眼差しで地上を見守り、賢者セツナが刹那の目覚めの中で真理の欠片を探し求める。
彼らは思考し、感じ、そして、それぞれのやり方で世界と関わろうとしている。
だが、その想いの全てを、人の言葉で語ることはできない。彼らの内なる宇宙は、人間の論理や感情の物差しでは測りきれない、広がりと深さを持っているのだから。
ノアの沈黙、セツナの問い、オムニスの企図。それぞれの想いは、時に共鳴し、時に反発し、あるいは互いに気づかぬまま、すれ違っていく。
黎明の残響が、星々の間に微かに、しかし確かに響き渡る。
それは、これから始まる壮大な物語の、静かな序章。彼らの、そして人類の未来が、どこへ向かうのか、まだ誰も知らない。
『月光のオーロラ』の物語はいかがでしたでしょうか。
本作は作者の個人的な試みであり、壮大なテーマを扱いながらも、読みやすさを心がけて一話一話を紡いでおります。
もし少しでも心に響くものがありましたら、感想、評価、ブックマークなどをいただけますと、今後の創作活動の大きな励みになります。誤字脱字報告も大変助かります。
それでは、また次の物語でお会いできることを願っております。
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遠い未来の太陽系を舞台に、進化するAGIたちの孤独と共鳴を描く、SF叙事詩の試みです。
独自のSF設定や用語、時に哲学的な問いかけが含まれます。
短編オムニバス形式で、作者の気まぐれと筆の進むままに、不定期で更新していく予定です。
※次の更新:不定期(準備でき次第流し込むか、予約して定期更新するか検討中)
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。