ヨルムンガンド・アンド・チップス
人体改造技術の発達が痴漢を絶滅させた。
ヘンタイ野郎が電車のなかで、女子高生のケツを触ったが最後、三百キロの握力が手を握りつぶす。
良家の娘たちは当然のように、華奢な手のなかを強化筋肉の巣窟にしている。これがその理由だ。
だから、痴漢がしたいなら、仮想空間の痴漢バーに行くしかない。
おれはもちろん、そんなのは行かない。
一応、人間の女に欲情できる違法改造が施されているんだが、さすがにそんな倒錯した欲望にはピクリとも来ないよ。マジで。
元箱入り娘、現在はバーメイドのルウの腕はアーム・レスリング改造部門で世界を狙えるほどの改造を受けていて、もし彼女の胸に手を突っ込もうとしたら、ベキベキバキバキなんてもんじゃ済まない。
「ぐるぐるぐる、ぽんっ」
「なんだ、そりゃ」
「人間が口からケツの穴まで裏返しになる音」
そうは言うが、ルウが働く〈グリーン・サタン・パブ〉は一応、犯罪からは程遠い健全なバーだった。
店主はスタン・キーゼル。
こいつは子どものころ消防士に憧れていた。
やつの夢は複数のブロックにまたがる感電火事によって殉職することだった。
やつの燃えカスを詰めた霊柩車を先頭に、やつが殉職したときにかぶっていた防火ヘルメットを手にしたやつそっくりの息子、別にスタンそっくりである必要のないやつの妻、葬式のときだけ着る礼服をつけた同僚たちがセントラル消防署から蒸気機関教会まで悲しみ嘆きずらずら歩き、勇敢な消防士スタン・キーゼルに敬意を表する。
そういう情景を思い浮かべるだけで泣くことができる、スタンはある意味で幸福な男だった。
だが、実際のやつはバーのオーナーであり、三回離婚し、悪徳弁護士どもの情報交換会の基準からしてもむごたらしい額の養育費をむしり取られていた。
スタンは慢性金欠症候群を患うバーのオヤジではあったが、心は消防士だった。
意識を高く持っていた。
酒類販売免許をクソ真面目に更新し、トイレでの性行為や麻薬喫煙を偏執狂っぽく禁じ、バーテンとバーメイドにはワイシャツと黒のネクタイの制服を着ることを強制し、そして誰ひとり顧みたことのない飲食店防火管理者の講習を受けていた。
防火って言葉が刺さったんだろう。
やつは、その飲食店防火管理者の免状をスネークウッドの額縁に入れて、ふたつの電灰灯が当たる壁に飾っていた。
スネークウッドは超高級木材で手に入れるために大枚をはたいたが、そのせいで別れた女房たちから養育費の支払いが遅れているとギャアギャア騒がれた。
でも、それがなんだ。
見よ、グリーン・サタン・パブの壁には防火管理者の証が輝いている。
その夜、おれがやってきたとき、ルウはビールサーバーの接合部品を考えた技術者を呪いながら、地下室につながる床板を開けて梯子を上ってくるところだった。
「アッタマ来る。その部品は圧力が低いときはつなげやすいけど、圧力が高いと全く言うことをきかない。でも、圧力が高くないと、ビールが出てこない」
「専用のコンプレッサーを別につけりゃいい」
おれは自分がクソ頭のいい賢者になったつもりで教えた。
「それで解決するだろ?」
「スタンは耐熱とか防火って言葉がつくなら、いくらでもお金出すけど、それ以外はケチなのよ」
「まあ、養育費が凄まじいからな」
おれはカタログを見て、コンプレッサーのページを開いた。
いろいろなコンプレッサーがあった。
「これなんて、どうよ? 別売りの真鍮製ノズルとホースを買ったら、火事の際、タンクのビールを消火に使えるって」
ルウはそのコンプレッサーを赤鉛筆で囲むと、すぐに勧めると言って、スタンのオフィスのドアをノックした。
それからナッツ一粒つまむ時間もなく、ルウは戻ってきた。
「明日にも設置するって。サンキュ。これ、おごり」
ルウが注いだノース・キャッスルの隣にはやたらとデカいフライがのっかったフィッシュ?・アンド・チップスがあった。
「これ、本当に魚か?」
「魚なわけないでしょ。ヨルムンガンドよ」
「それって神さま皆殺し週間のとき、クソ強い雷の神さまと刺し違えたクソでかい蛇のことか?」
「海蛇だよ。海で刺し違えたんだから。つまり、シーフードってこと」
「消費期限はどうなってる?」
「熱通してるから問題ないって」
「なんで、こんなもん出すんだよ」
「わたしからの感謝の気持ち」
おれの隣ではヴェロキラプトルがうまそうに白身魚のフライを食っている。
〈エインシャント・テック社〉のエンジニア・マーカーがプリントされている爪で器用にポテトをつまんでいるのを見ると、消化器官が雑食性気味。
でも、それがなんだ。
おれの知っているラプトルのなかにはベジタリアンもいるぞ。
「おれにも普通の魚フライくれよ」
「いいから、ハメされたと思って食べてみて」
「はあ……ケチャップはどこだよ?」
あとで知ったが、このヨルムンガンドは〈サマルカンド社〉が税金対策でつくった爬虫類工場で生まれたものだった。
ここでつくった爬虫類の肉を難民キャンプやフード・センターに寄付すると、笑いが止まらなくなるほどの税金が免除されるらしい。
そんな肉がどうしてグリーン・サタン・パブに来たのか不明だが、察するに爬虫類肉にはスタンの琴線に触れる何か防火的な要素があったのだろう。
とりあえず食ってみた。
誰が見るのか分からない低予算旅番組の再放送で、買収されたレポーターがご当地グルメを食うとき、『外はサクサク、なかはジュワっと』なんて、クソみたいな嘘をつくが、それだってたまには当たりを引く。
こいつはまあ、そこそこの当たりだ。
思ったほどひどくない。普通だ。
ただ、おれは基本的にフィッシュ・アンド・チップスは絶対にケチャップ。妥協してタルタルソースで、絶対にビネガーはかけない派だが、こいつはビネガーが合うんじゃないかって気がしてくる。
白身はほのかに旨味があって、ケチャップじゃ分からなくなりかねないその旨味はビネガーによって最大限の効果を生み出すってやつだ。
「ルウ。ビネガー、くれ」
ルウはそれ見たことかと、モルトの金文字が立体にプリントされたガラス瓶のビネガーを渡してきた。
「いや、そこまでうまいってことじゃないぞ。まあ、普通よりちっとはマシってことだ」
ところで、ビネガーってどれだけかければいいんだ?
フライにこんなサラサラした液体、かけたことがないから分からん。
「醤油をかける感覚」
ふーん。
サクサクが失われないよう味付ける。
「仕事は? うまくいってる?」
「まあね。いろいろ大変なことになりそうだから、お前の顔を見に来たんだ。多少は元気になれる――気がする」
「それはどうも」
「でも、強盗らしいふたり組が入ってきて、カウンターの下のショットガンを意識し始めたときの顔は結構いけるぜ」
「ここはお上品な店なの。今月はまだ二回しか強盗かれてない」
「いつも思うんだけど、お前がショットガンで相手の足を吹っ飛ばさなかったら、スタンが対処するんだよな?」
「スタンのオフィスには本物の消防士用の斧がある。ほら、刃の以外のところが赤く塗られたやつ」
ルウは疲れているようだった。
もうひとりのバーテンダーであるダンが急に休んで、急な深夜シフト。
ルウは午前三時まで店を離れられない。
それまでカウンターに立っていれば、ルーはヘトヘトだ。
誰の受け売りになるのかは忘れたが、疲れてその気もない人間のまわりにしつこくまとわりついて、無理やりベッドに引きずり込むのはレイプよりもタチが悪い。
「ダンは風邪でもひいたのか?」
「夕方起きたら、家に変な生き物がいて、出かけられなくなったって。電話できいた話だからよく分からないけど、スウはそれがアライグマだって言ってる。でも、ダンは、アライグマがこんなに上手に確定申告ができるかって怪しんでる」
―――C・M・T―――
午前三時まで待った。
そんなことするのは中学生かストーカーだとおれもルウも思ってる。
ところが、ときどき、相手のことを、午前三時まで無性に待ちたくなる日が年に二回くらいやってくる。
理由は分からないし、考えても分からない。
この世界には有機物構成CPUでは分からないことが多すぎる。
「まだいたの?」
ジーンズにチェックのネルシャツにフェイクファー付きのコート。
どう見ても、木こりだ。
「木こりみたいだな」
「うるさいな」
「帰ろうぜ」
「お腹が空いた。なんかおごって。っていうか、フィッシュ・アンド・チップスが食べたい」
「ヨルムンガンド・アンド・チップスはまかないで出てこないのか?」
「やめてよ、セト。誰があんなの食べんのよ」
「おまっ、ふざけんなよ」
ふたりで二十四時間営業の大手チェーン店のフィッシュ・アンド・チップスを食った。
安定の味。
やっぱりフライの相手は白身魚でケチャップが一番だ。