ウイルスケバブ
人間の脊椎の換装がずっと容易になるまで、人間の仮想空間に対する干渉はみじめなものだった。
人間は自分が仮想空間に入っていると思っていたものは、ただブラウン管を通して見つめているテレビ番組以上のものではなかった。
ところがティサ=スチュルメル法が発見され、脊椎のアップグレードが可能となると、人間は仮想空間で物を食べることができるようになった。
あんまり仮想空間に入り浸るもんで、本体が栄養失調になって死んだものもいる。
その手のゴーストは現実世界に見切りをつけ、情報のピラミッドやポリゴンのまわりをうろついては怪しげな手間仕事を拾って、報酬に電子麻薬をいただいている。
―――C・M・T―――
ヴァーチャルアイドルは深い。
実在の人間の動きと思考を仮想空間に落とし込んだアイドルは〈リアル〉と呼ばれる。
もう生身の人間を崇拝するオタクはいないので、これが一番リアルなのだ。
だが、この世のなかにはリアルでさえ毛嫌いする連中がいる。
そういうやつらのために〈ディープ〉がある。
〈ディープ〉はリアルのコピーで、一度目のコピーアイドルを〈ディープ1〉と呼ぶ。
コピー品というアングラ趣味な言葉にまいる連中が〈ディープ1〉を崇めるが、もちろん過激派はどこにでもいる。つまり〈ディープ1〉では満足できないやつらだ。
そこで登場するのが〈ディープ2〉。
これは〈ディープ1〉をコピーしたヴァーチャルアイドルで、より深い趣味をお持ちの紳士たちがこれを追いかける。
実はアイドルをコピーする際、完全なコピーにはなっていなくて、コピー時にノイズが混じる。
そして、コピーすればコピーするほど、このノイズが刺さるらしい。
大きな目をしたツインテールの美少女のキイキイ声のアニメソングのなかに潜むノイズにゾクゾクする、というより、ノイズなくしてアイドル道はならずとのたまう人間やめた連中がいるのだ。
政府は〈ディープ2〉より先のコピーを禁止しているが、この広い仮想空間には〈ディープ100〉のヴァーチャルアイドルがいるという話だ。
「〈ディープ3〉以上の追っかけなんてバカだよね、バカ。ノイズしかきこえないんだもん。そんなにノイズがききたきゃ、耳のそばでトレイをフォークで引っかいてればいいんだよね」
おれはいま〈ディープ2〉のアイドル、リィナを推しているダチとグッズ販売コーナーに並ばされている。
ちなみにそのダチ、スノは人間で女だ。
そのクリニックでしかもらえないリィナの限定ボイスをコンプするために体の半分を改造した筋金入り。
スノは改造人間で女だ。
弁護士でもある。それも離婚に強いやつ。
おれがスノに付き合わされ、五時間も列に並ばされたのは限定福袋(ひとつは確実にリィナのサイン入り)がひとりひとつしか買えないからだ。
昔は違法アカウントで人格を偽造できたらしいが、いまは対策が取られていて、しかも違反が発覚したら、ファンクラブを永久追放される。
それはリィナ推しにとって死刑宣告なのだそうだ。
ライブが終わって、歌とノイズ、どっちが耳障りなのか分からないおれはとっとと帰りたかった。
紫の空にオレンジのピラミッドが数秒単位で分解と構成を繰り返すのを眺めていると、行列もようやくおれの番がきた。
仮想空間では誰もが美少女で主人公的美少年だ。
外見を偽らずに仮想空間にぶち込んだのはおれ一体だけだ。
リィナはボットにも人気があるようだが、ここだけの話、おれにはヴァーチャルアイドルの区別がつかない。
みな同じ顔で同じ声に思える。
これを言うと、ごちゃごちゃうるさいから言わないでおくが。
―――C・M・T―――
「やった! ヴァーチャル・タオルだ!」
おれが買った福袋のなかにお目当ての品があったらしい。
仮想空間でしか使えないタオルだが、スノにはそれが途方もないお宝なのだ。
現実世界では月に五か六組くらいの夫婦を真っ二つにぶっちぎっているスノだが、仮想空間では女子中学生のアバターを使っている。
脳みそと心臓以外の全てが機械に換装された死にかけのばあさんだって、追っかけをする時代だから、多少の年齢詐称には目をつむろう。
デフォルメ化した三頭身のリィナに見張られるように睨み落とされながら、おれは報酬を要求した。
「腹減ったよ。仮想空間ってのは何で腹が減るんだろうな」
「別に何も食べなくても死にはしないけど」
「でも、死ぬほど腹が減るんだろ? いいから、なんかおごってくれよ」
「わかった、わかった。今日のわたしは飛び切り機嫌がいいからね」
ライブ会場のまわりはピンク色の小屋が並ぶリィナ・フェスティバルになっていた。
グッズ販売だけでなく、リィナ・ヴァーチャル・ミネラルウォーターやリィナ・ヴァーチャル・チェス、ヴァーチャル・コスプレイヤーの撮影会なんかをやっている。
おれの目当てはリィナ・ヴァーチャル・ケバブだ。
リィナ・ヴァーチャル・ナタデココやリィナ・ヴァーチャル・タピオカのようなガーリーな大人気メニューと比べて、リィナ・ヴァーチャル・ケバブは閑古鳥だ。
席も四つしかないし、店内の内装もよく分からないポスターが貼ってあって、リィナの雰囲気がない。
「なんでセトはここの料理が好きなの?」
「そりゃ、ここのケバブが仮想空間で一番のウイルスケバブ屋だからだよ」
―――C・M・T―――
見た目は銀髪褐色肌の異国情緒型美青年だが本当は五十歳の太ったハゲオヤジな店主が、細かく切ったコンピューターウイルスを串刺しにして、ファイアウォールで炙る。
ウイルスケバブは原価が安い。
原料のウイルスはリィナ宛ての嫌がらせメールにガンガン添付されているので、タダみたいなものだし、ファイアウォールは炙るだけなら、古い安物で十分だ。
串刺しにされたコンピューターウイルスは線と点だけの図形に半透明の青い面がついた、数学の教科書にありそうな姿を作っているにすぎないが、その貧弱なアバターのなかにはウイルス独特の肉汁が詰まっていて、噛むと口いっぱいに肉汁が流れ出す。
ところが、噛むと肉汁を出しながら、ワクチンソフトでボコボコにされて背骨を失ったウイルスは舌の上でとろける。
とろける脂と噛みごたえの肉汁を一度に味わえる肉はここにしかない。
「あー、うまい。ウイルスが熟成されてる」
「ウイルスに罹患したらとか考えないの?」
「火、通してるから大丈夫だろ」
「まったく」
「お前もひとつ食ってみろよ。うまいぞ」
「遠慮しとく。それより——」
スノは店内の謎のポスターを指した。
「これはなんだろう?」
そのポスターはバグのように思えた。抽象的な何かの絵が点滅しながら、骨組みを晒していて、気のせいか、ノイズもきこえる気がしてくる。
「ねえ。これは何?」
スノが店主にきいた。
「〈ディープ3〉のリィナだよ」
「〈ディープ3〉? でも、それは禁止されているはずじゃ……」
「禁止されても我慢できないし、実際に検挙があったことはない。警察には表の世界の犯罪のほうが重要なんだ。それにディープの犯罪ってのは肖像権の侵害くらいだし」
「変な絵だ」
いやーな予感がした。
嫌悪の表情の影に好奇心が顔を出している。
「オヤジ。ケバブおかわり」
「はいよ」
―――C・M・T―――
一か月後、組成改造腺エキスをクライアントに渡してアップタウンから帰る途中、ゲームセンターに寄ったら、偶然、スノに会った。
スノは重度のゲーマーでフルホログラム脱衣ポーカーでは負け知らずだった。
蒼白く光る少女を裸に剥いて、スコアに名前を打ち込んで、灰皿に煙草を押しつけると、スノは「どいつもこいつもいかれてる」と言いながら、自分のこめかみを強化アルミ粉末コーティングの人差し指で突っついた(限定スナック菓子をもらうためにした改造したコーティングだ)。
「もう、うんざりよ。財産も家も、なんなら子どもも二等分にして別れりゃいいんだよ」
「でも、それでカネもらってるんだし。しかも、〈素材屋〉よりもいい給料もらってるし」
「〈素材屋〉のほうがずっとマシだよ。取引が終わったら、後腐れがないでしょ? 離婚弁護士は違う。離婚してからが悲惨。接近禁止令を破った。新しい隠し子がいた。勝手に婚姻届けを出そうとした。先生、どうしたらいいですか、いいですか、いいですか? 知るか! テメーで何とかしろって言いたいけど言えない。ハイハイハイ、分かりました。全部、わたしに任せてください。そうやって一生懸命仕事をすると、離婚した夫なり奥さんなりが、わたしのことを知り合いの離婚寸前の夫婦に教える」
「指名率一位か」
「これでも稼ぎ頭。でも、もう、うんざり。〈ディープ5〉のリィナたんに癒してもらわないと」
「〈ディープ5〉? お前、〈ディープ2〉止まりじゃなかったのか?」
「わたしもそのつもりだったけど、いまは〈ディープ5〉。むしろ、〈ディープ5〉じゃ足りないくらい」
「だけど、〈ディープ5〉ってのは、もう何があるのか分からない、少なくとも現実でまともな職のあるやつがやるもんじゃないってきくけど」
「でも、ストレスが溜まってしょうがないんだよ。ねえ。今度、またライブがあるんだけど」
「あんまり気が進まないな」
「ウイルスケバブおごるから」
「〈ディープ5〉のウイルスなんて怖くて食えない」
「面白いのになあ」
「推し活も結構だがな、やりすぎるとこっちに戻ってこれなくなるぞ」
「大丈夫だ。危なくなったら退くから」
―――C・M・T―――
素材のやり取りでときどき飲む仲になったリンク・マンから電話があった。
「あんたの知り合いの女弁護士がやばいつなぎ方を買ったんだ。スノってのはダチか?」
「すぐそっちに行く」
ブラック・ディスク地区。
反政府風刺の蠢くケツの落書きたち——あらゆる壁が例外なくナノマシン・スプレーの洗礼を受けていて、凸凹したアスファルトの下に不発弾が眠っている。
息をすると、埃とせこい犯罪で舌がざらつく。ブラック・ディスクは地区ぐるみでやった盗電のせいで隣接する街に訴えられたことのある唯一の街だ。
例のリンク・マンはここで商売をしていた。
仮想空間に行くのにまともなリンクを使えない、ジャンキーたちのためのリンク拠点だ。
窓をふさいだコンクリートの駅ビルヂングに入る——肝心の公共交通はとっくの昔にくたばっていた——薄暗い廊下は無人、紙くずとカビ、ベタベタした脂と埃の混合物の奥に、例のリンク・マンが店を持っていた。
鍵穴もノブもないドアの横に♪がプリントされたブザーボタンがあった。
ボタンを押して、左上から見下ろしてくるカメラに指をひらひらさせて手をふった。
蒸気の噴き出す音と一緒にチタンのバーが三本引き抜かれる音がして、ドアがゆっくり開いた。
リンク・マンが汚れた皿が何十枚と突っ込まれたシンクのそばで端末を操っていた。
リンク・マンは蛍光色の薄型キーボードを叩き、顔を目いっぱいディスプレイに近づけていたので、前髪がときどきホログラフのなかで揺れていた。
「女弁護士のダチがいるってのはどんなもんだろうなあ」リンク・マンは顔をディスプレイに向けたまま、たずねた。
「それよりつなぎ方だ」
「見てもらったほうがはやい」
奥の部屋は本棚に四方を囲まれた部屋で、純正品がひとつもないコネクトシステム一式と、アンティークのカウンセリングがあり、ソファーに仰向けになっているスノがいた。
スノはエリート女弁護士くらいしか着ないシャープなパンツスーツのまま、目をかっぴらいて、(もしあればの話だが)不滅の魂まで仮想空間にくれてやっていた。
「〈ディープ13〉だよ」
リンク・マンが合成オレンジジュースを飲みながらやってきた。
「それはヤバいのか?」
「ヤバいのはヤバいが、もっとヤバいのもある」
「つなぐ前にディープは分かるのか?」
「ちゃんと調べりゃな。でも、こっちは言われた通りにリンクさせるだけだ」
「わかった、わかった。お前はお前の商売をしただけだ。でも、ビジネスがビジネスなら、どうしておれに電話したんだよ?」
「おれはあんたにヒーローになるチャンスを投げたんだぜ? それなのにあんたは『そんなもんはいらん。ジョッキでビール持ってこい』って言うのか?」
「おい、おれに〈ディープ13〉に行けってのか?」
「じゃないと、この弁護士さん、もう戻ってこないぜ」
「リンク引っこ抜きゃいいだろ」
「精神に対する負荷がでかすぎる。一生、アババババしか話せなくなるぞ」
「でも、――ああ、くそ」
「今なら七十パーセント引きでつないでやるよ」
―――C・M・T―――
リンク・マンはプロなだけにつなげ方に何の不快もなかった。
だが、仮想空間自体が気持ち悪りぃ展開をしてたらどうしようもない。
タールにまみれた砂浜が赤い空の下でどこまでも伸びていて、死んだ油まみれの鳥や魚が打ち上げられる水際は虹色に光りながらドロドロと揺れている。
黒い雲がおれたちの頭上でいくつも渦を巻き、爆発音みたいなものがきこえてくる。
コビー・ノイズは混じるなんてかわいいものではなく、むしろノイズが全てだ。
〈ディープ13〉でこれなんだから、〈ディープ100〉は考えたくないくらいひでえことになっているんだろう。
「リ! ィ! ナ! リ! ィ! ナ!」
何かやったみたいに眼がキマったファンたちがサイリウムを手に持って振っている。
スノを見つけた。
おれからしたらひと財産ものの靴をタールまみれにしながら、空を見上げて、両腕を振りまわしている。
その先にリィナがいる。
もし、リィナの姿がヘドロの怪物で、それがファンたちには美少女に見えている、なんてのなら、まだいい。想像できる。
だが、おれが見たリィナはめちゃくちゃかわいい美少女の天使、この世界で唯一の白い存在として、崇拝されていた。
自分以外の全てがタールにまみれているのに自分だけ清らかでいようとする。
〈ディープ13〉で見た最悪。
おれはスノの両肩をつかんで、後ろに引いた。
スノがわめいたが構わず、お姫さま抱っこにして、リィナに背を向けて走った。
そのあいだもスノにはサイリウムで顔をぶたれた。
いいにおいがした。
丘の上、干からびた草が生えた道にウイルスケバブの屋台が見えた。
おれはそれを見るなり、物凄くウイルスケバブが食べたくなった。
あの肉汁ととけるような舌ざわりが空腹コードを乗っ取りそうになった。
白い、香ばしい煙が鼻に触れるたびに、スノを投げ捨てて、ケバブを受け取りたくなる。
足がふらつき、褐色肌の美青年が炭火の上の串をくるくるまわしている。
うまそうだ。うまそう過ぎる。
もう、いい。
スノは捨てちまおう。
自分で来た〈ディープ13〉に永遠にいられるなら本人も文句はないだろう。
悲鳴がきこえた。
スノが海岸を見て、叫んでいた。
ファンたちが次々と宙に浮かび、リィナへと集められていく。
そして、天使のスカートからあらわれた、えぐい肉腫がファンたちを次々と吸収していた。
おれは咄嗟に空腹コードをシャットアウトした。
ケバブには生首が連なって刺さっていた。
スノはおれより先に逃げ、おれはその後を追った。
おれは叫んだ。
「リンク・マン! おれたちを引っこ抜け!」
―――C・M・T―――
「もう、二度とリィナにつなげるな」
「わかったって」
「絶対にだぞ」
「わかったって。でも、〈ディープ2〉なら——」
「ダメだ。今度深みにはまっても、おれは知らないからな」
「わかったよ。もう」
「少しでも感謝の気持ちがあるなら、なんかおごれ」
ふたつにひとつの電灯が切れているプラットホーム。
エア・バス・ステーションの案内板に巣食うヴァーチャル配信者にはあと二時間しないとブラック・ディスクの外には出られないと言った。
バスの到着は一時間くらい遅れることがあるので、時間に余裕を見てもいいが、たまに三十分早く来て、出発することもあるので油断しないほうがいいとも言われた。
眼下には駅の前庭が見える。
このあたりが新しい地区だったころのジッグラト・モニュメントがあり(今は弾痕だらけで、有刺鉄線と防水シートでぐるぐる巻きにされている)、厚ぼったい帽子をかぶった失業者たちがアルコールを探して、うろついていた。
配管事故でできた、決してなくならない水たまりにはチーター娘のネオンが映り、冷凍睡眠会社の倉庫から終業のサイレンがきこえてくる。
ざっと見たところ、食い物を売っている店はない。
ホールに戻った。
ステーションは破産寸前で、たったひとりの駅員のじいさんにメシが食いたいと言ったら、カロリーバーの自動販売機を指差された。
それがケバブ味。
ホールのベンチでおれとスノ、ふたりしてカロリーバーを食う。
ウイルスケバブにはるかに劣る。
食べ物を食っているというより、中古のスニーカーを食っている気分だ。
だが、――おれの横ではスノが実に手慣れた様子でカロリーバーを頬張っている。
こいつ、普段から食いなれてるな?
――まあいい。
いまのおれは期間限定のヒーローだ。
だから、我慢してやることにする。
ヒーローは細かいことはウジウジ言わねえもんだ。