九十五話 一休み
俺は自宅で起きると、背伸びをした。その後で左右に身体を動かして、調子を確かめる。
ダンジョンを移動している道中は、常に治癒方術のリジェネレイトをかけ続けているからか、ここ最近は体の不調どころか筋肉痛もない。
かといって、リジェネレイトと身体が治るから筋肉がついていないかというと、そういうことでもない。
洗面所で顔を洗いがてら、寝間着代わりのTシャツを脱いで鏡面に上半身を晒してみると、細マッチョを超えつつある発達具合の筋肉を持つ皮下脂肪の薄い肉体が映っている。
連日に渡って、長時間ダンジョンを移動しながら、モンスターを相手に重量のあるメイスを振り回しているので、このぐらいの肉体になるのは当然ではある。
「それにしても、肌艶が良いんだよな」
俺は自分の上半身を掌で撫でる。
しっとりと吸い付くような肌の感触があり、その下にある筋肉が押し返す手応えもある。
かなり良い身体をしているんじゃないだろうかと、自画自賛したくなる出来栄えだ。
鏡面に映る自分の顔も血色がよく、目の下に隈すらない。会社員時代にパソコン作業で患いつつあった眼精疲労も、まったくなくなっているぐらいだ。
「長時間の運動と、常時使うリジェネレイトと時折使うヒール。これらの相乗効果ってことか?」
自分の健康的な肉体がどうやってできているかの予想を呟きつつ、新たなシャツに袖を通す。
今日は平日だが、三日ダンジョンへ行った後に一日訪れる自主的な休日だ。
心身の健康のために、思う存分に羽根を伸ばす気でいる。
「別に痩せたいわけじゃないし、栄養を取りたいから、野菜と肉を食べたいな、特に牛肉を」
自宅近くの焼肉食べ放題の店に行くのも良いが、休日の何回に一回の割合で度々通っているので、たまには別の店に冒険に出てみるべきだろう。
スマホでマップを開き、自宅近くから順々に範囲を広げていって、焼肉屋ないしはステーキ屋を探していく。
歩ける距離から電車の距離まで捜査範囲を拡大していって、見たことのある店名を見つけた。
それは高級焼き肉店として有名なビルであり、そのビルの階層によって焼肉のグレードが違い、富豪なオタクがコミケの打ち上げで利用する店だという噂も聞いている。
「ここでも良いけど、全国的に有名な焼肉店の本店に行ってみるのもいいよな」
使い道のない金が沢山あるんだ。派手に豪遊したってバチは当たらないはずだ。
どうしようか考えて、最初に目を付けた方の焼き肉屋にすることにした。
決め手は、食事の後に色々とオタク系ショップを巡ることもできる店だからっていう理由だ。
朝食は軽めに済ませてからアニメ視聴で時間を潰し、電車で移動して目当ての店に開店した直後に入った。
平日ということもあり、客の入りは疎らで、すぐに店内に案内してくれた。
俺は平日ランチメニューから、一番高い料理を注文した。
それにしても、一番高いといってもランチメニューなのに五千円近くするなんて、流石は焼肉の高級店だなという印象だ。
ランチについてくるドリンクとして選んだウーロン茶を飲みつつ待っていると、注文した料理が配膳された。
ご飯とワカメスープ、サラダ、そして五種類の肉が二枚ずつ盛られたプレート。店員が説明してくれた肉の内訳は、ハラミ、和牛赤身、カルビ、ミスジ、タン、だという。
俺はさっそく網の上で肉を五種類一枚ずつ焼いていく。
焼けた順から、塩を振って食べていく。
「くうぅ~。良い肉すぎる」
肉に牛の臭みはないのに、肉と脂の旨味が味覚とと嗅覚にダイレクト攻撃してくる。
味を堪能しつつ、ご飯を箸で一掬いして口に入れる。
和牛の肉汁と脂の旨味、振った塩の塩分、米の糖分が混ざり合い、極上の味の組み合わせが誕生した。
口の中が幸福だとテレビのレポーターの感想を耳にしたことがあったけど、確かにこの味が全人類の口の中に顕現したら世界中から争いがなくなりそうだと思えるほどに、幸福な味だ。
ハラミの脂感、赤身の肉感、カルビとミスジの脂と赤身の霜降り感、タンの端切れの良さ。
違う味と食感なのに、どれも幸福な味が口に広がる。
その肉の美味さに突き動かされるように、肉を焼き、食べて行くと、あっという間になくなってしまった。
俺は胃に余裕がることを確認して、肉とご飯を追加で注文することにした。
肉はランチメニューからではなく、普通の単品として頼む。割高になるけれど、食べたい肉の部位を頼むには、これしかない。
和牛ステーキ、厚切りカルビと厚切りの赤身、あとサンチュとキムチ。ああもう、ビールも頼んでしまおう。
到着したステーキを網の遠火に配置してゆっくり焼きつつ、カルビを網中央でサッと焼いていく。
焼けたカルビの一枚を塩で食べ、そのうまさに悶絶しながら、二枚目はタレに付けてからキムチと共にサンチェで巻いて食べる。
カルビを堪能し終わったら、ステーキをひっくり返してから、赤身を焼いていく。
赤身をじっくりと焼いて、それをタレで食べる。肉本来の旨味とタレの塩気が手を取り合い、俺の脳を絶頂させようとする美味しさを叩きつけてくる。
その美味しさに脳が痺れきったところに、黄金色のビールを喉へ流し込む。
ビールの苦味と炭酸が一瞬にして、舌に残った肉の味を喉の奥へと流し去り、口の中が一気にリセットされた。
「よしっ、次だ」
赤身をタレにつけ、キムチとサンチェと共に食べる。
肉の旨味とタレの塩味に、キムチの辛味と発酵臭が加わる。
そんな連合的な暴力になりそうな味達を、サンチェの瑞々しさが緩和し、舌に優しく長く残る美味しさとして着地させてくれる。
そうこうしている内に、ステーキの焼き具合がいい感じだ。
ビールを飲みながら、ステーキ肉を網の中央に移動させる。そして備えつけの塩と胡椒を裏表の面にかけてから、表面にパリッとした焼き目をつけていく。
ステーキを切り分けるための調理鋏が提供されているが、俺は構わず焼き上がったステーキを箸で掴んで齧り付いた。
……天国はここにあった。
そう感じてしまうステーキを、幸福な気持ちのままで食べつくした。
「ふう。美味しかった」
まだ胃に余裕はあるのに、肉を食べたいという欲求は消えてしまっていた。
食べ放題店で食べるときは、胃に詰め込めるだけ肉を詰め込みたいという欲求が消えることがないのに、不思議だ。
恐らく、この焼肉の味に脳と体が満足してしまったってことなんだろうな。
だがやっぱり、胃の隙間に食べ物は詰めておきたい。
メニューを開いて、なにかいいのがないかを探す。
カルビクッパの小か、特性アイス二種類を一つずつなら、良い感じに隙間が埋まりそうだ。
どうするかを考えて、カルビクッパの小とアイスを一つ頼むことにした。
満腹を少し越えるだろうけど、それは仕方がないことだと割り切った。
そうして注文した全ての料理を食べきって、膨れた腹を抱えて会計へ。
調子に乗って頼み過ぎたこともあり、二枚の万札とお別れすることになった。
いや、この味と満足感で万札二枚はお得だった。そう考えることにしよう。