三百四話 ドラゴンステーキ
十九階層中層域を探索する目処が立った。
このまま一気に中層域を隅々まで調べる――という気持ちはあるが、三勤一休が俺の信条なので、休日を取ることにした。
朝から自宅でWeb小説を読んだり今期のアニメを見たりしつつ時間を潰し、いよいよ昼食の時間になった。
実は、今日の朝から今の今まで、俺は水しか飲んでいない状態だったりする。
ダンジョンに連日通って戦闘という名の運動を朝から晩までしている関係で、俺の新陳代謝は活発さが極まっている。
だから正直言うと、朝食を抜いただけで、俺の空腹感は我慢できないほどになっていた。
もちろん俺の自身の身体の事だ。朝食抜きにすれば、こんな状態になることは分かり切っている。
ではなぜ俺が、わざわざ自分が苦しむような真似をしているのか。
それにはちゃんと理由がある。
「空腹は、最高のスパイスっていうからな」
俺はキッチンに立つと、魔産エンジンを動かし、スキルが使える状態にする。
ここで使うスキルとは、もちろん次元収納。
そして次元収納から取り出すのは、昨日手に入れたばかりの、チャイルドドラゴンのレアドロップ品――ドラゴンの肉の塊。
抱き枕ほどの大きさと厚みがある肉の塊は、薄く脂のサシが入った赤身肉。
そう、このステーキに適しているように見えるドラゴン肉を、昼食に思う存分食べるために、朝食を抜いて胃の中を空っぽにしたわけだ。
俺は空腹感から震え出しそうになっている手を抑えつつ、ドラゴン肉を覆っている薄い透明な膜を手で破り捨てた。
膜が剥ぎ取られた直後、生肉の臭いが俺の鼻に漂ってきた。
特段、嫌な臭いがしたというわけじゃない。
むしろ熟成が進んだ肉特有の、独特な芳香が感じられる。
「これは、焼くだけで美味いのが確定だな」
俺は、包丁を取り出すと、ドラゴン肉を切り分けようとして、包丁の位置をさ迷わせる。
厚切りステーキを食べたいものの、どのぐらいの厚みにすれば良いのかに迷ってしまう。
だが意を決し、欲望のままに、十センチほどの厚みで切り分けた。
こうして、抱き枕と同じぐらいの円周で、厚みが十センチな、ステーキ肉が切り出された。
「これは、デカイな」
顔の前にかざすと、俺の顔が隠れそうな大きさがある。
それでいて、厚みは十センチもある。
手に持った感触からすると、一キログラムはありそうだ。
「ま、まあ空腹だし。ステーキ一キログラムぐらい、余裕余裕」
俺はカセットコンロを出して、ガス缶を装填。
ステーキ肉をフライパンの上に乗せ、その上から米油をかける。
そしてステーキ肉が乗ったフライパンをカセットコンロの上に置き、着火。
青いガスの火を弱火にし、じっくりとステーキ肉に火を入れていく。
これほど上等な肉を、塩の振り過ぎで塩っぱくしたくないから、塩コショウは焼き上がった後にかける予定だ。
フライパンの上で、肉が弱火でじりじりと焼かれていく。
ドラゴン肉だからといって、火に耐性があることはないようで、普通の牛ステーキ肉が焼けるのと同じぐらいのスピードで、火が入っていく。
弱火調理でステーキを焼く場合、焼く面をひっくり返すタイミングは、肉の側面を見て焼かれて変色した位置が半分になったらと記憶している。
十センチの厚みなので、底面から五センチの位置まで焼けるのを待つ必要があるわけだが、焼き始めて数分でほんの数ミリ程度しか側面の火の入り具合が進行していない。
単純計算で、目当ての位置まで焼けるまで、二十分はかかりそうな感じだな。
それならと、待ち時間を有効活用するため、俺はスマホでアニメの視聴をすることにした。
日本アニメの一話の時間は、約二十分。
一話見終わるぐらいで、ステーキ肉をひっくり返す目安の時間が来る計算だ。
俺は朝に見ていたアニメの次話の視聴を始める。
もちろん、ステーキを焼き過ぎないよう、チラチラと側面の焼け具合を確認しながらだ。
ちなみに、ひっくり返すタイミングで反対の面も焼き始めたら、最初の面にかかった時間の半分を焼時間にするのがベストらしい。
反対の面を焼く際は、アニメのアイキャッチが入ったときを目安にすれば、良い焼け具合になるはずだ。
そんなステーキを焼く作法を思い返しつつ、アニメのOPが終わったので、本編に集中することにした。
ステーキが焼き上がった。
分厚くそびえる焼かれた肉の塊が、100均の平皿に乗った状態で、俺の前に鎮座している。
その肉の塊から、焼かれて溶けだした脂の匂いが漂ってきて、その美味しそうな香りに、俺は思わず生唾を飲み込んだ。
「よし、切り分けるぞ」
俺は、ダンジョンの罠から回収した投げナイフを使って、ステーキの端から一センチほど切り出した。
ステーキの断面は、俺が狙った通りに、ミディアムな焼け具合。
端でこの焼け具合だとすると、ステーキの真ん中あたりは、ミディアムレアになっていることだろう。
俺は切り分けた肉の端を、塩も胡椒もなしで、味見してみることにした。
「ふおっ!? こ、これは!」
口に入れた瞬間から感じた、牛とも豚とも鳥とも違いながらも、香しいと好感情に感じてしまう、独特な肉の芳香。
食べる人に陶酔を感じさせる香りに導かれて肉を噛み締めれば、肉と脂からそれぞれ違った種類の旨味が洪水となって溢れ出てくる。
その二種類の旨味が口の中で混ぜ合わされると、旨さが二乗三乗にと高まった感覚が味覚に走った。
「美味い。美味すぎる!」
あまりの美味しさに、俺は居てもたってもいられず、ナイフを動かしてステーキを切り分ける。
そして今度は、少量の塩と胡椒を振ってから、その肉を口の中へ。
先ほどは、あまりの旨味に驚いて感じることが出来なかった肉の味が、塩と胡椒とで力強く引き出されて、俺の味覚を楽しませてくれるようになった。
この肉の味は、俺がいままで食べてきた中で、間違いなくダントツで一位の美味しさだ。
素人調理で人生で一番の美味しさなら、一流のシェフに焼かせたら、どれほどのポテンシャルを発揮するかが恐ろしくなる。
そんな余所事を考えている間にも、俺の手は止まらずに動き、ステーキをカットしては肉を口に運ぶことを繰り返す。
その後は、ステーキの中央部分はミディアムレアに焼かれていたという実感を残し、いつの間にやら一キログラムはあったステーキが、跡形もなく消えてしまっていた。
ステーキが何処に消えたかは、俺の胃の中に幸せな重さがあることで行き先がわかる。
「なんだろう。間違いなく腹いっぱいなのに、もう少し食べられそうな、この感覚は」
腹はちゃんと膨れているのに、食欲が暴走して120%まで胃に肉を詰め込みたがっている。
「……今日一日は休日だしな」
俺は自分に言い訳をして、ドラゴン肉の塊を切り出すことにした。
もちろん、先ほどと同じく一キログラムも切り分ける気はない。
常識的に百グラムほど――いや、二百グラムぐらいの、確実に食べきれる量にする。
俺は切り出した、厚みが薄いステーキ肉をフライパンで焼く。
その薄さから、十分ほどで両面が焼き上がったので、早速食べていく。
「ああー。食欲に堕落しそうな、罪な味だ」
満腹という歯止めがなければ、延々とステーキを焼いて食ってしまいそうなほどに、ドラゴン肉は美味い。
こんな肉が市場に出回ったら大変な事になるだろうなと思いつつ、追加で焼いたステーキはあっという間に俺の腹に納まってしまったのだった。