第二話(仕返しの一撃)
流美は十メートルほど離れたベンチに腰を掛けていた。ヤクザが憩うように、片足をベンチに乗せ、その上に肘をつき、威風堂々としていた。その姿は、ただならぬ気配を漂わせていた。
「おっと、近づくなよ」
俺には流美が身動きひとつもしなかったのにガラガラ声は、彼女の静寂を切り裂くかのように俺の首に剣を当てて宣告し始めた。
「こいつは人質だー」
言葉が突然途切れた。流美はまるで何かをやつに投げつけたかのような仕草をしたが、瞬く間の出来事で俺には何が起こったか把握できなかった。次の瞬間にはもう目の前まで流美は迫って来ていた。どこから出てきたのか分からない赤い剣で、彼女はすでに攻撃の身構えをしていた。そして、一撃でやつのガードを完全に突破し、あっという間に首にとどめを刺そうとした。しかし、剣を振り下ろすその寸前で、彼女は咄嗟に気を変えたかのように、剣を引き、俺の襟を引っ張って奴から距離を取った。
その動作は乱暴ではなく、全くぶれや揺さぶりがなかった。俺を助けるための手段だと知っていた。そして、心なしかめまいが和らいだ気がした。
さっきまで流美が口で咥えていた串刺しが男の腕と剣に貫通していた。
「くそっ」
奴は顔をしかめながらそれを抜き取った。
串刺しは竹製だというのに、どうやって剣を貫けたのか。俺はそんな素朴な疑問を持ちながら、ただ傍観者として静観していた。
「大丈夫か、猶?出血は止めてあげたよ」
流美が俺の肩を優しく撫でながら言ったその声は、俺の耳にはいつもより少し高めに聞こえた。その指先は細く、繊細で、まるで弱々しい猫を丁寧に撫でるようだった。
その比喩で言えば、俺がその弱々しい猫か。なんとなく嫌な感じがするが、ともかく、彼女からの初めての優しい言葉のように感じた。しかし、流美はガラガラ声にまた顔を向けた。
「お前は確か神津家の……」
流美の声がまた冷ややかに、低く響いた。怖っ。
男は流美を睨み付けた。
「その名前はとうに捨ててある」
流美は嫌味を極めた冷笑で言い返した。
「捨てられたっていうべきでしょ」
「てめぇ…なんでそいつをかばうんだ。立派な規則違反だぞ!」
そいつって俺のこと?俺を守るのは何の規則違反だ?頭がまだ回転しきれていない……
ただその質問が頭の中でぐるぐると巡るばかりだった。
「時間稼ぎは無駄。こいつはもう捕まえてるからね」
流美の背後に、血の凝固したような大きな手が突然現れた。その手にはぐったりとした女が捕らえられていた。銃で俺の手を撃った奴だ!
男はすぐに怒りに火がついた。その顔は深い憤りと憎悪に満ち溢れていた。
「憩を放せ!ぶっ殺すぞ!!」
「それは脅しのつもりか?立場をわきまえろ。脅しは行動力の上に成り立つものだ。今は私が質問し、お前が答える。猶のこと、機構に報告したのか?」
と流美は舐めきった顔で言い放った。
「てめぇの質問に答える義理はねぇ」
ガラガラ声が反論すると、流美は犬を調教するかのような手つきで女に刃を向けた。
「っち。話してねぇ。俺たちが払いたかった」
やつは敗北感の漂う声で、以前の傲慢な態度とは相違ある、小さく萎縮した声でそう言った。
「そうか。殺生はしたくないけど、今はその方法しかないみたいね」
流美は淡々とした態度で、ガラガラ声の話をまるで聞いていないような口ぶりで言った。
まさか、本気じゃないだろうね?でも、流美の表情はふざけてるようには見えない。俺の腕を撃ったことへの仕返しはともかく、目の前で人が殺されるのは見たくない。
「てめぇー、殺す!」
男はやけくそにそう叫ぶと、流美はゆっくりと刃を女の首に近づけた。本気のようだ。もう見ていられない。俺は力を精一杯凝縮させて叫んだ。しかし、口から溢れ出たのはひ弱なうめき声だった。
「や……めろ」
かなり回復したと感じていたが、まだ深い傷が残っているようだ。聞こえなくてもおかしくないほどのか細い声だった。しかし、流美はそれを聴き取ったようだった。俺にちらりと目を向けると、彼女は一瞬立ち止まり、男に向かって何かを口にし始めた。
「じゃ、祈誓を……」
よかった。交渉の余地がある。喉から絞り出したような声でも、彼女に届いたのだ。そのように楽観的に思いかけていた矢先、流美は突如、何かに察したかのように振り返った。
「……しまった!」
腕から激痛が走った。何かが俺の腕を掴んでいる。というより、潰している。
ち……ぎれる!!
そう思った瞬間、俺はその何かに脳震盪を受けるほどの加速で引っ張られた。
くそ、めまいが……
「この手は使いたくなかったが、これでおあいこだぜ。憩を渡せば、こいつを見逃すことを約束しよう」
朦朧とする中、男の声が遠くで響いているのがかすかに聞こえた。その後、意識が遠ざかり、その先の出来事はもう記憶がない。
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目を覚ますと、見慣れない天井が広がっていた。両目をこすりながら、驚きの中で自分の手を見る。手が……ある。
「夢だったのか……」
全くリアルすぎる悪夢だった。最初の高揚した気持ちもとっくに消え去った。あんな地獄みたいなら、ファンタジーワールドも結構です。そう思った瞬間、最近よく聞く声が耳に飛び込んできた。
「夢じゃないよ。良く寝たね。もう二日経ってる。ようこそ、五月女家の山小屋へ。今はあばら屋だけど」
俺はその否応なしの声を聞くと、思わず舌打ちをしてしまう。
「命の恩人の顔を見て『っち』ってどういうこと」
「ただ、俺の地獄はまだ終わらないと思って。でも、そうだな。悪かった。助けてくれてありがとう」
その言葉に、流美は意味もなく指輪をいじり始める。心なしか頬を赤らめて、答えた。
「いや、まぁ、祈誓だから」
さては褒められたり感謝されるのが苦手なタイプか?脅したり、次の瞬間に照れたり、この人の感情のギャップは際立ちすぎてる。それはともかく、
「夢じゃないなら……」
どうして手がまだ残ってるんだ?
「寝ている間に腕が再生したんだよ。泡立ちながら、ちょっと気持ち悪かった。いや、かなり気持ち悪かった」
そんなに気持ち悪さを強調しなくても。
「ご感想どうもありがとう」
でも、腕が再生したのか。そんな能力を持っている覚えはない。霊なら自然にできることなのか。
「それはそうと、気を失ってたのか。記憶がぼんやりしてる」
「ここは埃っぽいし、外で話そうか。立てる?」
「それぐらいなら」
そう言ったものの、立ち上がると目まいが襲った。流美はそれを予想してたかのように無言で俺の腕をキャッチしてくれた。カッコ悪いなぁ。
次第に目まいが収まると、一人で歩けると流美に「大丈夫だ」と強がった。彼女はゆっくりと俺の腕を離した。
「いろいろあったけど、今はもう大丈夫。あいつらがまた手を出すことはないよ」
流美はなぜか確信しているような口調で言い切った。
「俺は大丈夫じゃなかったけどね」
玄関のドアを開けると、眩しい光に目が遮られた。徐々に目が慣れると、そこには広大な草原と森が広がっていた。小屋の周りは開けた草原で、木々は切り払われていたが、その外側は人の手にかかることのない純粋な自然の野性が保たれていた。見下ろすと、周囲には山が広がり、人の気配は全くなかった。山小屋は山の中腹にあり、周りの地面は不自然に平らに整備されていた。
「ここは?」
「あばら屋って言ったでしょ。ちょっと文明から離れた所だ。しばらくここに滞在するわよ。霊を祓うのが機構の決まりでね。ざっと言えば、君はこのままじゃ腕二本失うどころじゃ済まないわけよ」
全く穏やかじゃない。でもそれより、聞き覚えのある単語が耳に残った。
「機構ってのは?」
「超常現象を司る組織みたいなもんだよ」
そういえば、流美と最初に会った時『会長』とか言ってた気がする。
「その決まりを守るためにあいつらが俺を狙ったのか」
「どうかな……ともかく、祈誓を結んでる以上、今は心配しなくていいんだ」
聞くと、流美は女を引き渡す代わりに、俺たちの安全を保証する祈誓を結んだようだ。それは機構に俺の存在を知らせないことも含む。何せ、幽霊と祈誓を結ぶのは大きなタブーらしいから。
ちなみに、あいつらは兄妹だったらしい。男の方は神津 結一で女は神津 憩という。俺は襲撃者の名前なんてどうでもいいがな。
「今は大丈夫だとしても、いずれ機構に見つかって追われるんだろう?どうやって対処するんだよ」
「その時はその時さ。最悪、君を引き渡してしまえば、私の問題じゃなくなるからね」
「……」
「冗談冗談。契約上、猶のことは絶対守ってやるよ。今回だって結果オーライだったし」
いや、外傷はないが今回のことは一生のトラウマになりそうだ。これからのことも全く安心できない。そんなことを考えていると、ふと疑問が浮かんだ。
「どうやって俺が危険にさらされていると知ったんだ?」
「あれだ。やっぱり焼肉を断るなんておかしいと思ってたから」
そんな意味のわかんない理由で俺は助けられたのかよ。
「まぁ、祈誓のおかげで猶が危険に晒される時は何となく感じでわかる。でも、強い祈誓じゃないから、毎回助けられるとは限らない。だから、猶に輪の基本を教えることにする。今は輪が吹き出してて、全然隠れてないし、このままだとすぐ見つかっちゃう」
さっき絶対守るとか言ってたよな。矛盾してるぞ、こら。
「そんなもん使えるなら、とっくに使ってるよ」
俺がそういうと流美は少し驚いたような顔をした。
「とっくに使ってるよ。手を再生させることだって、輪がなかったら出来ないよ。その体自体も輪で出きてるし」
俺の体が?そうか、確かに俺は死んでいて、もう肉体はないんだ。感覚としてはそんなに生きてた時と変わらない気がするけど。
そして、流美は俺のトラウマのシーンを思い出させることを追加する。
「あと、神津のガキと戦ってた時も輪を使ったはずよ」
自分の手を見下ろして、思い起こす。あの時を思い出すと冷や汗をかくな。そっか、急に力が湧いてきたのは輪のおかげか。
「で、輪を使いこなせるようになれば、流美みたいに血を使うことができるのか?」
「血?あぁ、それは違うよ。あれは神芸って言って、個人によって異なる術なんだ。輪の応用だ。猶にはまだ早い。今は輪の基本から、力の強化から始めよう」
流美は少し張り切って言った。
「輪を使った時の感覚を思い返して、今出してみて!」
彼女の目はなんか期待してるようにキラキラ輝いていた。なぜか緊張してきた。
「ほら!」
わかったわかった。やればいいでしょ。俺は腹筋に力を入れて、輪とやらを押し出そうとした。
しかし数秒経っても何も起きない。なぜだ?
「便秘?」
流美は相変わらずの間抜け面で聞いてくる。純粋に疑問に思ってる様子が余計に恥ずかしくなる。
「うっせぇ!あの時は死ぬかと思ってたから無我夢中でなんとなく使えたんだ。どうやったか覚えてないんだよ」
流美は下にうつむいて手を顔に添えて独り言のように思いを馳せた。
「そもそも君の身体は輪でできてるから、自然に使えるはずなんだ。まだ死んでることを受け入れてないか理性を保ちすぎてるか、まぁ、緊迫感がないとだめみたいだね」
何か決心した様子で、その後、俺に向けて短剣を投げた。
「そういうことだったら、ほら、短剣」
え、何で今?もしかして…
流美は赤い剣を手に、俺に向かって飛び掛かってきた。おい、おい。俺は病み上がりだぞ!!
なんとか最初の一撃はブロックできたが、その際に短剣が払われてしまった。次の攻撃は素手で、避けるのがやっとのことだった。最近こういうことが多くてマジで危ない。
「おい!殺す気か!?」
と叫んだ途端、払われて舞い上がった短剣を流美は何でもないように、しれっと手で捕まえた。
「やればできるじゃん。輪が使えないならその一撃をかわすことは不可能」
俺の話はガン無視かよ。
「使えなかったらどうしてたんだよ!」
すると彼女はまた短剣を俺に投げ返した。
「でも、使えたでしょ?ほら、構えて……私に一撃当てるまで続けるよ」
地獄の予行演習か?いや、この調子だと本当に地獄に蹴り落とされるかもしれない。