9話:女の変化に気付かないのは男としては致命的だよな!
リビングでTVを見ていた母さんに声を掛けた後、自室に戻った俺は背負っていたランドセルを机の上に置くと制服を脱ぎジャージに着替えた。
基本、家に日和が居る時、妹は俺の自室に入り浸りだ。なんだったら俺が鍛錬をしている傍らで、俺の部屋の勉強机に陣取り宿題をする始末だ。
例外があるとすれば、俺が家の外で鍛錬をするときくらいだろう。妹は運動が嫌いなので、ランニングやジョギングには着いてこない。
無論、家の中では終日、常にベッタリと張り付いて離れない妹だが、稀に友達と遊びに行く時がある。
その時間が俺が家の中でも自由になる瞬間だろう。
「……そろそろテーピングを卒業してもいいかもな」
手に巻いているテープを解きながら、その下の傷口を眺める。
大分指に傷が残っているが、肉が見えるところは既になく、薄らと朱い線が浮いている程度だ。
産まれ持った性質故か、俺は傷の治りが他の人と比べると大分早い。全治2週間の怪我をおったとしても2日も経てば綺麗に完治する程の速度だ。
昔、全治云ヶ月かの大怪我を負った事があったが、3週間程で退院して学校に通いだした記憶がある。
肉が抉れ骨が見える程の傷を負っても1週間もすれば肉が回復してうっすらと皮が張られる程になる。
俺の指は度重なる損傷と再生の繰り返しにより、より分厚く、より頑強に、より強靱になっている。
そろそろコンクリートブロックを砕くのではなく貫く事ができそうだ。
そうなれば次の段階に進んでもいいだろう。
「……ふふふ」
強くなっているのを実感する。日々の努力に対して、肉体はちゃんと応えてくれている。
それが楽しくて仕方がない。
「今日は日和がいないから少しだけ無茶ができそうだ」
この時の俺は高揚感からか、明美の存在をすっかりと忘れていた。
それは、俺が片指1本で逆立ち懸垂をしている時だった。
ふと気配を感じたので窓の方に視線を向けるとカーテン越しに人影が見える。
「―明美か?」
俺の問いかけに人影は小さく肩を震わせた。
ベランダと伝ってきたのだろう。俺と明美の部屋は互いのベランダを隔てた隣り合わせに存在する。
その気になればベランダを伝って互いの部屋を行き来することも容易い。
「あ、達郎……えっと、入っていい?」
「鍵は開いてるぞ」
そう答えると、明美は窓を開けて室内に入ってきた。
入って早々、明美は身体を硬直させた。
目を少しだけ見開いて、それから少し経って戸惑ったように呟く。
「なにしてるの?」
「逆立ち懸垂、手の平じゃなくて人指し指一本で支えてる」
丁度明美と向かい合う形だ。
「……凄いね」
明美はまじまじと逆立ち懸垂をしている俺を見て感嘆するような声色で再度呟いた。
「そうかな?……っと」
指に力を加えてくるりと身体を空中で半回転させて両の足で部屋の床を踏みしめた。
ズシンと少しだけ室内に音と衝撃が響いた。真下の部屋にも響いたかもしれないが、母さんはリビングでTVを見ているから気にはならないだろう。
来客が居る中で鍛錬を続ける程、俺の神経は図太くない。鍛錬を中断して明美に再度向き合った。
「それより、何か飲む?」
「お願いしようかな」
「分かった。ちょっと椅子に座って待っててくれ」
「うん」
俺の言葉に促されて、明美は勉強机に備え付けられていた椅子に行儀良く座った。
最初に明美の姿を見た時、何しにきたんだろうとか思ったのだが、よくよく思い返せば俺の部屋に来るとか言ってたな。
それにしたって俺の部屋にくる理由もあまりないと思うのだが、何しにきたんだろうか?
ジュースと適当なお菓子をお盆に乗せながらぼんやりと明美の目的を考えてみる。
わざわざ玄関を通さずに直接部屋に来たのだ。相応の理由があるのではないだろうか?
そんな風に考えていた為、母さんには明美が来ている事を伝えていない。
母さんもTVに夢中で俺に気付いていないようだ。
「なんか、久しぶりだね。私が達郎の部屋に入るの」
部屋に戻るとすぐに明美が口を開いた。
「あんまり変わってないね」
「そうかも」
明美が俺の部屋を見渡しながらそう呟いた。
それに追従するかのように俺も自身の自室を見渡していく。
殺風景な部屋だった。窓には青色の遮光性の高い分厚いカーテンが掛けられて。
勉強机の上には教科書が辞書が並べられ。部屋の片隅にはシングルベッドが置かれている。
その傍には衣装ケースがあり。それ以外にはマットくらいしかない。
俺自身、あまりゲームや漫画には興味がないので、娯楽の品は一切置かれていない。
精々、あるとすればベッドの上に置かれている熊のぬいぐるみくらいだろうか?
勿論これは俺の私物ではなく妹である日和の私物だ。
日和は自分の部屋に居るよりも俺の部屋にいる時間の方が長かった。
そのために当時お気に入りだった熊のぬいぐるみを手に抱きかかえながらベッドの上で鍛錬に励む俺を見つめていたのだ。
そんな中で日和が俺のベッドの上にぬいぐるみを放置するようになった。
無論、最初は何度も日和の部屋に返していたのだが、その都度ベッドの上に熊のぬいぐるみが置かれるようになったので次第に面倒になり放置するようになった。
「明美の部屋は結構変わったのか?」
最後に明美の部屋を訪れたのは堂万勝重が転校してくる直前だったので小学3年生の頃くらいだろうか?
あの頃記憶を手繰り寄せると、明美の部屋は如何にも低学年の女の子の部屋といった感じだった。
「うん、模様替えとかも何度かやったから……見たい?」
見たいか見たくないかと言われても、あまり興味がないので何と答えればいいのか分からない。
だが、彼女の眼鏡越しに見える瞳は揺れていて、忙しくなく動き、そして時折期待してるかのようなどこか熱を帯びたような瞳で俺をチラチラと見つめている。
――なるほど、可愛いな。
今だってそうだ。両手の指を動かして太腿をすり合わせる動作なんて、男を誑かしてるとしか思えない。
狙ってやってるのかそれとも天然なのか分からないが動作や仕草が的確に男のポイントを付いてくる。
もし、俺が明美に対しての知識が一切なければ、惚れていたかもしれない。
「俺が部屋に行ってもいいのか?」
「う、うん、達郎ならいいよ」
「そうか……なら今度、明美に時間があるときに呼んでくれよ」
「うん、約束だからね」
「ああ、約束だ」
それから2人で他愛のない話をした。
流石に今日一日で3年の溝を埋める事は出来なかったかもしれないが、俺と明美の間にあった蟠りは殆ど解消されたのではないだろうか。
来年からはお互いに中学生になる。明美はそこでイケメンの先輩と付き合い、処女を散らす事になるだろうが、我が家に飛び火しない限りは応援してやってもいいかもしれない。
イケメン先輩の名前は忘れてしまった。というか立ち絵でも目が隠されているのでどんな顔かすらも分からない。
分かるのは1年上の先輩でヤリチンでイケメンでガタイのいいプレイボーイという事くらいだ。
といってもそれはあくまでも一枚絵から見た先輩の様子だ。実物は多少異なるかもしれない。
もっとも、その先輩と明美が関係を持ったときの兆候は比較的分かりやすいのだが……。
まず眼鏡からコンタクトに変わる。
そして高校に上がると同時に髪の毛を染める。
恋をすると女は変わると言うが明美の場合はその変化が分かりやすいのだ。
惚れた男の好みに染められていく。だから、先輩も明美の事を手放さないのだろう。
本編の達郎は高校デビューかオシャレに目覚めたくらいにしか思っていなかったのだが、それは明美の事を達郎が理解していなかっただけだ。
明美という女は俺の目から見ると、凄く分かりやすい。
今は俺に対して明美が好意を持っているのが分かるが、それが中学、高校になるとどうなるかは実際に俺には分からない。
「明日から、一緒に登校してもいい?」
「別に構わないけど……というかこれまでも一緒に行くことが多くなかったか?」
昨日や今日のように日和が登校している明美を見つけて、声を掛けて俺も流れで一緒に登校する。
そんな風に一緒に学校へ行った事はこれまでの3年間で何度もあった。しかし、それを明美は首を小さく横に振り、唇から吐息を小さく吐きだして否定する。
「ううん、そうじゃないの……途中で合流するんじゃなくて、昔みたいに……家を出てから一緒に学校に行きたいの」
明美が胸の裡を告げる。告げてから恥ずかしそうに目を伏せる、だけどこちらの様子を覗うかのように視線だけは外さない。
まるでなにかを期待するような、それでいて昔に郷愁を感じているような、そんな仕草と表情を見ていると自然と口元が綻んだ。
「そうだな。それじゃあ、明日から一緒に行こう」
「うん!」
俺と明美はそれから母さんが部屋に来るまでの間、話を続けた。
昔の話や最近の話、3年の月日があったのだ。語る事はそれこそ山ほどある。
だけどそれは今日で終わりなんかじゃない、明日からも続いていくのだから……俺はこの時になってようやく、少しは昔の自分に戻れたのかもしれない。
幼きあの頃のように、何の知識にも縛られず、ただ澤木明美という一個人の人間と向き合う事ができていた頃に。