幕間:とある幼馴染の心情
入学式を控えた前夜、私は勉強机の上に置かれた髪飾りを眺めていた。
それを見ているだけで自然と頬が綻んでいくのが分かった。
「──達郎」
私には好きな男の子が居る。
その男の子は昔からずっと私の隣に居てくれた男の子で、幼稚園の頃には結婚の約束だってした。
『ねぇたっくん、大人になったら私と結婚してくれる?』
『うん、いいよ』
『ほんと?ぜったいだからね!!』
所詮は口約束だったけれど、私にとってはとても大事な約束だ。
小学2年生の頃、公園でたっくんとたっくんの妹である日和ちゃんと私と紫雨ちゃんの4人で遊んでいると、野犬に襲われた事があった。
TVで見る犬よりも、近所で飼われている犬よりも、汚くて怖い顏で唸り声をあげる姿を見て、私は泣いた。
日和ちゃんも泣いていて、紫雨ちゃんだって泣きそうな顔をしていた。周りの大人達だって悲鳴をあげるだけで動こうとしなかった。
だけどそんな中でたっくんだけが私達を庇うようにして前に出たのだ。
あの時のたっくんの姿は今も鮮明に思い出せる。
『3人とも、俺の後ろから出るなよ』
『俺がなんとか…するからな』
そして野犬が襲いかかってきて。だけどたっくんは一歩も引かないで。
私達を……ううん、“私を守るため”に前に出て!!
なのに私は目を開く事が出来なかった怖くて怖くて、目を覆っていた。
それから、目を開くと野犬は動かなくなっていた。
だけどたっくんも身体から凄く血を流してて……胸なんか真っ赤に染まってそれが凄く凄く痛そうで。
『お兄ちゃん!お兄ちゃん!!おにぃぢゃんッ!!!』
『あああ、たっくん、だっぐんッ!』
日和ちゃんが泣いていた。私も泣いて。紫雨ちゃんだって泣いていた。
だけどたっくんだけは違っていた。
『大丈夫だよ。ちょっと傷は残るかもしれないけど、死にはしないって……もうすぐ、救急車も来るみたいだしな』
転んで擦りむいただけで泣きたくなるくらい痛いのに、そんな傷よりももっと傷ついてるのに、たっくんは笑っているのだ。
私が心配しないように、たっくんは私の事を安心させるように笑っていた。
救急車に運ばれる瞬間まで私を心配させないように。たっくんは笑顔を浮かべていて……それが、堪らなく嬉しいのに胸が苦しかった。
この瞬間に私はたっくんの事が“好き”から“大好き”になったんだと思う。
だけど小学3年生になってから、急に距離を取られるようになった。
表面上は変わらない。だけどたっくんの傍にずっと居た私だから分かる。
彼は私と距離を取ろうとしているのだと。私が近づくと彼はその分だけ離れようとした。
『あー、じゃあな』
『う、うん。さようなら』
─なんで?
話しかけるたびに彼は気まずい表情で、まるで嫌なモノを見るかのような目で私を見つめてくる。
─どうしてそんな目で私を見るの?
そしてすぐに会話を切り上げて逃げるように私の目の前から立ち去っていく。
─私が何かした?
だから私は嫌われたのだと思った。
─どうして? どうして私が嫌われるの?
たっくんに何かしたのだろうか?いくら考えても理由が分からないよ。
ずっとずっとずっと、考えても考えても考えても考えても考えても分からないの。
『あ、柳ちょっといいか?』
『ああ、全然いいけど、どうした?』
たっくんは人気者だった。たっくんの周囲には何時も人が集まっていた。
離れた彼が私のすぐ傍で楽しそうに会話しているのを見るのが嫌だった。
手を伸ばせば、足を動かせば彼に届く。だけど決してこの距離が縮まる事はないのだと、考えると胸が苦しくなる。
『達郎くん!この前はありがとう!』
『いいよ別に、気にしないで』
やめて、私以外の誰かに優しくなんてしないで。
すぐ傍に居る彼が私ではなく他の人を見て楽しそうにしている。
それを見るたびに私は頭がおかしくなりそうだった。
彼は当時から私が好きなまま、何も変わっていない。
ヒーローのまま、彼は大きくなっている。
だけど、そんなヒーローは私だけに距離を取っている。
『……たっくん』
それが堪らなく悔しくて悔しくて悲しくて悲しくて切ない。
たっくんの事を忘れようと思った事もあったけれど、それはできなかった。
朝の通学路で、教室で、彼の横顔を見るたびに胸の動悸が早くなる。
嫌えない。嫌う事なんて出来なかった。
自然と彼の事を目で追ってしまう。追って、追って、追いかけて、彼の事だけを考える毎日が過ぎ去っていくだけだった。
彼が嬉しそうにするたびに、楽しそうに過ごすたびに私はその相手に対して男女の区別なく嫉妬してしまう。
どんどん相手の事を嫌いになっていくのが分かった。
醜い感情だとは私も思っている、こんな事思ったらダメなんだと何度も自分に言い聞かせた。
『暗い顏してるけど、何か悩みでもあるのか?もしよかったら話を聞くぞ?』
『柳、実は……』
それでも!! 許せなかった。許せるわけがない。
だけど、私には何もできない。
私に出来るのはただ見つめる事だけで、それが悔しくて悲しくて苦しくて切なくて……とても辛かった。
そしてそれは学校だけじゃなく、家に帰ってからも続いた。
『達郎! 迎えに来たぞ! 一緒に行こう!』
『ああ、いつもありがとう』
『気にするな、私と達郎の仲だろう?』
たっくんともう一人の幼馴染である紫雨ちゃんが仲良くしている姿を見るのが辛い。
パパとママの部屋の窓の隙間からたっくんと紫雨ちゃんが一緒に車に乗り込むのを見つめているだけの日々。
紫雨ちゃんは狡い……クラスが違うのに達郎とずっと仲良くしている。
達郎から特別扱いされている。それが狡い。
私は距離を置かれているのに、紫雨ちゃんだけが仲良くしているのは狡いしおかしいよ。
私と紫雨ちゃんの何が違うの?何で彼女だけが特別なの?
……確かに紫雨ちゃんは可愛いと思う。他の女の子と比べて容姿が整っているのは私にだって理解できる。
だけどそれだけだ。紫雨ちゃんはキツイ性格をしている女の子で、苦手に思っている子だって多い。
クラスでは若干浮いた存在だと言う話を聞いた事だってある。なのに、どうしてたっくんと……達郎と仲良くしているのか私には理解できなかった。
そしてキツイ性格をしている筈の紫雨ちゃんが達郎にだけは態度を軟化させているのが酷く不快に感じてしまう。
頬を染めて、瞳を潤ませているのがカーテン越しに見て分かる。
『ムカつく! ムカつく!! ムカつく!! 紫雨ちゃんなんて!! 達郎以外に友達なんていない癖にぃ!!』
それを見るたびに私の心の奥底では黒くて濁ったモノが沸々と湧き上がってくる。
本当は紫雨ちゃんの事だって大事な友達だと思っていたのに、もう、友達なんかじゃないのだと、敵なんだと認識してしまった。
これが醜い嫉妬なのは分かっている。分かっているけど、それでも……。
『紫雨が幼馴染で本当に良かったと思うよ』
『……私も達郎が幼馴染で良かった』
『…………』
憎くて憎くてしょうがないのです。
だから、私は醜い嫉妬心から親友であった筈の紫雨ちゃんの事が大嫌いになってしまった。
そして嫌いになった女の子は紫雨ちゃんだけではなかった。
『あ、明美ちゃんだ! おはよう、明美ちゃん!』
『おはよう、日和ちゃん。……達郎も』
『……ああ、おはよう明美』
私は達郎の妹である日和ちゃんの事も嫌いになってしまった。
私が達郎に苦手意識を持たれて避けられているのを日和ちゃんは知っている。
達郎から直接聞いたわけではないだろう。私と達郎の関係を見て、日和ちゃんは察したのだと思う。
傍目から見ると私と達郎を仲良くさせようとしているように見える筈だ。
当時の私もそう勘違いしてしまった。……そう、勘違いだった。
だって私は見たから。
『……ふふ』
達郎と私が気まずそうにするたびに、それを見て日和ちゃんが笑っているという事実に……。
それに気付いた時、私は日和ちゃんの事が嫌いになった。
日和ちゃんは私と達郎を善意から仲良くさせようと思って仲介している訳ではなく、単純に達郎から距離を取られている私を見て優越感に浸りたいだけ。
『お兄ちゃん!腕組んでいこう!』
『あ、おい、日和……ったく、しょうがないな』
女の私だから分かる。日和ちゃんの兄である達郎を見る目が気持ち悪い目をしている事に。
だからそれ以降、私は日和ちゃんの事が嫌いになった。
一度嫌いになると嫌な点が次々と浮彫りになっていく。
紫雨ちゃんは学校では周囲の目があり、接点が余りない事からか達郎の傍に近寄らない。
その反動か放課後、周囲の目が無い時には必要以上にベタベタしている。
それを見るのは苦痛だけれど、まだ我慢できる。
だけど嫌だった。私の部屋と達郎の部屋はすぐ目の前に存在している。
その気になればベランダを越えて会いに行くことだって出来るのに……距離が遠い。
だから私は見てる事しかできない。
達郎が登校するのを見て、達郎が教室で勉強をしてるのを見て、達郎が友達と遊んでるのを見て、仲良くしてるのを見て……。
それから月日だけが経っていった。
気が付くと達郎が私から距離を置いて3年が経って、だけどクラスだけは一緒になって……ずっと達郎の事を見てたから、嫌いになることも出来なくて……これから先も距離を置かれるのだと、そう思っていたのに……。
『一緒に入らないか?』
達郎が急に距離を詰めてきたから。
一緒に登校はするけれどクラスに入る時はいつもタイミングをずらしていたのに達郎から突然そう言われて。
その時の私は感情がグチャグチャになって全然考えが纏まらなかった。
だけど、達郎の中の何かが変わったのだと分かったから。
だから放課後になって達郎に今までの事を問い詰めてしまった。
我ながら短絡的だと思う。だけど結果的に達郎の本心を知れたので良かった。
『あ、明美の事をずっと考えている内に気まずくなって、それが態度に出たんだよ。本当にごめん』
そう達郎に言われて、その言葉の意味を何度も噛み締めて、噛み締めて、理解した途端に私は一気に頬が熱くなるのを感じた。
それから、達郎と私はどんどん距離を縮めていった。その日の内に達郎の部屋に行く約束をして、我慢できずにベランダから行ったのだけれど、達郎はそれを受け入れて部屋の中へ入れてくれた。
部屋の中に入った時に感じたのは懐かしさだった。昔入った時とあまり変わっていない。
それが私には嬉しかった。達郎はあの時から変わっていないのだと思えたから。
そして次に感じたのは達郎の匂いだった。私がこの部屋に来た時に達郎は筋トレをしていて、汗をかいていたから。
汗と達郎自身の熱から発せられる熱気に充てられたのか、その匂いを嗅いだ私は頬が熱くなる。
いや頬だけじゃない、身体が発熱したかのように熱くなるのを感じて、自然とお腹の部分が締め付けられるように苦しくなって、自然と太腿を摺り寄せてしまう。
達郎の傍に居る。達郎の匂いを普段よりも身近で感じている。その事実に興奮を隠せない。
達郎と何を話したのかあまり覚えていないけれど、最後に達郎がまた私の部屋に遊びに来ることになって、私はとても嬉しかった。
私と達郎の仲が進展すると、途端に日和ちゃんが割るように入ってくるようになった。
だけどその頃には私の中にはすっかりと日和ちゃんに対する悪意というものが無くなっている事に気が付いた。
何をしても微笑ましいと思えた。日和ちゃんがどれだけ達郎と仲良くしようとも、血を分けた兄妹なのだから男女の仲に発展する可能性はない。
それが私の心に余裕を与えてくれました。
それから更に良い事は続きました。
私がいつものように達郎と紫雨ちゃんが道場に行くのを見送って、そして帰ってくるのを見守っていると紫雨ちゃんと目が合ったのです。
途端に紫雨ちゃんが顏を顰めるのが遠目からでも分かって、それを見て私も気分が悪くなるのを感じてしまったけれど。
その次の日に達郎から道場をやめた話を聞いて、私はとても嬉しかった。
それが原因なのか、クラスが違うから接点がないのは当然なのだけれど、紫雨ちゃんと達郎の距離が離れてしまった。
私がそう感じているだけなのかもしれない、だけど偶に目に入る紫雨ちゃんはイライラしてるように思えてならなかった。
それ以来私は紫雨ちゃんに対して可哀想だと思うようになった。
私は私が思った以上に極端なのかもしれない。
達郎と上手くいかなかった時はあれだけ、恨んで妬んでいたのに、達郎と距離が縮まると途端にそんな感情が消え去ってしまった。
そう。私と達郎の距離はずっと縮まっていった。
それに比例して、私は姿見の前で自分の姿を見る時間が多くなった。
髪は伸ばした方がいいのかな?男の人ってショートよりもロングの方が好きって人が多いし。
達郎の好みが短い方が好きなんだったら、切ればいいよね?
なら、少しだけ伸ばしてみようかな?
なんて事を考えながら毛先を弄っていく。
達郎って眼鏡よりコンタクトの方が好きなのかな?
どうしよう、中学生になったらコンタクトに変えてみようかな?
今度お母さんとお父さんに聞いてみよう。
そんな事を考えながら達郎に可愛いと言って貰えるような服装を考える。
彼の好みを知りたかった。彼の好みに合わせたかった。
彼の事が好きだから、彼に可愛いと言って貰いたいから。
『もうすぐ、春休みだから達郎を誘って遊びに行こうかな』
ずっと彼の隣に居たい。彼にとっての特別であり続けたい。
そう思ったから、私は行動を起こす事にした。
「ふふ」
その行動の結果。私は机の上の髪飾りを眺めながら、今日の出来事を思い返していた。
嬉しい事が盛りだくさんで、とても楽しい1日だった。
ずっと彼と2人で一緒にいて、一緒に過ごして、手だって繋いで。
途中で、達郎が他の女の子の事を言った時は少しムっとしたけれど、達郎が私にプレゼントをくれた事が嬉しすぎて、すぐに流れてしまった。
綺麗な赤い色をした髪留めで、達郎は髪を伸ばしてから使ってくれると嬉しい、なんて言ってくれたけれど、このタイプの髪留めは短くても使う事ができるタイプのモノだから。
「明日、早速使ったら達郎なんていってくれるかな?」
可愛い?似合ってる?素敵?なんて言ってくれるのか、それを想像するだけで楽しすぎて胸から熱が込み上げてくる。
その熱を抑えるように手の平で自身の胸を触ると僅かばかりだけど膨らんでいる事がよくわかる。
「……達郎は、大きい方が好きなのかな?」
自分の身体が日に日に成長しているのは理解できた。そしてそれが嬉しい。
保健体育の授業で身体の仕組みは理解できたし。少女漫画を読んでいたり、友達の女の子達の話を聞いていればそういった知識も自然と身についてくる。
私の身体が大人にへと、女性らしい身体つきに成長していく。
それと同時に達郎の肉体もより逞しくなっていく。
「手、凄かったな」
今日握った達郎の手の感触を思い出す。
硬くてゴワゴワしていたけれど、とても熱かった。
達郎の熱を指先を通じて感じる事が出来て、凄く嬉しかった。
「凄く鍛えられてたし……身長だって伸びてた」
ラフな格好をしていたけれど、それが達郎の際立った肉体を引き立てていた。
私が彼の顔を見上げて、彼が私の顔を見下ろして。
その視線のすれ違いに妙な興奮すら感じてしまい、彼の目をまともに見る事ができなかった。
「私も、もっと可愛くならないと」
手鏡に反射する自分の顔を見つめていく。そこには野暮ったい眼鏡を掛けた女が居た。
顔は自慢するわけじゃないけれども可愛い方だとは自分でも思う。
私の事を可愛いと言っている男子生徒だって何人も居たし。他の女の子達と比べても整っているし負けるとも思わない。
だからと言って楽観視も出来なかった。
そんな私と比べても紫雨ちゃんの美貌は群を抜いている。それが悔しかった。
当初私は紫雨ちゃんが中学校で離ればなれになると思っていた。
だけどそうはならなかった。紫雨ちゃんはきっと達郎の事が好きに違いない。
直接聞いたわけではないけれど紫雨ちゃんの態度を見ていれば一目瞭然だ。
露骨だと言い換えてもいい。達郎に対して色目を使っている。
しかし、達郎が一番意識している女子は私だろう。
春休み中も達郎の事を見守っていたけれど、紫雨ちゃんが何度か来たくらいで、他の女の影はまったく見えなかった。
だから…だから。
「中学校は達郎と一緒のクラスで、紫雨ちゃんとは別のクラスがいいなぁ」
達郎には申し訳ないけれど、私は紫雨ちゃんの事が苦手だった。
昔は仲が良かったけれど、それは昔の話であって今では紫雨ちゃんの事は友達だとも思っていない。
それは向こうも同じだろう。少なくとも私は紫雨ちゃんの事が嫌いではなくなった。だけど苦手だった。
「中学校でもずっと一緒だと嬉しいなぁ」
中学校だけじゃない高校でも大学でも、大人になってからもずっと達郎の隣にいたいと心の底から思っている。
きっとこの気持ちは達郎も一緒だと思う。だって、そうじゃないと私にプレゼントを贈ったりしないでしょう?
私は知っている紫雨ちゃんだって達郎からプレゼントを貰ったりはしていないということを、達郎がプレゼントを渡すのは妹である日和ちゃんくらいだから。
私だけが達郎からプレゼントを貰ったのだから。
主人公も異性の幼馴染にプレゼントくらいやれよって思う方は評価お願いします。