1.ONLINE
「くまたろうはかっわいいねえー」
美玖は自室のベッドの上で寝っ転がりながらシロクマの等身大抱き枕をぎゅっと抱き寄せた。
「それいつから持ってんだっけ」
枕の脇に置いたスマホの画面越しに声が聞こえる。通話のスピーカーモードにしているため直接耳につけていなくても電話できる。
「大学二年からだからもう五年の付き合い。湊の十倍の長さだね」
美玖がけらけらと笑うと湊はむっとした声音で聞き返す。
「じゃあなに? 俺よりくまたろうの方が大事なの?」
「そんなことないよ。湊も、ちょー大事」
「次、美玖んち行ったらくまたろうコロス!」
まって殺さないで!殺せないけど! と美玖は笑いながら指摘する。たしかに! などと相槌をうちつつ湊もつられて笑い返してきた。
ぬいぐるみに嫉妬するなんて大概湊もかわいいなあ。
美玖は声のトーンを落として、一言。
「湊、好きだよ」
いっときの間があってぴろんとスマホが鳴る。
LINEのトーク画面にスタンプが送られてきた。見るとパンダのキャラクターがスキ!と言いながらハートを投げている絵柄だ。
美玖はくまたろうを抱いたまま満足げにそれを眺める。そしてスマホの画面に表示された時刻をみてやば! と声に出した。
「湊、明日説明会って言ってたよね? もうこんな時間だよ」
「うわっ、もう寝ないと。準備全然してない」
「全然してないはやばい。じゃあね、おやすみ。ありがと。」
「こちらこそ。おやすみ」
湊との通話が切れる。
LINEのトーク画面に表示された通話時間は一時間半。夜の十一時から寝る前に少しと言って始めた通話だったが、とっくに少しを過ぎていた。
湊とは会社の新入社員研修で知り合った同期だ。班別行動で同じグループになり、そこから仲良くなった。美玖とは真逆の、どちらかというと控えめな、大人びた雰囲気をまとう人だった。だからこそ明るく元気に生きてきた美玖は湊に憧れにも近い恋心を抱き、湊も美玖の気持ちにこたえてくれたのだと思う。
だが、実際つきあってみると湊はやきもち焼きで独占欲が強く、案外オスっぽい性格のようだった。
「ま、そこがまたいいんだけどね」
美玖は独り言ともとれるごく小さい声量でシロクマの抱き枕に語りかけた。
明日は美玖も朝が早い。朝の会議の準備は新入社員の美玖の仕事だからだ。だが寝る準備は万端だ。ドライヤーもして歯磨きもして、いつでも寝られる体制をとってから電話をかけたのだから。
ふうと息をついて布団の中で姿勢を直す。
「おやすみ、くまたろう」
ふわりと手触りのいいシロクマの頭をなで、布団を肩まで掛け直して美玖は眠りに落ちた。
美玖の不運が連続したのは翌日からだ。
いや、すでにその兆候はあったのだが、美玖がそれに気づくことはなかった。
「今月の指標はこちらになります。例年十二月の売り上げは大きく落ち込むので、各営業所、各チームで対策を十分話し込み、成果があれば報告書にまとめ共有するように」
会議室のスクリーンにでかでかと映し出されているのは社内売り上げの順位だ。全国二十支店百十営業所の売り上げ金額と順位がExcelの表で表示されている。美久たち札幌支店第五営業所は下から数えて三番目。ご丁寧に赤文字で強調までしてある。
スライドが切り替わり、眉間にしわを寄せた支店長の顔が映し出された。その背景はオンライン会議の会場である札幌支店第一営業所の大会議室だ。支店長は一礼し、渋い表情のまま、マイクを画角の外にいる司会に手渡した。
「坪井支店長、ありがとうございました。次に総務課から連絡です。相羽総務課長、宜しくお願いします」
坪井支店長と入れ替わりにスクリーンの画角に入ってきたのは、打って変わってにこにこ顔の相羽総務課長だ。
なんだ、いいことでもあったのか。
おんぼろ会議室の第五営業所に漂うどんよりとした雰囲気とはいかにも対照的だ。
美玖は会議室のパイプ椅子に座りながら、無感情でスクリーンに映る総課長を見つめた。
正直毎月の月初会議の内容はまったく変わり映えしない。いつもいつも売り上げ一位の営業所と比較され、北海道支店はびりっけつ。その中でも特に足を引っ張っているのは第五営業所だ。そしてお前らの頑張りが足らないと言わんばかりのスライドが並ぶのだ。
初めの頃は新入社員独特の傷つきやすい感性で、美玖はそれらをとらえ、かなりうんざりしていたものだ。
「代わりました。相羽です。スライド、お願いします」
相羽課長の穏やかな声がスピーカー越しに聞こえてきた。ぱっと総務課テイストのスライドが映し出される。弊社、天成製薬にちなんだ公式キャラクター・天使ちゃんのイラストがちりばめられた可愛らしい表紙となっている。
「皆さん長時間の会議でお疲れと思いますので、はじめに嬉しいご報告から」
スライドが切り替わり、ピンクの棒グラフが表示された。横軸には各支店名が並び、縦軸の単位は(件)となっている。例によって北海道支店は最下位どころかゼロである。
「これ何のグラフだと思いますか」
存外、相羽課長の声色は明るい。ややあってスライドの上部にグラフのタイトルがアニメーション付きで表示された。
「そうです。今年の新入社員の車両事故件数です。全MRと比較して、新入MRの事故率が圧倒的に高いのは皆さんもご存知の通りです。東京支店では早くも五件に上るところ、今年の北海道支店ではいまだ無事故無違反となっています。今年の四人は優秀ですね」
スピーカーの奥ではまばらにぱちぱちと拍手が聞こえる。テレビ会議の会場となっている、第一営業所では美玖以外の新人三人が照れ笑いを浮かべていることだろう。こちらでは美久自身をはじめ、誰も何のリアクションも示さないが。
「ふふ、はい、この調子でいきましょう。先輩たちも、気を抜かないように。さて」
ここからが本題です。と相羽総務課長の引き締まった声が届く。
今期の勤怠記録と皆さんが報告してくれた訪問結果記録との齟齬について―――
ああ、これは自分には関係ない話だ。
齟齬なんてあるわけがない。毎回正確に記録しているし、そもそも美玖の活動量なんてたかが知れている。ルート営業の担当先は先輩たちの半分以下しかない分、訪問結果記録に書いて報告するような内容も半分以下しかない。先輩たちは外回りの時間も報告する内容も多いから、少ないパソコン業務の時間で書ける量は限られている。多少、省略したりコピペしたりしていてもしょうがないんじゃないかと美玖は思う。
だんだんと椅子に深く沈んでしまっていた自分の姿勢を、新入社員らしくあれという心の声に従って正した。ただし、スクリーンを見つめる美玖の目はすでにいくらか虚ろになりつつあった。
大腸からくる腹痛が限界である。一刻も早くトイレに駆け込みたい。
ちらりと隣の席に座る男性の先輩を見やると、無表情でスクリーンと資料を見比べている。美玖の視線に気づくと小声でどした、と声をかけてきた。
「いえ、ちょっと、空調が寒くて」
下痢でトイレに行きたいとは言えなかった。代わりに間接的な理由を述べる。
「ああ、むさ苦しいおじさんばっかやからな。女の子には冷えるよな」
「あとちょっとなんで大丈夫なんですけど」
もう十二月だというのに、十人弱いる先輩たちはその大半がジャケットを脱いでリラックスしている。
本当に寒くないんだ。
対して美玖はというと、北海道の冷気をしんしんと感じている。
ジャケットの上から自前のブランケットを羽織り、しかも靴の中にはパンプス用のカイロをしのばせているというのに、だ。
そうしている間にもスライドはめくられ、会議は終盤に差し掛かっている。
メモを取る指先が冷たいを通り越して痛い。
この営業所に美玖以外の女性社員はおらず、そしてこれまでもいなかった。したがって空調をはじめとするあらゆる設備が男性向けに設定されているのだ。
仕方ないことではあるが。
次はお腹にもカイロを貼ってこようと美玖は決意した。
「大丈夫やったか?」
廊下ですれ違ったのはさっきの先輩だ。ブランケットのすそを握りしめ、がくがく震えながら会議に参加していた美玖のことを心配してくれたのだろう。まさか美玖の大便事情など知る由もない。
「はい、おかげさまでなんとか。矢尾先輩は会議室寒くないんですか」
「全く。けど寒いなら管理室のおじさんに言ったら? 変えてくれると思うで」
「そうなんですね。わかりました。ありがとうございます」
矢尾先輩はひらりと手を振って去っていった。
体育会系の肉体を持つ、だが雰囲気は柔和な、二個上の先輩である。
この営業所では最も年が近い。心身ともにエネルギーがあり、営業成績も上々だ。
ああ、余裕そうでいいなあ。
二年たったら私も慣れてあんな風になれるんだろうか。
比較的暖かい地域で育ってきた美玖にとって北海道の寒さは異常気象並み。
それでもしばらくすれば北海道の気候に体が慣れてきて、むしろ住みやすくなるらしい。
いまだに信じられないが、一年目の冬さえ越せれば何とかなるような気がしていた。
営業成績に関しては、まあ担当先の数が全然違うから比較できないよね。
実のところ、今持っている担当先でいっぱいいっぱいではあるのだけど。
美玖はまだ返し切っていないメールがあるのを思い出して、そそくさと営業所の自席に戻った。