300文字のストーリー【五月晴れ】完全版
今日のよつ葉の最初のお仕事は、いつもどおりの朝の巡回から始まる。
カートに電子カルテの端末、担当患者様の看護記録、体温計や血圧計。寝ている間に取れてしまった点滴やモニター配線を再度固定するためのテープなどを積み込んで出発する。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
そんな声がけをしながら、病室を転々としていく。
主治医の回診はまた別途あるけれど、その時間はまちまちだから、その前に体温と血圧だけは測って電子カルテに入力。気がついたことは手書きで電子カルテに入力していく。
そして、最後に担当する患者さまのところに到着した。
巡回の順番は特に決められておらず、看護師によって自分なりのルールを持っている人も多い。重篤な患者様を先に回る人や、前日の看護記録を一通り確認し、気になる患者様のところから回る人もいる。
よつ葉にも基本的なコースはあるけれど、でも、この病室だけはいつも最後にしていた。
「おはよう美依奈ちゃん」
「おはようございます。よつ葉ちゃん」
「いつもどおり、お熱をお願いね」
「うん」
自分で渡した体温計を脇の下に入れてくれる。その間に、反対の右腕に腕帯を巻き付けてすばやく血圧を測っておく。
体温計のアラームが鳴って、美依奈ちゃんが自分で取り出して渡してくれる。
「うん、体温も平熱だね。朝ごはんはちゃんと食べられた?」
「全部食べられたよ」
「よかったぁ。じゃぁご褒美にシールをあげちゃう」
「やったぁ」
電子カルテへの入力を終えて、今度は看護記録のファイルを取り出してみる。
昨日の夜間には特に大きなトラブルはなかったようだ。朝の引き継ぎに当たる申し送りでも美依奈ちゃんに関する情報はなかったはず。
この美依奈ちゃんは、よつ葉にとっては特別な患者さんのひとりでもある。
本来ならば、美依奈ちゃんは小学2年生。
でも、本来入学するはずの学校にはまだ一度も行けていない。
以前、持ってきてくれた彼女のランドセルはまだ新品のままだ。病院の中には院内教室があるけれど、そこにランドセルで通学する必要はないから。
この美依奈ちゃんに関する看護記録の厚みを見れば分かる人にはわかる。
ズッシリとしたそれは、本来一定期間で処分されてしまうもの。それにも関わらずこれだけのボリュームが有るということは、彼女がそれだけつらい思いをたくさんして、病と戦ってきたという証拠でもある。
そして、他の患者さんのところに行くのではなく、この美依奈ちゃんを最後にすることによって、時間ギリギリまでコミュニケーションの時間をとることができるから。
この幼い美依奈ちゃんに、よつ葉はいろいろと教えてもらった。
指導看護師さんからは、嫌がるケースであってもやるときはやらなければならないと指導されて、無理やり押さえつけて処置をしたこともあった。泣いて嫌がる美依奈ちゃんに心の中で「ごめんね」を言いながら。
看護実習生という立場でありながら、どうやって患者さんとの心を通わせていくかに悩んだこともあった。
小児科にあるお昼寝の時間、病室で眠るまでの時間を一緒に過ごしていく間に、少しずつ美依奈ちゃんとの心が繋がっていくことを実感した。
それを決定づけたのは、美依奈ちゃんが嫌がる強い薬の投与のときだった。点滴で注入するので、副作用も強いしすぐに出てしまう。それが分かっているから、美依奈ちゃんも嫌がってしまうということが看護記録に何度も書かれていたから。
でも、その日美依奈ちゃんは、処置をする看護師さんに伝えた。
『よつ葉ちゃんがしてくれるなら、美依奈は頑張る』と。
すぐによつ葉が呼ばれて、説明を受けた。
本当ならば、このような患者さんの希望に添えるかはなんとも言うことができない。
たまたまよつ葉の指導看護師さんと美依奈ちゃんの担当看護師さんの仲がよく、その発言を看護師長に相談したところ、本人にとってそれが治療を受け入れる条件ならばということで許可が出た。
二人の指導看護師さんのもと、よつ葉が美依奈ちゃんに点滴を落とす。
体がだるくなったり、おしゃべりする元気すら奪われてしまうような辛い治療。でも、その日美依奈ちゃんは最後まで泣かなかった。よつ葉の手を握って頑張ってくれていた。
その報告が看護師長に伝えられたことから、美依奈ちゃんにはよつ葉が臨時でつくことになった。
『そっか……。せっかくお友達になれたのに、よつ葉ちゃんはまだ看護師さんじゃないんだぁ』
『来年の春に試験があってね、それに合格すれば看護師さんになれるんだよ。ここの病院でお仕事することも決まったしね』
『え? それじゃぁ、お願い。よつ葉ちゃんが看護師さんになって美依奈のことをまた診てもらえるようにって』
『美依奈ちゃん……。うん、よつ葉頑張るよ』
『じゃぁ約束だよ?』
点滴をしていない方の手が差し出されて、小指を絡ませた。
『お願いよつ葉ちゃん、美依奈のためにも看護師になってね?』
『うん、約束するよ』
そう、もうあれから半年以上が経つ。
そしてこの4月。よつ葉は美依奈ちゃんと交わした、看護師になるという約束を果たした。
4月頭から始まった新人研修。研修中には配属先は告げられなかった。
2週間の新人研修が終わり、告げられたのは外来ではなく病棟への配属。
よつ葉を迎えに来てくれた先輩看護師さんは沙紀さん。小児科だけでなく、各科の病棟、重篤患者用の特別室までの経験を持つベテランの先輩だった。
沙紀さんは、ナースステーションの中での挨拶を済ませたあと、午後の病棟を回るよと告げた。
「菜須さん、実習中も見たり書いたりしてきたと思うけど、ここからは本物だからね。あなたが書いたものが正式な記録として残るから。お薬だって先生の処方が出て、看護師のサインがあればそのまま医局から出してもらえるわ。それがこれまでの看護学生と、菜須さんが頑張ったあとの違いってやつかな?」
沙紀さんは緊張するよつ葉に、一冊のファイルを渡してくれた。
「このあと回る患者さんの看護記録ね。さすがにまだ担当患者さんを一人でつける訳にはいかないから、私の患者さんのお手伝いをしてもらうことにはなるけれど、その患者さんはちょっと訳ありだから目を通しておいてね?」
「はい」
でも、そのファイルに書かれている名前を見た瞬間、よつ葉の心に衝撃が走った。
「美依奈ちゃん……」
「覚えてる? もう今か今かとお待ちかねよ? でも、菜須さんが私の指導を受けるってことはまだ患者さんたちも知らない。もちろんその美依奈ちゃんもね」
忘れるわけがない。あの美依奈ちゃんが、よつ葉を本当に待っているだなんて。
沙紀さんは、看護学生時代よりも詳しく、病棟の流れや患者さんたちの生活と看護師との関わりについて教えてくれながら、各病室を回って、よつ葉のことを紹介してくれた。
「さて、それじゃぁ最後に行きましょうかね?」
「へっ?」
「その、あなたを待っていてくれる子のところによ」
小児病室エリアでも、そのお部屋はよつ葉が学生だったときよりもナースステーションから遠くになっていた。
「菜須さんは呼ぶまで待っていてね?」
沙紀さんがいたずらっ子のようにウインクして、病室に入っていった。
「美依奈ちゃん、今日は紹介したい人がいるの」
「え? 誰ですかぁ? 新しく入ってきた看護師さん?」
廊下で聞いていても、美依奈ちゃんの声は当時よりも元気そうだ。よかった……。
「もういいわよ。入っていらっしゃい?」
沙紀さんの声に、よつ葉が病室に入っていく。
「あっ!」
美依奈ちゃんは、そこから声が出なくなった。
「ね、今日から私の後輩指導につくことになった、菜須よつ葉さん。覚えてるでしょ?」
「今日からまた担当させていただくことになりました、菜須よつ葉です。よろしくお願いします」
「……よつ葉ちゃん、硬すぎるよぉ……。美依奈のお友達でしょ?」
美依奈ちゃんの目から涙がこぼれた。
「美依奈ちゃん、菜須さんの服が変わったの気づいた?」
「うん、真っ白の白衣になってる。沙紀さんと同じ」
「そう、美依奈ちゃん話してくれていたわよね。約束をしていたんだって。この白衣は本当の看護師しか着ることができないの。ちゃんと菜須さんは美依奈ちゃんとの約束を守ったってことなのよ?」
沙紀さんがよつ葉よりも先に説明してくれた。
「菜須さん、もう今日はこんな時間だから、終わりの時間までコミュニケーション取っていていいわよ。本格的には明日からね」
「はい。ありがとうございます」
沙紀さんは、美依奈ちゃんの看護記録をよつ葉に預けて戻っていった。
「美依奈ちゃん。お久しぶり」
「よつ葉ちゃん……。おかえり。本当に美依奈の担当さんになってくれたんだね」
「それはきっと沙紀さんとか、病棟の看護師さんたちがみんなで考えてくれたんだと思う。よつ葉には全く知らされていなかったもの」
二人でお話をしながら、看護記録を読み直す。学生時代のよつ葉が担当していたあとのことを知りたい。
「美依奈、よつ葉ちゃんが戻ってきてくれることを楽しみに、頑張ってたんだぁ」
「うんうん、そうだねぇ。えらかったねぇ」
よつ葉が美依奈ちゃんと別れたあとも、美依奈ちゃんは頑張って治療に協力してくれるようになっていたらしい。
まだカルテは見ていないけれど、この看護記録を見る限り、明るい内容が多くなっていることがわかるから。
「また明日から、体温とか測りに来るからね?」
「うん、また明日ね」
美依奈ちゃんとよつ葉の日々がまた戻ってきた。
美依奈ちゃんとの時間が動き出して、2週間ほどしたときだった。
いつものように、体温計を差し出したとき、美依奈ちゃんは思いがけないことをよつ葉に話してきた。
「よつ葉ちゃん……。あのね、嬉しいけれど、寂しい……」
「うん? どうしたの?」
前日、よつ葉はお仕事のシフトの関係でお休みだった。慌てて看護記録を確認する。
「そっか。この生活も終わりなんだね……」
そう、看護記録に書かれていたのは、明日の日付とENTの文字。つまり病棟生活が終わりを告げるということだ。
大型連休を挟んでいるから、その間に自宅での生活に体を慣らして、連休明けから学校にも少しずつ通い出すという話だ。
「美依奈ちゃん、おうちに戻れるんでしょ?」
「うん、でも、せっかくよつ葉ちゃんとお話ができるようになったのに、できなくなっちゃうんだよ。それが寂しい……」
「そっかぁ……」
また後で来るねと告げ、一度ナースステーションに戻る。
「どうしたの菜須さん、浮かない顔ね?」
沙紀さんが看護記録に記入しているよつ葉に話しかけてくれた。
「美依奈ちゃん、明日退院なんですけど、嬉しいというより寂しいって感じで」
「そうなんだ。確かに美依奈ちゃん入院生活長かったもんね。4年にもうなるかしら……。幼稚園からだものね」
そうだったんだ。よつ葉は昨年の実習から知ったから、美依奈ちゃんとはまだまだ短い付き合いでしかなかったもんね。
「あの、沙紀さん。美依奈ちゃんずっと頑張ってきたんです。なにかプレゼントできるものないでしょうか?」
そう言うと、沙紀さんは自分の机から可愛い紙袋を取り出してよつ葉に渡してくれた。
「これね、私も先輩から教わってきて、自分でもやっていること。先輩はすごかったわよ。花火を買ってきて、夕方に一緒に屋上で花火大会したりね。私はさすがに花火は持っていられないから、シャボン玉だけどね。今日はいいお天気だし、暖かいから屋上で飛ばしていらっしゃいよ」
その袋を持って、美依奈ちゃんの病室に向かう。
「美依奈ちゃん、今はお時間ある? 屋上に行かない?」
「よつ葉ちゃん。どうかしたんですか?」
美依奈ちゃんが驚いてよつ葉を見る。
暖かい午後だけれど、寒くないように上から羽織らせて、二人で屋上に上がってベンチに座った。
「よつ葉ちゃん?」
「美依奈ちゃんにプレゼント。退院おめでとう」
「わぁ、シャボン玉だ!」
遊びたい盛りの4年間。自由の効かない病院の中で過ごしてきた。辛い治療にも耐えてきたんだよ。最終日の今日くらい、なにか楽しい思い出を作って持たせてあげたい。
「よつ葉ちゃんは美依奈とのお約束守ってくれた。次は美依奈が元気になる約束だね」
これからは時々検査での通院もある。あのベッドは空になってしまうかもしれないけれど、病棟に来てくれれば会うこともできる。
「うん約束だよ?」
美依奈ちゃんとよつ葉の願いと約束がこもった虹色の球は五月晴れの空に高く舞い上がっていった。
翌朝、美依奈ちゃんはご両親と一緒に退院の手続きをしていた。
「菜須さん、一緒に見送ってあげて?」
「はい」
もう何年かぶりの総合受付と正面玄関。そこに美依奈ちゃんは待っていてくれた。
「退院、おめでとうございます」
「娘のことを見守ってくださったそうで。これからもよろしくおねがいします」
「はい。美依奈ちゃん。今度は順調な検査結果を報告しに来てね?」
「うん。よつ葉ちゃん。また次に来たときにシャボン玉で一緒に遊んでね?」
「いいよ。もちろん!」
何度も振り返って、手を振りながら歩いていく美依奈ちゃんを見送るよつ葉の心の中も、昨日の5月の空と同じ、澄み切った青色で満たされていた。