巻き戻り少女は父皇帝を愛したい
「選べ! 娘が殺されるのを見るか、その剣を捨てるか!」
母が死んだ日から十一年間、ほとんど会うこともなかった父だった。
たまに離宮を訪れても、私を顔を見てひどく寂しげな、悲しげな、そして怒ったような表情で何も言わない。
きっと嫌われているのだろうと、思っていた。
だからこの、革命軍のリーダーだとかいう男に攫われて皇宮殿まで連れてこられ、謁見の間の床に転がされて首に剣を突き付けられている現状に、私は何の希望も抱いてはいなかった。
父は大陸の半分を支配する超大国の主、皇帝だ。
ずっと離宮に放置していた娘の命など、取るに足りぬものと切り捨てるだろう。
抵抗する気はなかった。
それでいいと、思ったから。
旅の踊り子だった母を強引に手に入れ、私が生まれることになった原因。
この人のせいで生まれ、この人のせいで死ぬ。
私はそういう運命だったのだろうと、内心では安堵さえしていた。
ようやく終わる。
この、無意味な生が。
湖のほとりにたたずむ静かな離宮で、ただそっと息をしているばかりのこの命が。
ああ、やっと、終わってくれる……
ほっとして、穏やかに微笑んだ私を見て、父は目を見開いた。
その手から強大な力を持つ魔法剣が滑り落ちる。
かすれた声が名を呼ぶ。
「リーシャ」
私以外の誰もがとうの昔に忘れてしまったであろう、それは母の名だった。
命がけで私を産んで体調を崩し、ゆっくりと儚くなって、それから五年で散ってしまった美しい異国の踊り子の名。
そしてその瞬間、革命軍の一人が放った魔法の矢が皇帝の心臓を貫き、一つの時代が終幕を迎えた。
そのことに、彼を殺した者たちですら動揺した。
父の娘である私を一緒に殺してしまうことを忘れてしまうくらい、あまりに呆気ないその幕切れに驚愕していた。
だから誰も気付かなかった。
「……お父様」
小さくつぶやいた私が、皇族である父から受け継いだ膨大な魔力を暴走させ、謁見の間を吹き飛ばすほどの災禍を起こすまで。
私にそんな力があるなんて、自分を含めて誰も気付かなかったのだ。
誰かが叫んでいる。
喉が裂けてしまいそうな、すさまじい絶叫に耳が壊れてしまいそう。
「ああああああああああああ!!!!」
それが自分の声であると理解するまで、しばらくかかった。
そして分かった後も絶叫を止められず、声を聞きつけて部屋に飛び込んできた侍女たちが何か言うよりも早く、私は寝台から飛び出して窓を開き、裸足のまま三階から夜空へと身を投げる。
「アマーリエさまっ?!」
物静かな皇女の突然の狂乱に、背後から慌てた侍女が呼んだがもう遅い。
私は空中でくるりと身をひねり、身の内で荒れ狂う魔力を使って姿を変えた。
鳥へ。
銀の髪に紫の瞳そのままに、銀の羽根に紫の眼をした鳥となってバサリとはばたく。
行かなければならない。
一刻も早く、早く、はやく――――――――――――
自分が何をしようとしているのかも分からないまま風を操り、可能な限りの最高速度で夜の空を飛び続ける。
山を、森を、川を越えてひたすらに飛んでいった先で、夜だというのに煌々と明かりが灯る賑やかな皇都が眼下に広がるようになるまで、どれくらいの時間が経ったのか感覚がない。
今、何が起きているのだろう。
私は、どこへ行こうとしているのだろう……?
胸の内にそんな疑問が浮かび上がってきたのは、自分が皇都の明かりの中で迷いなく一つの場所を目指し、目当てのところへと舞い降りていく途中だった。
先ほどまで革命軍に攻め込まれ、あちこちから火や煙が立ち上り、怒声や悲鳴が響いていたはずの皇宮殿が、今はいつも通りの威容と静寂をもってそこにある。
そして、魔法の矢で心臓を貫かれ、声もなく倒れたはずの父が、
そこにいた。
目の下に黒々としたひどいくまがあり、頬がこけて無精ひげがまばらに生えている。
明かりの消えた部屋のバルコニーで、月明かりにぼんやりと照らされながら酒瓶に口をつけている憔悴しきった男は、とても超大国の皇帝とは思えない。
ああ、と。
深い悲しみの中で思い出す。
これは母が死んだ時の父だ。
ならば私は時を遡ってここへ来たのだろうか。
今の自分は、母を失ったばかりの五歳児か。
分からない。
今は何も分からないけれど、そんなことはもうどうでもよかった。
風を操って速度を落とし、父のいるバルコニーの手すりにふわりと着地しながら変化の魔法を解いていく。
とん、と裸足のつま先が石造りの冷たい手すりを踏んで、大きく広げた翼が銀の羽根を散らしながら人の腕へと戻った。
鳥から人へ、変化した余韻を追い払うように軽く頭を振って、どこか呆然と私を見上げる父へと視線を向ける。
父は手に持っていた酒瓶を無造作に捨てて、ふらふらと立ち上がった。
「リーシャ……、いや、違う、アマーリエ、か?」
「はい、お父様」
「なぜここにお前がいる? ……本当にアマーリエなのか? これは、これは俺の幻覚か?」
懐かしい父の声は、酒で喉が焼けているのか、ひどくしわがれてかすれている。
代々美女を迎え入れてきた皇族の血の結晶であろう美貌は憔悴しきった今だからこその陰りを帯びて壮絶な艶を含み、しかし乾ききった黄金の瞳は虚ろで生気が無い。
憐れだった。
無様だった。
だからこそ、その姿はこの上なく愛しかった。
なぜならば、父は、母を失ったがゆえにこうなったのだから。
私はそれ以上は何も言わず、ただ両手を広げる。
幻ではないと、触れて、確かめてほしい。
先ほど心臓を貫かれて倒れた父の姿がまだ瞼の裏に焼き付いている私にとっても、その体温が必要で、それ以外には何の価値もない。
「ぅっ……!」
喉の奥で何かが詰まったようなうなり声がして、数歩で距離を詰めた父が手すりの上に立っていた私を抱きしめる。
つま先が浮いて、小さな五歳児の体は父の腕の中にすっぽりとおさまった。
力強い腕は涙が出るほど懐かしく、大きな体に包まれて感じるその熱はこの世の何よりも大切で。
小さな手を精一杯のばして、自分からもぎゅっとしがみつく。
ああ、父が生きている。
今ここで、父は生きている。
母を失った私の、唯一の家族が。
どれくらいそうしていたのか、ただひたすらにその体温を確かめていた私は、ふと耳に届いた声に心が沈むのを感じた。
「リーシャ……! 俺をひとりにするな、リーシャ……!」
父は、母を失ったことを認められずに弱りきっている。
ならば今、母に生き写しだという私を見るのは心の傷を抉るように辛いことだろう。
けれど離れようとは思わなかった。
「置いて、いかないでくれ、リーシャ……っ」
娘に縋って泣いている父から、どうして離れられるだろう。
それに、せっかくの“二回目”なのだ。
もう遠慮などしない。
誰の訪れもない離宮で、ただ息をひそめて生きるなんて嫌だ。
帰れと言われても、帰るものか。
……と、決意していたのだけれど。
「これはアマーリエ。俺の猫だ。これから食事を運ぶ時は、アマーリエが食べられそうなものも共に用意せよ」
父も私を手放すつもりはなかったようで、“巻き戻り”の日から自在に姿を変えられるようになった私を、昼間は猫の姿で手元に置いて飼うようになった。
異国の踊り子が産んだ皇女アマーリエではなく、銀色の毛並みに紫の眼の猫アマーリエとして。
食事の時はテーブルの上に置いて、自分の分を食べながら私が食べられそうなものを小皿に取り分けてくれる。
謁見の間では玉座についたその膝の上に私を置き、片手に抱きながら執務室へ戻ると、また膝におろしてそのまま書類をさばいていく。
私はたいてい父の膝の上でのんびりと眠り、大きな手で時折撫でられるのにぱたりと尻尾を揺らしたり、喉をくすぐられてゴロゴロと鳴いたり、鼻先をつついてくる指をカプリと甘噛みしてザラザラの舌でぺろりと舐めたりした。
父はそうした小さな触れ合いに、いまだどこか虚ろな眼差しをしながら、ほんのすこし口角をゆるめる。
穏やかに続いていく時間の中で、ともに食事をとり、夜は人の姿に戻る私を抱いて眠るうち、父はゆっくりと体調を戻していった。
頬ずりされると無精ひげがチクチクして痛い、と言えば、毎日ちゃんと手入れしてくれるようにもなった。
それでも、そう簡単に愛する人を失った苦しみは癒えない。
「リーシャ……っ! いやだっ、いくな、リーシャ……!」
夜中にひどくうなされるのをゆさぶって起こし、混乱した目で私が誰か分からず呆然とする父のために、私は月明かりの下、母から習った舞を披露した。
まだ小さな体ではつたないステップしか踏めないけれど、乱れた呼吸がなかなか静まらず、母を失う恐怖で魔力の暴走を起こしかけている父は食い入るような目で舞を見つめ、ゆっくりと荒ぶる気を落ち着けていく。
何度もそういう夜を過ごしているうちに、本当はこれは左の足首に鈴付きのアンクレットをして舞うものなのだ、と母に聞いた話を伝えると、父はすぐに繊細な細工の施された美しいアンクレットをくれた。
鈴付きのアンクレットは、変化のたびに父が身につけさせてくれる。
昼、猫の姿になった時は首に。
夜、人の姿になった時は左の足首に。
面倒がるふうもなく、細かい金具を器用に留めて、父はそれを着けた私を確かめるように何度も撫でた。
「リーシャ、来い」
父は時々、母の名で私を呼ぶ。
執務室の窓辺で今にも雨が降り出しそうな空を眺めていた私は、返事の代わりにぶらりと尻尾を振って、片手を差し出す父の元へ歩いていく。
「陛下、その猫の名は『アマーリエ』だったのではありませんか?」
父より年嵩の宰相が、憂い顔で不意にそう言ったのは、私たちの奇妙な生活が始まって三ヵ月ほど過ぎた頃のことだ。
その猫が皇女であることを隠す気もない父は、私を飼い始めるのと同時に離宮から私の身の回りの荷物を運ばせ、自室に収めさせたのだから、宰相がそれを知らないはずがない。
おそらく父がどれくらいおかしくなっているのかはかりかねて、様子見の質問をしたのだろう。
父は私を片手にすくいあげて腕の中へおさめると、煩わしそうに眉を顰めて答えた。
「名など、どちらでもかまわぬ。これは俺のものだ。余計な口出しをするでない」
「しかし、そうは仰られましても」
「くどい」
穏やかな手つきで私の背を撫でていた父が、その手を止めて宰相を見た。
意図したものか無意識か、普段は完璧に抑えられている膨大な魔力がほんのわずかに漏れて、重力が増したかのような威圧感を放っている。
宰相か、近衛兵か、侍従か。
その場にいた誰かの喉がひゅっと鳴る。
いきなり極度の重圧がかけられたその場で、唯一泰然とした皇帝が言った。
「これは俺の手が届かぬよう置いた離宮を己の意思で抜け出し、みずからここへ来たのだ。離宮でおとなしくしておれば触れずにおいたものを、自分から無にした。もう俺が耐える理由など無いし、手放してやる気もない」
あの離宮には、そんな意味があったのか。
予想外の言葉に、私は思わず父の腕の中で目を見開いたが、とくにそれ以上の感想は無かった。
ぱちぱちと瞬きをしてから、ぱたりと尻尾を振って父の腕を軽く叩く。
すると父はまた完璧に魔力を抑え、私の背を撫でながら執務室を後にした。
その日の夜。
眠る気になれぬ、という父の命で、左の足首に鈴付きのアンクレットをはめて舞った私は、それが終わったところでぽつりと聞かれた。
「リーシャと呼ばれるのは、嫌か」
寝台に座った父は肩を落としていて、いつもよりすこし小さく見えた。
私はいつも通りの素足でその傍まで歩いて行って、すとんと座る。
「いいえ」
床から父を見上げて、にこりと笑った。
「もう誰も口にしないお母様の名前が聞けるのは、お父様が呼んでくれた時だけですもの。それに、お父様がお母様を忘れないでいるのが、私は嬉しゅうございます。
……でも、ほんの時折で、いいのです」
父の足に頬を寄せて身をもたせかけながら、静かに目を伏せた。
そっと、言葉を続ける。
「私が、アマーリエであることを、思い出してくださいませ」
頭上でかすかに、息をのんだ気配。
長い沈黙。
深い、ため息。
「……アマーリエ」
慈しみと悲しみと懇願と、あとは何だろう。
理解できそうな感情と、私ではとうてい分からない感情が入り混じったその声で、父が私の名を呼んだ。
促すようなそれに顔をあげれば、薄暗い部屋の中で奇妙に光る黄金の瞳のその強さに、どんな強固な檻や鎖もかなわないほど深く囚われた気がした。
「アマーリエ」
そしてそっと触れてくる大きな手を、私が拒むことはない。
皇宮殿が革命軍の手に落ち、父が死ぬまであと十一年。
私にその歴史を変えられるほどの力があるとは思えないし、離宮で隔離されて育ったからどういう経緯でそうなったのかも知らない。
だから時を遡ったといっても、私にはとくに何の野望もない。
望むことはただ一つ。
私は父を、愛したい。
この世でたった一人、母を亡くした悲しみをともに抱く、その人を。
そんな私は、だからまったく予想していなかった。
母を失った悲しみを、母の生き写しである私によって癒され続けた皇帝が暴君とならずに済み、その結果、革命軍が立つこともなくなるとは。
そしてすべての終わりが来ると恐れ続けた十一年が過ぎても何も起こらず、あれ? と内心で首を傾げている私をよそに、帝国皇帝の愛娘を誰が嫁に迎えるのか、水面下で熾烈な戦いが繰り広げられていたことに。
私は何も気付かず、十二年目の今も父に呼ばれる。
「アマーリエ、おいで」
ぶらりと尻尾を振って、大きな手に身を預け、いつも通りその膝の上で丸まって瞼を閉じた。
何も起こらないのは不思議だったけれど、とくに問題はないから、まあいいか、と思う。
そうして今日も、私は父を愛している。