命短し恋せよナナキ
「良いお湯だったわね」
「はい、さすがはマーキュリー家ですね。素敵な大浴場でした」
「ナナキ? さっきから黙っているけれどどうかしたの?」
「いいえ、どうも致しませんよミーア様」
楽しい時間とはあっという間に過ぎるもので、食事を終えた頃には日もすっかりと傾いていた。夏の暑さを存分に払った本日の締めくくりはマーキュリー家が誇る大浴場。例の如くシエル様は遠慮されたのでミーア様、フィオさんと一緒に入浴する運びとなったのである。くそったれめ。
案の定、ナナキは身体的な理由でとても窮屈な思いをすることとなったのである。広い大浴場である筈なのに、脅威の胸囲に圧殺されたのだから笑えない。ミーア様もフィオさんもナナキとそう年齢は離れていない筈なのにこれはいったいどういうことだ。
意味のないことであるとわかっていても、やはり諦めきれない想いがそこに在るのだ。ミーア様とフィオさんのそれを見る。それは豊満であった。そう、何度見直したところで事実は揺るがない。それでもナナキは願いを込めてしまうのだ。比べてみて、そんなに差はないなと思いたいのだ。
再確認、下を見る。
「……」
ストーンと、こうね。落ちるわけだよ、視線がね。遮るものは無い。
うん? どうかしただろうか友よ。ふむ、stone? ハハハ、なるほど。つまり胸がないから石のように固いと、そう言いたいわけだ。ストーンと落ちるナナキの視線にも合わせてくるなんて友よ、素敵なジョークじゃないか。君はとても愉快な神様だね。楽しませてくれたお礼にぶっ殺してやるよ。
「さすがに今日は疲れたわね」
「そうですね、でも楽しかったです」
「あら珍しい、フィオが素直だなんて」
「べ、別に珍しくはないですよ……?」
楽しそうに談笑する御二人の後ろで徐々に気配を消していく。フェードアウトナナキ。こっそりと別行動、宛がわれた部屋へ。さあ、覚悟はよろしいか神話の雷イルヴェング=ナズグルよ。友は不敵な笑みを浮かべていた。張っ倒す。
お風呂上りに友と殴り合い。この強かな友人は自分の非を認めずに殴り返してくるのだから正に神様。その尊大不遜、このナナキが叩き折ってくれる。マウントを取ってワンツーワンツー。君が泣いて謝るまで殴るのを止めない。これは制裁である、粛々と受け入れよ。ジャッジメントナナキ。
「――――ごッ!?」
思わぬカウンター。これにて痛み分け。
「ふんすッ‼」
とでも言うと思ったかこのポンコツ神様ッ! 全力で兜を殴る。へこめ、へこんでしまえ! へこんで格好悪くなれ! ボコボコの甲冑で笑われろ! ナナキの胸を笑った奴は敵だ、痛み分けで済ませるものか。思い知れ、天地揺るがすナナキの憤怒。
悲しきかな、現代で在っても人と神は殴り合うのである。いや、これは決して悲しいことではないのだ。その証明としてナナキを見てほしい。多分、笑っていると思うのだ。友も笑っている。それはそうだ、ナナキと友は親友なのだから。
どうだ神様、人間も強くなったろう。ナナキには君が見える。出会えば殺し合う神様同士の日々を超えて君はナナキと出会った。もう一度言うぞ。どうだ神様、寂しくないだろう。こうやって喧嘩できる日々に感謝しろ。そんでもってナナキにも感謝しろ。ナナキも君に感謝してやる。
なんてことはない、いつものじゃれ合い。
夏のバカンスで、友との思い出もまた一つ。
◇
ひとしきりに友とのじゃれ合いを楽しんだあとは就寝の準備。
ナナキは従者であるのに今回はお客様扱い。家事の手伝いは一切任せてもらえずにこうして自室で友とぽこぽこするくらいには暇を持て余している。であれば寝てしまおう。取れるときに睡眠を取る、これは理想である。
ふかふかの寝具へとダイブすれば身体が跳ねた。楽しい。
今日は色々と失態を犯してしまったけれど、良い一日で在ったと思える。主が居て、ミーア様もシエル様も居て、フィオさんも居る。今回は御留守番となってしまったけれど次はリドルフ執事長も一緒に来れると良い。それにアキハさんもだ。ヴィルモット・アルカーンはまあ、どちらでも良いかな。
「おやすみなさい」
母に、友に。
今日も素敵な一日でありました、お母様。
「ナナさん? 遅くにすみません、シエルです。起きていらっしゃいますか?」
素敵な一日はもう少しだけ続くようです、お母様。
控えめなノックに声量でお尋ね頂いたのはシエル様のようで、すぐさまに寝具から飛び出して着替えを済ませた。今まさに寝入ろうとしていたと知れれば、心の美しい彼女は自責の念を覚えてしまうだろう。ということでメイド服を装備。ただいま戻りました、ナナキです。
「こんばんは、シエル様。どうなさいましたか?」
「今日はとても綺麗な星空が出ているんです。せっかくなので一緒にお茶でもどうですか?」
夜のお茶会、その招待状は恐れ多くもご本人から。
「……それでは私が準備を致しましょう」
「大丈夫ですよ、ナナさん。実はもう準備をしてもらってあるのです。断られてしまったら星空を独り占めするつもりでしたの」
「それはいけませんね。私にも分けて頂かないと」
上品に笑うシエル様に雰囲気に合わせて軽口を叩いて返した。わざわざ準備まで整えて頂いたのだ、彼女の話はその場で聞くべきだろう。人の持つ気配に敏感なナナキにはわかってしまう。シエル様はナナキに対して何かの覚悟を持っている。良いよ、ナナキはそれを受けよう。
ペンションのテラスに出れば、頭上には星の海。
お母様は言っていた、世界は素敵なのだと。そうか、きっとお母様もこの星の海をご覧になったのだろう。ナナキの知らない景色を、光景をその目で見たのだろう。ナナキも歩みだしました、お母様。やはりお母様は正しいのだと、万感の思いであります。
あの日、世界に失望して世界を追われたあの日から今日まで歩んできたのだと。
「――――ゼアン様は本当に素敵な方です」
テラスに用意されたテーブルに着けば、シエル様の給仕が淹れた紅茶に口を付ける間もなくシエル様は切り出した。口は挟まない、その覚悟を存分にナナキへと語るが良いだろう。今はきっと互いに顔を見るべきではない。だから見上げた。綺麗な星空を。
「今やアルフレイド家は上流貴族と言っても過言ではありません。それはつまり、もうマーキュリー家の恩着せがましい婚約などは必要が無いということです」
彼女は語りだした。その心の内を開くにあたって、自己を庇う言葉は一切見受けられない。卑下しているわけでもなく、彼女にとっての事実を伝えているのだろう。
「私とゼアン様の婚約は、私のお父様がゼアン様のお父様に大恩があったために申し出たものなのです。もともと御家の付き合いはありましたから、私はゼアン様が素敵な方だと知っていたのです。だから婚約が決まった時はとても嬉しかった」
気持ちが伝わってくる。それは彼女が生んだ熱で、ナナキのものではない。それなのに良く伝わってくるのはきっと、彼女の心が美しいからだと思う。その声音には敵対心が感じられない。きっとシエル様は、ナナキと同じ価値観を持っている。そう思った。
「でもやっぱり、婚約者ではダメなんです」
星空から目を下ろせば、やはりシエル様は微笑んでいた。その瞳には怒りも見えない、憎しみも見えない。そこにはただ、彼女にとっての”敵“が映り込んでいた。ナナキの気持ちはまだ行動に起こすほどの大きさに育ってはいない。それでも、こちらの関係は存外に早く進んでしまうようだ。
「知らなかった。あんな風に笑うゼアン様を、知らなかったんです」
脳裏に思い浮かぶのは主の無邪気な笑顔。
「私が先に婚約していたと、そう主張したいのではないのです。そんなものにはまるで意味がないのです。婚約者であるから、だからなんだって言うんですか。好きな人だから……だから女性として選ばれなければ何の意味もないんです……!」
瞳には覚悟が在った。ナナキはそれを拝聴しよう。
「――――逃げないでください」
確と、ナナキはそれを聞いた。
「立場に逃げないでください……常識に逃げないでください……どうか、どうか私と戦って頂きたいのです」
それは、これ以上にない程に明確なる宣戦布告。彼女、シエル・マーキュリーの誇りを懸けた尊いものであった。ああ、なんて美しい人なのだろう。
「私は婚約者としてゼアン様と結婚したいのではないのです。シエル・マーキュリーとして、一人の女性としてゼアン様に選んで頂きたいのです! ですから戦ってください。ナナさんは従者で私は婚約者、きっとナナさんが悪く言われてしまうのでしょう。それでも戦ってください。私はゼアン様が好きなのです!」
立場に逃げるな。そうだ、ナナキは従者だ。
常識に逃げるな。婚約者のいる主に手を出せばナナキは悪なのだろう。
それでもと、彼女はナナキと戦うことを願った。有利な立場も婚約という手形さえもを投げ捨てて、女性として戦おうとシエル様は言っている。彼女の欲しい物は婚約者という立場では手に入らない物だった。一切の所有権を主張することなく、彼女は戦いを選んだのだ。
純粋な力で見れば到底ナナキには及ばない一人の女性。彼女は正面から、正々堂々とこのナナキに挑んだ。これを強者と言わずしてなんと言えばいいのだろう。そうか、やはりナナキとシエル様は友達にはなれなかったのだと思う。
「お受け致します、シエル様。これは決闘、加減は致しませんよ」
「それを望んでいるのです」
敬意を以て、ナナキはそれを受託する。
これは確信とも同義である。この決闘を受理するということは、その想いが真であることを確定させるということだ。もうこれで誤魔化すことはできなくなった。追い込まれるようなことがあれば従者の立場も捨てることになるだろう。
それなら報告をしよう。これは大事なことだから。誇り高き彼女のこと、今日という素敵な一日のことを。
――――敬愛なるお母様、ナナキは恋を知りました。




