月下に出会う君をヘッドバット
――――幸せの蒼い鳥に誘われて、なんて。
そんな詩的な表現ができるくらいには、心に余裕ができた。
まだ見ぬ愛せる世界を探し、ナナキは今日も旅をしていますお母様。コトコトとゆるりと進む荷車に揺られ、美しい空を見上げています。ああ、空だけならこの世界は美しい。発展する現代において、馬が引く荷車に揺られるという情緒はナナキの心を癒します。頑張れお馬さん。
あれから三日、どうやら帝国からの追手は今のところかかってはいないようです。
ともすれば、この穏やかな時間が続くまでの間、ご報告を致したいのです。敬愛するお母様が亡くなってからの私を。お母様が消えてしまった世界には幸せはありませんでした。苦難だけがありました。とても難儀致しました。ですから少しだけでもいいのです、どうかナナキを褒めてください。
お母様の言うように、ナナキは特別だったのです。
十歳の頃、神様に出会いました。驚いてください、彼の有名な神話の雷、イルヴェング=ナズグルです。神界戦争が終わり千年と聞きますが、神が人を支配していた時代は終わり、人が神を支配する時代です。それはそれは熾烈な戦いでありました。
笑ってください、私はただの一度も祈らなかったのです。人は神に祈るものなのに。どうしても思ってしまうのです、都合が良いと。必要な時だけ祈るそれは、果たして誠意なのでしょうか。私が神様ならそんな人は踏みつぶしてしまうかもしれません、天誅。
死闘の果てにイルヴェング=ナズグルを討ち、私たちは友と呼べる間柄になりました。お喜びくださいお母様、この不肖の娘にも生涯の友ができたのです。やはり私は特別なのだとお母様の言葉を思い出したものです。けれど、特別なのは私だけではありませんでした。
そう、先日袂を分かつこととなった五帝の皆様です。彼らもまた、神を使役する超越者だったのです。大陸最強の五人、その栄誉ある席にこの身が選ばれたことを誇らしく思ったものです。その大恩に報いるべく、ナナキは帝都のために尽くしました。
けれど、たった一言の予言でナナキは帝国の敵となってしまったのです。
――――私は、世界を滅ぼすのだそうです。
◇
遥か昔の街並みが残る貴族の都、フレイライン。
人が空を飛べるこの時代に馬車が行き交うこの街に、私が愛せる世界はあるだろうか。初めまして紳士淑女の皆々様、ナナキです。諸子の身の上ではございますが、お邪魔致します。
「どうもありがとうございました」
「なに、助け合いだよ。お嬢さんは何をしにフレイラインに?」
「幸せを追って参りました」
「ハハハ、掴めるといいね」
人当たりの良い素敵な笑顔だった。だから私も笑顔で別れた。ありがとう小父様、ありがとうお馬さん。おかげ様で至福の時間でありました、いつかこの御恩を返せる日が来ることを祈ります。どうかその日までお元気で。
「さて」
今のナナキはただのナナキ。愛する世界を探すにしても、先立つものがなければ旅には出られない。五帝との死闘があったために私の財産はすべて帝都の自宅に置いたまま。このまま無為に過ごせば今日は綺麗な月夜を見上げながら就寝しなければならないだろう。
それもいい。お母様が亡くなってからはしばらく大自然の中で必死に生き抜いたものだ。また大地に触れるのも悪くない。
けれどナナキももう大人と呼ぶに差し支えないくらいの年齢になっている。大人であるのならば、大人の行動をとらなければいけない。差し当たり、今日を凌げる程度の日銭を稼ごう。ここは貴族の都、巨万の富が昼夜を問わずに動き続けていると聞く。
職の一つや二つ、そこいらに落ちているのだろう。ご心配をなさらないでください、お母様。この程度のことは苦難ですらないのです。どうか大船に乗ったつもりでこのナナキを見守っていてください。いえ、泥船であってもいいのです、船が沈んだのなら泳げばいいのですから。
けれど、気付かされたのです。
ナナキ泳げない。
「月が綺麗ですね」
気付けば夜の帳が下りていた。こんばんは御月様、ナナキです。ご機嫌はいかが。
結局は暗がりの路地で、薄布を敷いた冷たいコンクリートの上に寝転がることと相成りました。大人と呼ぶに差し支えないと申し上げましたが、世間から見ればナナキはまだ子供のようです。すべて門前払いにあってしまいました。
一つだけ採用してくれるという職もあるにはあったのですが、娼館でした。ナナキは誇り高きお母様の血統を守り抜くために路地のコンクリートを選びます。できれば褒めてください。でもたまには叱ってください。今日はお母様の夢を見ようと思います、温もりが欲しいから。
それでは、おやすみなさいませ。お母様。
「へへっ、やっぱり昼のお嬢ちゃんだぜ」
「すげえ上玉じゃねえか、今夜は良い夜になりそうだぜ」
ナナキ早起き、褒めてくださいお母様。
貴族の都といえども、不貞の輩はどこにでもいる。ああ、せっかく新しい日々を満喫していたのにこれでは台無しだ。こんな世界は愛したくない、人は人に優しくあるべきだ。それともこの二人は冷たい路地で眠るナナキに手を差し伸べてくれるのだろうか。
「やあお嬢ちゃん、突然で悪いけど俺たちと遊ぼうや」
「忘れられない夜になるぜえ」
差し伸べられたのは下衆の手だった。切り落としちゃうぞ。
イルヴェング=ナズグルが呼べ呼べ俺を呼べと猛っている。けれども友よ、この二人は君が手を下すまでもない。どうかナナキを信じて任せてほしい。というか君は人間に厳しすぎる節がある。もう少し慈愛の心を持ってみると良い。
これでも元五帝、相手にとって不足がありすぎる。何だその素人丸出しの歩みは。少しばかり蹴り飛ばしてやれば懲りるだろうか。あと一歩でも踏み出せば二人の顔はブサイクになる。元がそれでは取返しがつかないかもしれないが、どうかナナキを恨まないでほしい。
「へへへ……――――へ?」
けれど、彼らがもう一歩を踏み出すことはなかった。
「――――ひっ!?」
「ば、ばけものッ……‼」
雷光が夜空を照らした。遅れてやってくる轟音は世界を揺らした。
なんてことをするんだ友よ、ナナキを信じてと言ったのに。なに、当ててない? 慈愛の心? わかっちゃいないな、イルヴェング=ナズグル、君は何もわかっちゃいない。君の慈愛で私がヤバイ。
御覧なさい友よ。
今の激しい閃光と雷鳴でこの美しい夜の世界に人工の光が灯っていくだろう。これはね、こんな夜中に何事だオラァという人間の怒りそのものだ。そして覚えておいでだろうか、私は一応追われる身だということを。フレイラインに雷が落ちた、聞く人が聞けばナナキだとわかるだろう。
それに私は明日も諦観せずに日銭を稼ぐつもりでいるんだ。つまりは、この街の人間の怒りを買うわけにはいかない。夜中に雷を落とした私を誰が雇ってくれるというのか、友よ反省してどうぞ。
ああ、なんたることだろう。この特別なナナキが、お母様の娘であるナナキが先ほどの二人同様に尻尾を巻いてその場から逃げ出すことになろうとは。人が来る前にこの路地を脱し、更なる暗がりへ。かつての大自然での仇敵、ネズミをリスペクト。
全速前進、面舵いっぱい。
――――路地を全速力で駆け抜け右に曲がれば、そこに王子様が居た。
月夜に照らされた輝く黄金の髪に蒼星石の瞳。路地を曲がって王子様に出会うなんて、もしかしたらこの世界は物語なのかもしれない。驚きの表情を浮かべる王子様、咄嗟のできごとにも関わらず、それだけの所作にも気品がある。
けれどごめんなさい、王子様。
ナナキは急には止まれない。
「ぐおッ!?」
許して。




