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雷帝のメイド  作者: なこはる
一章-婚約者と帝都の因縁-
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乙女の本能

「ああ、ナナさん! ありがとうございます!」


 ナナキべっちゃべちゃ。


「昨日ゼアン様からお聞きしました。私の大事な人を救ってくれてありがとうございます!」


 汗まみれのシエル様に包まれてナナキはべちゃべちゃになった。もちろん避けることもできたのだけど、既に満身創痍のシエル様はナナキが受け止めなければ大地にヘッドバットしていた。ナナキ以外の人間は大地にヘッドバットしてはいけない。最悪死んでしまうから。


 感極まったシエル様から解放されたのはおよそ三十秒程経ってからだった。ナナキの肺活量でなかったら窒息死していた恐れがある。とりあえず屋敷に戻ったのならば迅速に着替えよう。シャワーも必要だ。今のナナキはきっととんでもないことになっている。


 良く鼻の利くナナキにとっては臭いもなかなかに厳しいものがある。僅かに香る香水も既に虫の息。どころか猛烈な汗の臭いと混じってキメラ的な臭いがする。正直に言おう。ナナキは今、倒れそうだ。大自然では役に立った嗅覚は文明生活では何かと不便なことが多い。


「申し訳ありませんシエル様。状況がよく理解できていません」

「ですから全てお聞きしたのです! アルカーン伯との決闘のことも!」


 なるほど、その件でしたか。


 けれどそれは勘違いというもの。ナナキは主に対してこうするべきだ、ああするべきだと口にした覚えは一切ない。全ては主が勇を抱き誇りを持ってその一歩を踏み出したからこそ成った道。であれば称賛されるべきはナナキではなく我が主。


 なのだけど、感極まっているシエル様にそれを説明するのは中々に骨が折れそうだ。呼び方がナナさんのままということはナナキの正体までは話していない様子。さて、どうしたものか。


「続きは屋敷に戻ってからにしたらどうだシエル。あまり遅くなっても御父上が心配するだろう」

「あ、あらいけない。つい感極まってしまって……ごめんなさいね、ナナさん」


 良き主、感謝致します。


「いえ、お気になさらないでくださいシエル様」


 ナナキはシエル様の美しい心が好きだ。だから今できる最高の笑顔をお届けしたい。参考にするのならばやはりお母様だろう。美しく、包容力のあるあの素敵な笑顔。ナナキの容姿は幸いお母様にそっくりだ。今ここに奇跡の表情を。追憶のナナキスマイル。敬愛なるお母様、ナナキです。


「ナナさんの可愛らしい笑顔を見ていると癒されますね。素敵な笑顔だと思います」

「……ありがとうございます」


 お母様の高みにはまだまだ届かないようです。不出来な娘を叱ってくださいお母様。


「では参りましょうゼアン様、ナナさん」


 シエル様が振り返ったタイミングで主を見た。視線が合えば主は静かに頷いた。かしこまりました、我が主。


「申し訳ありませんシエル様。実は本日も主より用を申し付けられておりますので」

「今日もですか? ……あら? お待ちになってナナさん。確か昨日は私たちよりも早くお屋敷へ戻っていませんでした?」


 おっと、困ったぞ。


 主の紳士的な機転によって昨日は馬車のカーテンが閉められていた。だからナナキが馬車の重量問題と奮闘していたことまではわからないだろう。しかしシエル様は良いところに目を付けてきた。何か良い申し開きはあるだろうか。


「簡単だシエル。アルカーンの雇った騎士に決闘で勝つメイドだぞ。魔法くらい使える」

「あら、言われてみればそうですね」


 本当ですね。なんで気付かなかったのだろう。


 ナナキは我が主にフォローされる情けないメイドだった。精進しよう。特別な人間であることを証明するために。心に誓って馬車の扉を開いて待機した。御二人が乗車するのを待ってから静かに閉じる。さて、本日もよろしくお願い致します、小父様。


 御者の小父様は背中越しに親指を立てていた。共に窮地を乗り越えたナナキと小父様の間には最早言葉は不要だった。戦友とは良いものです、お母様。



「粗相のない様にお願いしますね」

「肝に銘じます」


 シエル様達ての願いでお茶をお出しするのはナナキの役目となった。もっともお茶を用意したのはリドルフ執事長だ。ディナー前ということで御茶請けは少量、シエル様には物足りないかもしれない。恥をかかせないようにおかわりの提案はナナキからしよう。


 今は速さは必要ない。ゆっくりと優雅に中庭まで運ぶ。茜空の下で語り合う御二人の姿は正に貴族のものだった。少しだけ、いやかなり、片方だけサイズがおかしいかもしれないけど。


「お茶をお持ち致しました」

「あら、ありがとうございますナナさん」


 これはナナキの仕事なのだからお礼は必要ないのですよシエル様。でも気持ちだけは受け取っておこう。本当に気持ちの良い人だと思う。


「さあ、ナナさんもお座りになって」

「いえ、それは」


 どこの世界に主とその婚約者が語らう場に腰を下ろせる従者が居ると言うのか。好意は大変に有り難いがご遠慮させて頂こう。例え主の許しが降りてもナナキがその椅子に腰を下ろすことはない。申し訳ありません、シエル様。


「命令だ、座れナナ」


 許しじゃなくて命令が飛んできた。着席、粛々と。


 この命令に背いて主に恥をかかせるわけにはいかない。ここはナナキが恥知らずなメイドという汚名を被ってでも主の顔を立てるべきだとナナキは判断する。従者が主の命令に背くなどあってはならないのだ。


 しばしは御二人の他愛のない歓談が続いた。ナナキは置物と化すことにだけ集中した。動かざることナナキの如く。時折に飛んでくる話題には当たり障りのない相槌で済ませる。少しそっけないのかもしれないが、そもそも婚約者同士の歓談の中に身を置いてること自体が異常なのだ。


 慎ましく在ろう。


「それにしてもこんな素敵な従者にどこで出会ったのですか? ゼアン様」

「路地から飛び出てきたんだよ。死にかけた」

「まあ、ゼアン様ったら」


 素敵なジョークですね、とシエル様は笑った。ナナキは笑えなかった。でも主は笑っていた。その懐の深さには頭が下がる。


「そうだ、ナナさん」

「はい」


 どうやらまだナナキの話題は続くようだ。多少の居心地の悪さはあるけれど、メイドとしての務めを果たさなければいけない。弱音を吐くにはまだ早すぎる。何なりと仰って頂きたい。


「ナナさんさえ良ければお友達になりませんか?」

「――――――――大変に恐縮ですが……従者のこの身には過ぎた御言葉かと」

「そ、そうですよね。ナナさんにも立場というものがあるのに……申し訳ありません軽率でした」

「いえ、嬉しく思います。ありがとうございます、シエル様」


 間違ったことは言っていない、と思う。だけど、どうしてかシエル様のその申し出に胸がぐにゃぐにゃした。シエル様は大変に素敵な方だ。そんな方に友人にならないかと言われれば嬉しい筈なのに。何かが引っかかるような、いや、これは警戒? 何を?


 もしかして病気だろうか。ナナキは健康には自信があるのだけど。物心ついてからは病気に掛かったことはただの一度もない。帝都で質の悪い病気が流行した時もナナキだけは無事だった。医者にも掛かったことのないこのナナキが病気?


「ゼアン様、ディナーの準備が整いました」

「ああ、わかった。悪いシエル、先に行っててくれ。ナナに言い付けた用事の件で話がある」

「わかりました。では先に向かっていますね」


 医者に掛かった方がいいのだろうか。如何にナナキが特別な人間だと言っても完全ではない。もしも質の悪い病気であったら取返しのつかないことになるかもしれない。近いうちに主に休暇を申請しよう。近くの病院も調べておかないといけない。


「ナナキ」

「――――あ、はい。どうしました?」

「それはこっちの台詞だ。さっきのことなら気にしなくていいと思うぞ。従者として当たり前の回答だ」


 そうだ、あの時ナナキは間違っていない筈。それなのに、どうしてこんなにぐにゃぐにゃするのだろう。


「主はシエル様をどう思っているのですか?」


 気付けば口が動いていた。


「俺の婚約者で心の美しい人だよ」


 ナナキもそう思う。何故ナナキはこんなことを尋ねたのだろう。今のナナキは何かがおかしい。友よ、ナナキはどうしてしまったんだろう。友は何も答えずに静かに首を振っていた。


「だけど、まあ俺にも外見的な好みはある」

「口に出すことではありませんね、主」

「だな、反省する」


 主が柔らかく笑った。その優しい笑顔にナナキも釣られて笑ってしまう。


「さて、早く行かないとリドルフにどやされる」

「はい……あれ?」

「どうかしたか?」

「……いいえ、なんでもありません」

「そうか?」


 いつの間にか病気は治っていた。


 

一章 ー完ー

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