絶世の豚
「ゼアン様、少しよろしいですか」
「ああ」
あの日から我が主を取り巻く環境は一変した。教室に入れば挨拶があり、授業の合間にも話しかけられることが目に見えて増えた。その時に居なかったナナキにはわからないが、これまで主は長い間を耐えてきたのだと思う。
尋ねてみたい、今の気持ちを。
弱小と見下され続け、貶され続け、それでもと貴方は手を伸ばした。そして掴み、戦い、勝利した。この場所は主の誇りに見合いましたか。もしそうであるのなら、喜んで頂きたい。それは恥ではない、勝者の権利だ。喜んで頂けたのなら、ナナキは祝福を口にできるのに。
従者が一方的に主に対して祝福をしてはならない。それは良き従者の行いではない。ナナキにはわかってしまう。その蒼星石の瞳に宿る意志が。まだ上を目指されるのですね、誇り高き主。なればこそ、ここで祝福を口にして気の緩みを招くような真似はできない。
敬愛なるお母様、私の主は誇り高い御方になられました。私は支えになろうと思います。その道から外れてしまわないように。誇りを持つことは簡単ではありません。だからこそナナキは主を祝福したいのです。まだまだ従者としても未熟者です。
「ゼアン様、この間の当家との商談、ありがとうございました」
「こちらこそ助かった、ありがとう」
そう、誇りを持つことは簡単ではない。誰もが主のようにその一歩を踏み出せるとは限らない。主が強者となったその日から同級生たちは手のひらを返した。それが悪いこととは言わない。強者に寄り添うことは恥ではない。
だが彼らは今までの非礼を詫びていない。ならばそれは動物だ。
ヴィルモット・アルカーンの権力に屈し行った今までの非礼を先に詫びるべきだ。彼らにも守るべきものがあったのかもしれない、誇りを持つことができないタイミングだったのかもしれない。だからナナキはその行いを蔑みはしない。
だが、誇りを持つための一歩が、その機会が目の前にあるというのに踏み出せない彼らをナナキは認めない。尤も、これはナナキの感情だ。主にとって例えそれが上辺だけでのものであったとしても、目に見える味方が多いにこしたことはない。
ん、どうかしただろうか友よ。なに、顔が怖い? それはいけない。誇り高き主の従者であるナナキが険しい表情をしていては主の交友関係の構築に支障をきたす恐れがある。迅速に対処すべし。
世界に届け、ナナキスマイル。世界の皆さま、ナナキです。
「ぐ……ぎぎッ……俺を笑いやがってッ……‼」
謀ったな、友よ。
少し前まで多くの人間を侍らせていた転落の王は憤っていた。あの日に見せた愚かさはヴィルモット・アルカーンの本質を多くの人間に伝えてしまった。それだけの愚行を犯したにも拘わらず、次の日に彼は教室内で誰彼構わずに当たり散らした。否、我が主を除いた人間にだ。
貴族にとって決闘というものは特別らしい。ヴィルモット・アルカーンが主に手を出すことはなかった。けれどだからと言って当たり散らすようでは人が離れるのは必然だ。教室の中でただ孤独にあるその様に、ナナキは同情しない。そして油断もしない。
大自然で育ったナナキは知っている。追い詰められた獣の恐ろしさを。それは人間も然り、狂気を孕んだその瞳を侮りはしない。いつでも来ると良い、主の傍にはこのナナキが居る。そしてくれぐれも忘れないことだ。あの日君を守ってくれたあの誇り高き騎士はもう居ないことを。
あれだけの忠義を尽くしたというのに、次の日に登校してきたヴィルモット・アルカーンの傍に彼女の姿はなかった。どうか乗り越えてほしい、その苦難を。貴方は強い、それをどうか忘れないでほしい。祈ろう友よ、誰にも祈られなかった彼女のために。
誇り高き騎士に栄光在れ。
◇
「ゼアン様ー!」
――――あれはなんだ。
「…………っぁ」
声がでない。このナナキが、誇り高きナナキが動揺している? 違う、これは絶句だ。いったい何時以来だろうか、このナナキが絶句するのは。久しく無かった感情に鼓動が速まる。まずは落ち着いて、声を出そう。そして問おう。主の名を呼んでいるのだから。
「ぁ……主、あの女性は……」
出た。その調子だ、頑張れナナキ。頑張るナナキ。
「…………一応、俺の婚約者だ」
「…………っ」
また絶句する羽目になった。せっかく声が出たのになんてことをするのですか主。
少しの沈黙の後に答えた主を見れば、静かに目を閉じていた。つまり、あの校門の前でこちらに手を振っている女性は主の婚約者。だとすればここで立ち止まってお待たせするのは失礼にあたる。けれど主は目を閉じたまま動こうとはしない。
主の下校する時間に自ら出迎える、とても愛情のある方なのだろう。それは大変に良いことだとは思う。主の婚約者であるというのなら、ナナキは二人の仲を応援しなければいけない。だけどこれは――――
お、お母様、懺悔を聞いて頂けますか。
ナナキは従者として大変に未熟であるようです。今のナナキは誇り高き主の従者として相応しくありません。二人の仲を応援できないのです。それも極めて私的な理由です。お願い致します、叱ってください。厳しい御言葉を頂かなければ、ナナキは御二人の仲を応援できそうにないのです。
私の主はその心がそうであるように、見た目も大変に立派な方です。黄金の髪に蒼星石の瞳、その整った顔立ちを好まれる女性は多いと思うのです。贔屓目を抜きにしても、まるで王子様のような外見だとナナキは思っております。
であれば、そのお相手にはやはり相応の姿をナナキは求めたいのです。絶世の美女、とまでは申し上げませんが主の隣に立って輝くような存在であってほしいのです。もちろん、これがナナキの私情であることは重々に承知しております。
ですが、ですがお母様。
わ、わかっております。見た目で人を判断するようなことは致しません。ですがナナキにはこの女性が主の隣に並ぶところが想像できないのです。いえ、実際に並んで頂けたならきっと恐らく納得できるのかもしれません。嘘です、納得できる自信がありません。いっそのこと殴ってくださいお母様。
「ああ、ゼアン様ー!」
声だけでは正確に伝わらないのだと思います。恐縮ではございますがこのナナキが適切な表現をお伝えしようと思います。慣れていませんので御聞き苦しい点は多々あるかとは思いますが、ご容赦ください。それでは不肖ナナキ、全力でお送り致します。
「ああ、ゼアン様! 私です! 貴方のシエルです!」
どすん! どすん! ずがん! ……足音ですお母様。
「ああ、ようやくお会いできました! そのお顔をシエルに良く見せてください!」
フガー! フガー! フゴゴ! ……鼻息ですお母様。
「シエルの愛しい御方! 会いたかった!」
ニチャァァァ……笑顔ですお母様。
少しでも伝わったのでしょうか、ナナキの想いが。そして私は今顔がとても熱いです。心の中でとはいえ、このように子供みたいに効果音を付けたことが恥ずかしいのです。口に出していたら死んでいたかもしれません。それと爆笑している友を後で殴ろうと思います。
「久しぶりだなシエル。会えて嬉しいよ」
「私もです、ゼアン様!」
「そうだ、紹介しよう。うちの新しいメイドのナナ――――ナナだ」
主は今までに私を誰かに紹介したことがない。この身の上に配慮してくれているのだろう。ありがとうございます、良き主。だけど何故だろう、盾にされている気がする。いや、もちろん構わない。ナナキは主の従者なのだから。
「シエル・マーキュリーです。よろしくお願いしますね、ナナ・ナナさん」
ナナキの名前が大変なことになっています主。