えぐえぐと泣いた
歩は無音が好ましい。
姿勢は低く、限り低く。気配を殺し、静寂を征く。ナナキは知っている、人とは静寂の対極に位置する存在だ。この静寂の継続を願うのならば、人の歩みでは決して届かない。だけど私はナナキ、特別な存在。思い出すのは故郷の森、生き抜いた過酷な日々。生存の師、数々のハンターたちから学んだナナキの歩み。
刮目せよ。誇り高き四足歩行、パンサーナナキだ。
仄暗い廊下をこそこそと進む。窓の外はまだ暗い。これだけの早朝であれば目的の場所は手薄になっていることだろう。しかして油断は大敵。このまま静寂を保ち、己の存在を限りなく無に近づけたまま迅速に移動をするのだ。ここは勝手知ったるナナキの家、大きな邸宅ではあるけれど迷うことはない。
「……!」
ふと感じた気配に振り返れば、大きな双眸。友がナナキを見ていた。
やあやあ、おはよう友よ。そうとも、今日のナナキは特に早起きだ。うん、何だろうか。戦争? いいや違うよ、それとこれは何の関係もない。確かに新たな契約は結ばれて、明確な敵を得た。神々との戦いはきっと熾烈を極めるだろう。でもそこに必要なのは強さ、ただただ強く在れば良い。それなら何の不安もない、ナナキは大丈夫。
ではこんな早朝にこそこそと何をしているのかと。やれやれ友よ、神様である君が愚問を投げかけるとはいったいどういう了見だ。答えが知りたいのならこのナナキに続け。くれぐれも音や魔力を発生させてはいけないよ。ナナキとの約束だ。
首を傾げる友を引き連れ再びこそこそと進んだ。
ナナキは証明をしなければいけないのだ。どの分野においてもナナキという存在が特別である様を見せつけなければいけないのだ。覚えているだろうか友よ。昨日の朝食、その風景を。あの結果はナナキに相応しいものではない。
文明の人間には食に好き嫌いがあるのは百も承知だが、それを乗り越えてこそのナナキだ。さすがのナナキも理解した。どうやら文明の人間には故郷の味は馴染まないらしい。良いだろう、それならば文明の料理で勝負をしようではないか。ナナキとてこれまでの日々を無為に過ごしてきたわけではない。それを証明してみせよう。
「…………よしっ」
誰も居ない。
辿り着いた厨房は無人、どうやらノーマークな様子。そうとわかれば行動は迅速が望ましい、パンサーからヒューマンへとチェンジナナキ。夜目の効くナナキに灯りは不要、真っ先に向かうのは大きな冷蔵庫。扉を開けながらいつも頑張る冷蔵庫さんにご挨拶だ。どうも、ナナキです。朝早くから大変失礼致しますが食材を御譲り頂きたく。イフタムヤーシムシム。
扉を開けばそこには昨日と変わらず高級な食材の数々。ナナキが住んでいた頃にはまったく使わなかったのに、この冷蔵庫も偉くなったものだなと感心する次第だ。使われようと使われまいと、拗ねもせずに淡々と役割をこなす姿に称賛を。
「it's so cool.」
冷蔵庫だけに。
「…………」
ちらりと友を覗き見た。そっぽを向いていた。
ねえねえ、ちょっと聞いてよ友よ。今ナナキはとても面白いことを言ったよ。ねえ、ちょっと無視をしないで。もしかして聞いていなかったのかな。もう仕方ない、もう一度だけだよ。冷蔵庫はクールな奴だなって待ってどこへ行くの、ナナキの話は最後まで聞きなさい。
どうせつまらない? 決め付けは良くないな友よ。君の親友であるナナキの言葉が信じられないようではそれはまるで疑心暗鬼だ。いや、疑心ナナキだそれは。ほらね、また面白いことを言ってしまっだから待って、ナナキの話を聞いてっ! わかった! 何も言わないからその目は止めてっ!
立ち去ろうとする友の首に引っ付いて必死に阻止。どうやら今日の友はご機嫌ナナメな様子、余計なことは言わないでおこう。
それでは改めて冷蔵庫を物色。
やはりまず目に入るのはとても品質の良いお肉。しかし、どうやら昨日のようにお皿に大きなお肉を一枚では文明の料理としては認められないらしい。細かい基準がわからない以上、ナナキが取るべき方法は決まっている。リドルフ執事長が作っていた朝食を模倣すれば良いのだ。
差し当たってはベーコンエッグなどいかがだろう。それとサラダも必要だ。この二つはいつもセットで出てきていた。調理方法は大方予想が付く。まずは卵を目玉のように焼いて、ベーコンも焼く。そして野菜をお皿に乗せれば完成。復習よし、早速取り掛かるとしよう。
まずはベーコンエッグから始めよう。冷蔵庫から卵とベーコンを取り出してフライパンを用意する。たったのこれだけで準備完了、後はフライパンに卵を入れて焼いてしまえば良い。確かこうやってフライパンの縁で卵を――――
「…………」
友よ、その目はなんだ。
言い訳ではないけど、ナナキは子供の頃から卵はそのまま食べていたんだ。殻を割るという行為には慣れていない。失敗は誰にでも付き纏うもの、一度目くらいは大目に見るべきだろう。それが神様の器量と言うものではないのか友よ。
その目で確と見ていろ、ナナキの学習速度のおそろし――――
「…………」
少し強すぎた。もう少し力を弱めて叩き付ければ上手く割れ――――
「…………チッ」
うん? いやいや舌打ちなんてしてないよ。誇り高きナナキがそんな下品な真似をすると思うのか君は。とりあえずほら、口を開けて御覧なさい。ナナキからプレゼントがあるんだ。美味しいよ、ちょっと崩れてるだけで。はい、あーん。
よし、フライパンは綺麗になった。
気を取り直して作業を再開しよう。ナナキの見たところ、どうやらこの卵の強度はかなり弱い、軟弱な卵だ。従ってフライパンの縁に叩き付けるのではなく、こうして指で弱い圧力を掛ければ問題なく割れると思われぐちゃあっはっはっは、死ね。
「…………」
りょ、両手でやれば――――
もう魔法で割っ――――
クソがぶっ――――
◇
気付けば卵が消えていた。残ったものと言えばそう、友の冷ややかな視線と飛び散った残骸。
どうしよう友よ、卵が消えちゃった。
「……エッグいね?」
卵だけに。
「…………」
友も消えちゃった。




