彼女の影
「おお、エンビィ! こっちだ!」
「お久しぶりですイヴァール様。その後、調子はいかがですか」
「おお、腕はなんとかくっついたがな、歳もあってもう元のようには動かんな」
「……そうですか」
ナナキが帝都に来てから数ヵ月経った頃、私はイヴァール様のもとへと訪れた。帝都の英雄とまで謳われた氷帝はペンタゴンの中心、セントラルから離れ第六層の小さな家で隔離されたように暮らしていた。ナナキとの問題があるからとはいえ、英雄に対してあまりな扱いだった。ナナキとの戦闘を介した日から、その姿は日に日に弱々しくなっていく。
「イヴァール様、やはりもう少し良いところに移られてはいかがですか?」
「良い良い、老い先短いジジイに宛がうよりも未来ある若者に宛がってやれ、そういうのは。それよりもどうだナナキは、皇帝陛下のご期待に応えれそうか? あれだけの傑物はそうは居るまい、しっかりと面倒を見てやれよエンビィ!」
その人当たりの良い笑顔には強がりの素振りもなくて、どうしてかそれが悲しく思えた。イヴァール様は確かに老いた。でもそれは、だから死んでも良いということではない筈なのに。これまで帝都のために尽くしてきた彼はそれでも安息を求めることはなく、最後の在り方まで帝都のためになる道を選んだ。
私はこの人にいったい何を返すことができるのだろうと、そんな烏滸がましいことを考えていたのを覚えている。彼が望んでもいないそれを自己満足のためだけに考えていた。救う力もない癖に、偉そうなことばかりを思う私はきっと、酷く愚かなのだろうね。
「やはり言葉遣いがネックですね、それと常識の無さにも苦労しています」
「文明に触れずに生きてきた子だ、長い目で見てやれ。口頭で伝えたに過ぎないが、皇帝陛下はナナキの力に大変興味を持たれていたぞ」
「陛下に会わせるにはまだ不安ですね。最近は私の言うことをそれなりに聞いてくれますが、何でスイッチが入るかわかりません」
教育のおかげもあって、ナナキの言動にそれなりの常識が見え始めた頃だった。それでも、まだ唐突にスイッチが入る時がある。ナナキがその気になれば誰だって殺すことができる。そしてそれを止められる人間がこの帝都には居ない。これがどれだけ恐ろしいことかわかるだろうか。
「従来の五帝候補と違ってナナキは既に神を連れておる。文明での生活を知ったのならすぐにでも五帝継承の決闘を行えるだろう……。ナナキが人間の生活を知る僅かな間、このジジイも生き残るとしよう」
「前から気になっていたのですが、五帝候補が戦う神はどこから率いてくるのですか? 協力的な神が居るのは承知していますが、ハイエント=ヘリオスは好戦的でした。わざわざ人間の言うことを聞くような神には思えないのですが……」
私の近くでいつも佇む紅蓮の女神、黄金の大火ハイエント=ヘリオス。彼女と私の間に会話はない。恐らくはシルヴァやサリア、イヴァール様にライコウだってそれは同じだろう。私たちは神を下し、従えているのだ。神は私たちの命令に従う、それが超越者の常で在る筈だった。
けれどナナキとイルヴェング=ナズグルは違う。ふと疑問に思ったのはハイエント=ヘリオスと初めて戦った時のこと。どうしてこの子は帝都に、それも人と戦うために存在していたのだろう。
「昔な、ワシもまったく同じ疑問を持った。思い切って当時の陛下に尋ねてみたことがある」
「本当に思い切りましたね」
「ハッハッハ、若気の至りも捨てたものではなかろう」
如何に五帝と言えど、恐らくは敢えて情報を遮断しているであろう皇帝陛下に直接訪ねるなんて。若かった頃は破天荒な方だったと聞いていたけれど、どうやら本当のことらしかった。
「詳しくは聞けなかったのだが、どうにも皇家には人類の切り札となる存在が居るらしいのだ。ワシが五帝になるために戦ったこの相棒も、人の話を聞くような神ではない。現にこの歳まで一緒に戦ってきたが、遂に一度も言葉を交わすことはなかったわ。恐らくはその切り札に既に負かされて命令されていたのであろう」
「人類の切り札……」
「エンビィ、お前は現皇帝、アベルタ様の友人の話を聞いたことはあるか?」
「陛下の友人? いえ、存じ上げませんが……」
「そうか、もう十年くらい前の話だがら無理もないがな。粗暴な若い娘が宮殿に出入りしていると、十年くらい前に話題になったことがある。宮廷給仕の話だと陛下とはしょっちゅう言い争いをしていたそうだが、その実とても仲良さそうに笑っていたと聞いた」
「それが人類の切り札……? ですが、少なくとも私が五帝となってからはそんな話は聞いたこともないのですが……」
「噂でしかないがな、その娘は帝都を去ったらしい。皇帝陛下を裏切って、な……」
「裏切り……ですか」
「あくまで噂だ。それに本当に実在したのかもわからない娘の話、それだけのことだエンビィ」
「……はい」
長い時を生きたイヴァール様の言葉に私は素直に頷いた。きっと考えてもその答えを知ることはできない、偉大な先人が遠回しにそう教えてくれたから。
「ちと、疲れたの……。歳を取ると何をするにも疲れる、老いとは嫌なものだな……」
静かに目を閉じて、だんだんと小さくなる声でそう呟いたイヴァール様を見れば、すぐに寝入ってしまったようだった。私はきっと、この英雄を救うことはできない。そんな無力な私にできるのは、その尊いお身体にそっと上着を掛けることだけだった。
◇
セントラルへと戻る途中、イヴァール様のもとへ行くためにサリアにナナキの御守りを頼んだことへの報酬としてケーキを買っていった。崩壊したこの世界でもどうにか復元された人類の英知とも呼べる洋菓子、日の生産量が少なすぎて予約をしないとまず買えない幻の一品。五帝と言うだけでこれを即座に手に入れることができるというの、帝都ならではの仕組みだ。
この帝都の掟は才能こそが絶対、その頂点に立つ五帝はあらゆる場所において皇帝陛下の次に優先される。それを不公平と謳うような人間は居なくて、誰もが才能を持っている自分自身を高めようとこの帝都で生きている。それでも、ナナキに言わせればこの帝都は歪なんだそうだ。
大自然で生きてきたあの子の考え方は、時々わからなくなる。あの子には正しいとか間違っているとか、そういうことは関係がないように思う。だから強い、だから怖いのだ。
「っ」
ふと、背後から小さな衝撃を受けた。振り返らなくてもわかる程度には、ナナキとの時間を過ごしたのだなとその時に実感した。
「食い物! 食い物持ってるな!」
「食い物じゃなくて食べ物」
「食べ物!」
「よろしい」
ケーキの入った箱に頭を近づけて鼻を鳴らす姿は正に野生の名残り、これだけは何度言っても治らない。初めて見るものは必ず鼻で確認しようとする。これもいつかは治さないといけないのだと、まだまだ長い道のりに肩を竦めたものだ。
サリアはいったいどうしたのかとも思ったけれど、どうせナナキが文字通り光速で移動してきたのだろうという結論に至った。漂う甘い香りに興奮するナナキが部屋まで待てる筈もなく、少し多めに買ったケーキのうちの一つを消耗せざるを得なかった。
「ほら、あーん」
「がうッ」
木製のフォークが噛み千切られた。
「……まずっ!」
そりゃフォークと一緒に食べればね。