伝説が始まった気がする
――――拝啓、お母様。
あの日のことを覚えておいででしょうか。そう、私たち親子が別れることとなったあの日です。生を終えるその最後まで泣きじゃくっていたナナキにさぞお困りになったことでしょう。ですがナナキは謝りません。娘が母との別れに涙を流すのは自然なことだと思うのです。
それは余りに早すぎました。ナナキにはまだお母様が必要だったのです。
幼かったナナキにはわかりませんでしたが、お母様は己の死期を悟っていたのでしょう。ある日から突然ナナキに対し厳しくなったことは今でも覚えております。お母様から頂いた愛情は覚えております。さぞや苦心なされたのでしょう。
厳しくして頂きありがとうございます。叱って頂きありがとうございます。愛情がほしいがためにそれでも泣きながら甘える私を突き放してくれてありがとうございます。悲しい思いは致しました。それでも、それが愛情であったのだと理解が遅れたことをお詫び致します。
あの時、ナナキは本当は起きていたのです。お母様が厳しくなった夜、眠る私を抱きしめながら何度も謝って頂きました。何故お母様が泣いているのか、震えているのか、そんなこともわからないほどにナナキは子供だったのです。
ですが、お母様が亡くなってから十年の月日が経ちました。ナナキはまだ子供ではありますが、もう泣いてばかりの娘ではありません。どうか御覧になって頂きたいのです、今のナナキを。そして誇って頂きたいのです、これが貴女の娘なのだと。
少しばかり前に泣き言を口にした愚かな娘ですが、二つご報告を申し上げたいのです。
最良の出会いがありました、お母様。出会いこそ奇縁と呼ぶに差し支えない状況ではあったのですが、今ナナキはその御方に仕えております。そしてこれが最良の出会いであったと、胸を張って言えるのです。
一言で言ってしまえば、不思議な御方です。悪い言い方をするのなら、酷くずれているのです。ですがやはり感じてしまうのです。彼に出会ってから、薄れていたお母様の温もりを思い出せるようになりました。いつまで経っても親離れできない娘です、笑ってください。
そして私は親不孝者でもありました。
帝都を離れたあの日、お母様が素敵だと仰ったその世界をナナキは否定しました。他の誰でもない、お母様の娘であるナナキが。さぞ失望されたことでしょう。さぞ嘆かれたことでしょう。しかし、お詫びすることすらも的外れなのだと思います。
ですから、今日はご報告を申し上げるのです。
お母様が今際の際にナナキと結んだ五つの約束を覚えていますか。今日はそのうちの一つの約束を果たすためにお話しさせて頂いているのです。
少し前、私の主には苦難がありました。
彼は弱者でした。ですがそれを恥と勘違いしない真の弱者です。出会いが偶然であったことは否定致しません。けれど、彼はその偶然を掴みました。その瞬間だけのたった一度を、彼は掴んで見せました。そして勇を抱き、誇りを胸に立ち上がることを選んだのです。
ナナキはその時はただ力であることに努めました。全ての決定を下したのは、我が主でありました。弱者の身で戦いを選択する勇気、それは容易く彼のいた世界を塗り替えました。我が主は今、新しい世界の下で強者として堂々とその道を進んでいます。
ナナキもその後を追おうと思うのです。従者として、お母様の娘としても。最早疑念はないのです、ナナキは確信を致しました。主が世界を変えた日、ナナキもまたその世界を変えたのです。私たちは主従となった。
今ここに、あの日の約束の一つを果たします。
ナナキは――――この世界を肯定致します。
早計であるのかもしれません、それでもナナキは立ち止まってはいられないのです。我が主は歩み始めました。従者が遅れを取るわけには参りません。まだ道半ば、いえ、歩み始めなのでしょう。この先、苦難にあったのだとしても、ナナキは世界を肯定し続けられる強い人間になります。
ですからどうか、娘の門出を祝って頂きたいのです。
それと、実はもう一つあるのですお母様。我儘な娘で申し訳ありません。ですが、泣いてばかりであの時言えなかった言葉を聞いて頂きたいのです。思い返せば想いを馳せるだけで、口にしたことが一度もなかったのです。
「――――愛しています、お母様」
主と共に、歩いていこうと思います。
お母様は蒼がお好きでしたね。私の主の瞳の色は蒼星石、お母様が愛した色です。そして御覧ください、この空を。今日は快晴です。その場所からでも見えるでしょうか。お母様の愛した蒼が、どこまでも続いています。
「遅れるぞ、ナナキ」
「申し訳ありません、ただいま参ります」
「空に何か珍しいものでもあったか?」
「いいえ、ただ――――」
行って参ります、お母様。
「――――空が蒼くて良かった」
序章-完-