国入るゼウス 五四や苟安 厳い張る
「テラストカ ハウストカ」
第一章 タイヨウ ノ テイコク〓
次にドアが開いたはすぐの事。今度はノックも無しときた。やはりデリカシーの欠片も無い。深見と紙谷の顔が三太の脳裏に浮かびました。とりあえずそっとしておくとか、時こそが心の傷を回復してくれる特効薬とか、聞いた事が無いのでしょうか。親友とはいえ人格を疑わざるおえない。これ以上、今の三太にどのような仕打ちをしようと言うのか。ならばもう一度、心の雄叫びをお見舞いしてやろうか。あぁ、お見舞いしてやれ。誰も文句は言わないさ。今度はやや先より好戦的なので、タオルケットからカミツキガメの様にニョキリと顔を出しましたが、そのスピードたるや荒野のプレーリードッグの如し。
三太の視線の先に立つは、深見でも紙谷でも無し、三太の妻である夏子、その人でありました。三太を見つめる夏子の眼差しは、決して温かくはありませんが冷たくも無く、仏でも無く鬼で無く、同情するでも無く見下すでも無い。その昔、「冷静と情熱の間」なんて言葉が巷をにぎわせた頃、冷静と情熱の間にある物とは何ぞやと考えた事がございましたが、それこそまさに今、三太を見つめる夏子のその目なのでございました。夏子の目は全てを語っておりましたが、何せ物言わぬ目。三太にとっては、夏子の無言のメッセージは難解であり、巨大なクエスチョンマークでも頭に浮かんでいたか、それとも少なからずや甘い言葉でも期待している顔でもしていたか、やむを得ず夏子は口を開いたのでございます。
夏子「私、知ってる。あなたが人目を忍んでどんな苦労をしてきたか、どんな屈辱を受け入れてきた事か。全部、この国を思って、国民を思っての事よね。」
三太は心中で叫んだのでございます。ありがとう、夏子、と。さすが自分の奥さん、さすが元ファーストレディ。出来た細君、嫌、これでは物足りぬ。自分より偉くなってしまうが、感謝と賛辞を込めてこう言わせていただこう。よっ、大統領!、と。やはり見ている人は見ているものだと、やはり世の中捨てたものじゃないと。そりゃ誰より近い側で、総理であった自分を見ていた人間だもの。不幸につぐ不幸が降りかかりネガティブシンキング街道まっしぐらになっていた三太にとっては、食中毒の最中に差し出された一杯の白湯の如く、傷付いた細胞一つ一つに染み渡る束の間の幸せを三太は感じておりました。…ん!?束の間?それは、「今だから言わせてもらうわね。」と言う前置きから始まったのでございます。
夏子「総理大臣になっただけでも、あなたは大きな偉業を成し遂げたけど、私、あなたならもっと大きな偉業を成し遂げてくれるんじゃないかと期待してたの。」
大きな偉業ですと!?それはアレでしょうか、あの四つの島を一気に返してもらうとか、それともアッチの方の島の件とか、はたまたアソコにある基地を全部追い出しちゃうとか…。無理!無理!無理!古今東西、秀才中の秀才たちが雁首揃えて、湯水の如く時間を費やしても解決出来ない問題を、自分の腹痛もろくすっぽ解決出来ない人間が解決出来る訳がございません。
夏子は、皆様も口にした事であろう老舗菓子会社の娘でありました。後に、務め先で三太に出会い、政治一家の海老家に嫁いだのも十数年前。夫が総理になろうとも、物怖じせず、晩の食卓で自分の意見を主張するような女性でございました。三太は、そんな夏子を決して疎ましく思った事なく、逆に羨望と尊敬の眼差しで見ておりました。ぶれずに自分と言う物をしっかりと持っている、夏子を。そんな目を持つ夏子だからこそ、今の発言はおかしいと、三太は感じたのでございます。自分を見くびっている、見当違いも甚だしい。まさか、自分の事を大偉業を成し遂げる政治家と見てくれていたのか?期待してくれていたのか?だとしたら、三太にとっては天にも昇る気持ちでありました。
夏子「私はね、歴史に残る仕事をして欲しかったと言ってるんじゃないの。」
えっ!?違うの!?三太の気持ちは天から地上へ引き戻されたと思ったら、そこを突き抜け地獄へフリーフォールでございます。
夏子「上手く言えないけど、朝起きたらお早うと挨拶するとか、困ってる人がいたら助けるとか。当たり前の事だけど、今、出来てる人は少ないでしょ。あなたなら、そんな国作りをしてくれるんじゃないかって。普通ってね、一番難しいと思うのよ。」
眼差しと同じく、夏子の口調もまた激しくもなく、責めるでもない、変調もせず、ただ淡々と、とうとうと落ち着き払ってこんな事言われますと、逆に堪えるものでございます。まず偉業がどうのこうの前に、当たり前、普通の事も出来てないじゃないかと…三太は、そう受け取りました。今の心境では、そうとしか受け取れなかったのも事実でございます。
悲しいかな、男と女の間には深くて長い何とかがあるなどと申された方がおられます。まさにその通り。夏子の真意は違うございました。二人がまだ会社勤めの同僚の頃、三太は決して仕事が出来る人間ではありませんでしたが、朝出勤すれば皆にちゃんとお早うと挨拶をし、ご飯を食べる時はいただきます、食べ終わればごちそうさま、返事はハイ、帰りは皆にお疲れ様さようならと声かける。これを毎日、欠かさずでございます。育ちが良かったせいか、強迫観念か。夏子が三太に好意を持ったのは、当たり前の事だけど、皆決して出来ていない事をやってのけていたからでありました。そんな三太を見ていると、夏子はイライラしていても、クサクサしていても穏やかな気分になるので不思議でありました。皆に、少しでも三太の要素があったなら、と思ったものでございました。ただし仕事が出来ないのは困るけども、とも思ったのではありますが。しかし、三太の姿を見て、少なくとも職場の一人は、少なくとも夏子一人は、穏やかな気分へと導いたのでございますから、この世知辛い世
の中を三太の人柄なら何とかしてくれるのではないか?、と言う根拠無き希望が夏子にはあったのでございました。やはり所詮、それは根拠無きもの、希望叶わず、そして夏子の真意も三太には届かずじまい。
一方、三太には限界が迫っておりました。最後の砦、心の拠り所であった夏子にもとりつく島はございませんのですから。この部屋に籠ってからと言うもの、あれだけ涙を流したと言うのに、まだまだ涙腺から涙が溢れ出ようとは。ロボットじゃない証拠、マシーンじゃない証拠、そして三太は男の子…ついに再び決壊!タオルケットの中に引き戻り、男泣きに泣くのでありました。
夏子の方はと言うと、話すべき事は話したし、伝えるべき事は伝えたので、明日にでも始めなければならぬ引っ越し作業へと戻る事にしました。ただし、ヒーッとか、ワーンとか、エーンとか漫画でしか見た事ないような泣き方を本当にする人間を初めて見たので、もう少し見ていたいと後ろ髪は引かれましたが。
そしてドアは再び閉じれた。広がるは絶望の闇。もうあちらから光が差し込む事も、労りの声が聞こえてくる事もないと言い切って良いでしょう。今日位、男だてらにいくら泣いたとて、誰も責めや致しませぬ。夏子とて、そこは察した、黙認した。誰も言わなきゃ言ってやる、泣いたって良いんだよ。三太、君の涙は美しい。
いやいや、それを良しとしない声が聞こえてや来ませぬか?ほら耳をすましてみて下さいませ。とても小さくて、こもっていて、よく聞き取れませんが、良しとしない的な事を言っているのだけは確かでございます。家来?嫌、あの者は未だに三太の周りを歩き回りながら「おいたわしや」と念仏の様に唱えております。まだまだバターにはなっておりませぬ。
ならば何者?火の気が無いのに煙は立たず。人気が無いのに声は聞こえないはず。あれから未だドアは開かれず…。三太は思いました、人はこれをオカルトと呼ぶと。世に言う超上現象。今日、手を変え品を変え、己に降りかかる不幸の連鎖が度重なり、ついには霊まで呼び寄せてしまうとは。よほど今までの行いが悪かったか、はたまた前世のカルマか。三太は泣きながら、ふと考えました。果たしてこれは怖くて流している涙のか、先より流していた悔し涙の延長か、と混乱したのでありました。正常な反応です、実際、皆様の身にオカルトが起こってもごらんなさい。パニック必至でございましょう。しかし、ここからが三太の個性爆発。これから己の身に起こるであろう、これ以上の新たなる不幸とは一体何たるか?と逆に興味を覚えたのでございます。三太は好奇心半分、怖いもの見たさ半分で、タオルケットから、アマゾンの何処かで未だに見つかっていない希少種のまだ名も無き亀のように、慎重に、警戒心満点でニョキリと顔を出しました。そのスピードたるや、ジャングルで身を
潜めて敵兵を黙視しようとするグリーンベレーの如し。
三太が声がしたよな方角に広がるは一面の闇でございました。やはり誰もおりませぬ、しかしやはり蚊の鳴くよな声と言うか、もはや音の様な物は聞こえて参ります。三太の研ぎ澄まされた神経は、声の聞こえる一点に集中いたしました。耳は誰よりもダンボに、泣き腫らし負けたボクサーの様な目も夜行性動物の如く、誰よりも皿のように一点だけを見つめます。やがて、その一点の暗黒空間は淀み、ねじれ、ガラスのように割れていくではありませんか!これぞ超上現象の中の超上現象、THE超上現象!この現象を、そう呼ばずして何と形容致しましょう。現代科学の頂点を持ってしても謎の解けない、心霊現象、未確認飛行物体、未確認生物をも楽々と越えてしまうであろう、目の前で空間亀裂。夢幻か、はたまた三太の人並み外れた妄想力のなせる業か?妄想世界の住人である家来も、歩みを止め、念仏を唱えるのも忘れ、口あんぐり。妄想の中の人物まで驚く、このビジュアル。その正体は、妄想世界と現実世界、二つの世界を巻き込んだ、三太の目の前で起きている、リアルタイム
で起きている出来事に他ならないのでございました。
これに似た光景を三太は、昔に見た覚えがございました。その昔、テレビのSFドラマの劇中でございます。地球侵略を企む異次元人が現世に現れる、まさにそのシーンのまんまではありませんか。闇の亀裂から出てきた歩み出て来たる姿形も、まさにドラマそのもの。全身は朱色の鎧の様な物を身にまとい、顔には鉄仮面の様な物を被り、全体的にイガイガしている、そのイメージは朱色に引っ張られたか、極悪な蟹と言った所でしょうか。三太へ新たに降りかかる不幸とは、異次元からの侵略者の人類への宣戦布告だとは…。よりによって、何故自分が人類を代表して、そんな歴史的役目を果たさなければならないのか?今日、こんな世の中ならば滅びてしまえ、と呪ったのは確かであります。しかし急でございます。心の準備など出来ておりませぬ。人生の巻く引きなどと言うものは、こんなものなのでしょうか。三太は、己の蒔いた種に後悔いたしたのでございました。あぁ、自分が世の中を滅ぼすであろう異次元蟹人間を呼び寄せてしまった、と。
「三太よ、蟹ではない。我らは海老である。」
海老!?ああ、確かに海老も朱色、蟹とは早とちり、スマンスマン…。ん!?海老とか蟹とかの問題よりも、今の異次元人の声!しかも、三太の頭の片隅に聞き覚えがあるよな、ないよな。それに、三太とも馴れ馴れしく呼んでおりました。初対面のはずなのに名前を知ってるとは、心でも読んだか異次元海老人間。
「思い出してもらえぬとは、ちと辛いぞ、三太よ。我は異次元人などではない。思い出さぬか」
と言われても、三太の頭の中は空っ風。ウンとも、スンとも、ピンとも来ない。海老人間の正体は一体何者でございましょう。しかし、そんな事よりも三太は、異次元人ではないと言う申告に自分が人類滅亡を招かなかった事に安心し、海老人間のまとった朱色の鎧のようなものはなかなか格好良いなと目を奪われておりました。
「怖がるといかんから、お前の趣味に合わせて、こんな格好をしとるのだ。そんな事より考えよ、我の事を思い出さぬか。」




