第八十七幕 借金
「と、とにかくこの女を連れて行きなさい! 家族を人質にとられていれば、あのマスターも手荒なことは出来な」
「ギャァ!」
デルマンが言い終る前に、盛大な音を立てて裏口の扉と何かが空を飛んだ。剥いた芋と鶏の中に突っ込み、ぐったりと動かない何かは、デルマンの護衛と同じ襤褸外套を身に着けていた。
「なっ、なっ、何事」
デルマンの悲鳴に呼応するかのごとく、通気性のよくなった裏口から大きな影がのっそりと現れる。
艶やかな黒い肌は傾きかけた陽光に照り輝き、筋肉で盛り上がる二の腕はヴァイオレットの腰回りほどに太い。肉厚の唇は突き出され、フーと獣のような呼気を吐いていた。
唐突に現れた巨大な黒人の男に圧倒され、デルマン含む三人組は腰が引けていた。黒瑪瑙のように黒々とした瞳が相手をとらえる。
ヒッと声を出したのは誰だったのか。それが引き金になった。
「きょ、今日のところは、これくらいで勘弁してやります」
突き飛ばされ、ヴァイオレットは尻もちをついた。来た時と同じように三人組は駆け回る鶏を蹴り散らしながら去って行く。先程まで井戸の近くで目を回していた男も、起き上がるなり足音を立ててデルマン達の後を追っていった。
「な、なんなの」
「ダイジョブ?」
呆気にとられたヴァイオレットに黒い手が差し伸べられる。先程裏口から人を投げ飛ばした黒人の男は、先程までとは打って変わって穏やかな表情であった。
「ええ、ありがとう。もう大丈夫よ。貴方は……」
「ワタシ、デクワン」
それが名前なのだと、自分を示しながら片言で大男は言った。
デクワンの手を取りヴァイオレットは立ち上がる。追いかけるそぶりを見せたヴァイオレットをデクワンが止めた。
「店中、見る。とてもヒドイ。メチャクチャ。奥さん、ローズさん、大変」
「そうだ! 母さん、姉さん!」
ヴァイオレットはデクワンの手を振り払うと、店内へと飛び込んで行った。それ故、デルマンの去って行った方角に向かって何事かデクワンが囁いていたのを見る事はなかった。
「ヴァイオレット! 無事!?」
「怪我はない!?」
店内に駆け込むのと同じタイミングで、二つの影が外へ飛び出した。
マーガレットとローズ。三人は互いを固く抱きしめあい、一度に相手をおもんばかった。
「一体どうなってるの!? 突然デルマンが来て、父さんが借金してるって言うの!」
「分からないわ。店に来た男もそう言ってた。でも、父さんが私達に何の相談もなく金を貸りるなんて無いでしょう!?」
「二人とも、落ち着いて」
興奮するヴァイオレットの背を、ローズが擦る。
「そうだ。お店は!?」
「酷いありさまよ」
哀し気にマーガレットが項垂れた。
「お客さん達が暴漢を取り押さえてくれなかったら、どうなっていたことか」
「下衆顔の糞野郎が! テメェみてえのがいるから安心して飲めねえんだよ!」
「俺のローズちゃんに手を出そうとしたのが運の尽きだー!」
「奥さんをベッドに誘うとはけしから……命知らずめー!」
「裏切り者の血が見てェか野郎共!」
「アイ、船長!!」
ほら、と示された先には、床に呻きながら転がる男達がいた。楽しみにしていた飲酒タイムを邪魔された酒飲みが怒りながら、あるいは既に出来上がったご老人方が嬉々としてロープで縛りあげている。その先頭に立つバーク老は爛々と目を輝かせていた。
「キャア!」
倒れた男を見て、ヴァイオレットは悲鳴をあげた。
「なんで裸!?」
白の下履きしか身に着けていない男が大の字で床に倒れている。もじゃもじゃ髭と髪のせいで、顔が一番露出面積が少ないという皮肉な結果だ。
「それはね」
「なんの騒ぎだ、こりゃあ!」
「アナタ!」
「父さん!」
「リリー、父さん。二人とも無事で良かった」
マーガレットが説明しようとした矢先に、聞き慣れた声が酒場に響いた。いっきに押し寄せた安心感のまま、彼女達は夫であり父である酒場のマスター、ジョージの元へ駆け寄る。
「マーガレット、ローズ、ヴァイオレット! 怪我はないか!?」
叫んで、ジョージは順番に娘達の無事を確かめて行く。手に持っていた荷物は無造作に放り投げられたが、片手に抱きしめていた末娘のリリーだけは大切に下ろされた。
事の顛末を聞いたジョージは分かりやすく顔をしかめた。
「おいおい、俺はそんな契約書、書いた覚えもねえ。何かの間違いじゃねえか?」
「お店、無くならないわよね?」
不安げな様子でマーガレットが尋ねるが、ジョージはウゥムと唸って腕を組んでいる。その傍らで、ちょいちょいとリリーが父親のズボンを引っ張った。
「おじちゃんは?」
「おじちゃん。あぁ、リックのことか。ヴァイオレット。あいつ、今日来てないのか?」
其の時初めて、ヴァイオレットは隣で皿を洗っていた男の存在を思い出した。
「さっきまで」
いた、と言おうとしてヴァイオレットは止めた。
いた、だろうか? 本当に?
デルマンと対峙するのに夢中で、ヴァイオレットは途中からすっかりと男の存在を忘れていた。最後に見たのは、共に借用書を見た時だった。
扉の無くなった裏口からは井戸が見える。
そこには誰もいなかった。白い肌の芋と水タライが、地面の上に転がっている。
そんな時、誰もが注意を払っていなかった通り沿いに面した正面玄関に人の気配があった。
大人の胴を隠す大きさの、開閉式自由扉が勢いよく音を立て左右に割れる。
「お待たせしましたッ! 迷子のお婆ちゃんをおくっていたら指定された時刻よりも遅くなりました! 倫敦警視庁警邏部所属改め刑事部第二課所属コートニー・バグショー巡査ただいま参上ッス! さぁさぁ、悪漢どもよ、神妙に捕縛してやるッス!」
短く刈り込んだ明るいブロンド、真っ青な目をキラキラさせて飛び込んで来た年若い警察帽子に酒場の視線は集まった。手に持った警棒は武器というより、田舎の少年羊飼いが羊を追い回す時の木の棒に見える。
「もう犯人捕まってるみたいですよー」
その背後からまた年若い警察帽子が顔を出す。のんびりとした口調で、コートニーと名乗る警官よりも生気と色素とやる気を一回りか二回りほど薄くした若者だった。
「それじゃあ、もう本官達は用無しッスか!?」
「後処理を任されたのでは?」
「なるほど! 聞き込みや後処理も立派な仕事ッスからね!」
「がんばらないとですねー」
その会話を聞きながら酒場の飲み客は草を食む羊と、その周囲を走り回る牧羊犬の姿を想像したが、何故規則正しく、海軍ばりに真面目で体格の良い警官たちからそのような印象を受けるのかさっぱりと理解できなかった。
「指定された時刻、ですか?」
二人の警官の会話を聞いていたローズが心配な顔を隠さずに聞いた。
「はい! レイヴ……匿名の方からの情報で、このお店が暴漢に襲われるという通報があったんス」
「なので、僕達が見張ることになってたんですよー」
遅かったようですがー、と羊の様な警官。ニコラス・ベッカーが答えた。
彼の視線の先では、数人の暴漢が丸太に手足を縛り付けられ吊るされている。活発なご老人は、彼らに酒を振りかけ、残飯を口へと押し込んでいた。
それを見たニコラスは懐かしくも高級品である豚の丸焼きの味を思い出し、そっと涎を拭った。




